第百五十四話 魔が除ける
僕と同じ怪談好きの、Kさんという女性から聞いた話だ。
Kさんはかつて、ある怪談系のサークルに所属していた。
活動内容は、主に怪談会や怪奇スポット巡りが中心だった。もともとはネットのオフ会から発展した集まりで、
そのメンバーの中でも一際異彩を放っていたのが、Hさんという男性だ。
Hさんは、皆から「先生」と呼ばれていた。
歳は五十代で、ダルマのようなずんぐりとした体形が印象的だったそうだ。ちなみに職業は大学の専任講師だというから、文字どおり「先生」だったわけである。
このHさん――いや、H先生だが、やたらとお化けのことに詳しかったという。
専門は国文学だが、専ら日本国内の怪談・奇談ばかりを収集していた。さらにその傍ら、民俗学や歴史、美術、現代娯楽など様々な方面から妖怪・幽霊の類を分析し、その頭脳に膨大な知識を蓄えていた――というから、
彼が「先生」と呼ばれていたのは、むしろそんな理由からかもしれない。
もっともこのH先生、その博識さとは裏腹に、言動は非情に残念だったという。
まず、人の言うことを聞かない。
強情だとか我がままだとかいうのではない。本当に「聞いていない」のである。
だいたいいつも何か考え事をしているからだろうか。周りが話しかけても反応がなく、再三呼びかけてようやく返事をする。しかし返事はするが、言われた内容はまったく理解していない。
例えばオフ会の最中、自由時間になった時に、「先生、一時間後にどこそこで集合ですよ」と言うと、「はい」と返事があってから数秒後に「何ですか?」と返ってくる。
仕方なくもう一度伝えるのだが、やはり聞いていない。こういう場合は、絶対に一時間経っても集合場所には現れない。
代わりに、なぜか隣町の駅にいる。そしてホームから、『みんな遅いですよ。今どこ?』と電話してくる。謎である。
またH先生は、ちょくちょく下らない冗談を言って、一人で笑っていることがある。
「この井戸、ここで幽霊が水を飲んだっていうけど、腰から下がないからオシッコできないんじゃないかな。ねえオシッコ。ひひひ」
……こんな感じである。残念ながら。
とは言え、決して周りから嫌われていたわけではない。手がかかるなりに愛されていた……かどうかは分からないが、それなりに慕われていたそうだ。
まあ、ある意味、マスコットのような扱いだったのかもしれない。それはともかく――さて、ここからが本題である。
実はこのH先生には、少々面白い逸話がある。
それは、Kさんを含むサークルメンバーの怪奇体験に関係するものだ。
ある年の春のことだ。
Kさん達のサークルで、関東某県の怪奇スポット巡りをすることになった。
対象はほぼ神社である。一応廃墟なども候補には挙がったが、そちらは許可なく入ると不法侵入になる可能性があるので、やめておいたという。真っ当な判断である。
参加者は十五人程度で、当日は午前中から複数の車に分乗して、スポットを回り始めた。
ちなみにH先生も参加予定だったが、用事があるとかで、後から遅れて合流することになっていた。
問題の事件はその日の午後、H先生を除くメンバーが、ちょうど三つ目のスポットを訪れていた時に起きた。
そこは、森に囲まれた廃神社だった。
鳥居は欠け、
一同は荒れ放題の境内に入り、「おお」とか「すげぇ」とか言いながら、まずはお参りを済ませ、それからパシャパシャと辺りの写真を撮り始めた。
Kさんも、ボロボロの狛犬を何枚か撮影した。
一対の狛犬は、
最後に、社の前で全員で記念撮影をすることになった。
賽銭箱を囲むようにして、ぞろぞろと並ぶ。その時だ。
不意にどこかで、パキッ、と枝の折れるような音がした。
始めは、誰も気にせずにいた。しかしもう一度、パキッ、と鳴ったところで、一人が顔を上げて辺りを見た。
そこへ
「ねえ、なんか変な音が――」
言いかけた時だった。
突然静寂を掻き消すかのように、音が激しく鳴り始めた。
パキッ、パキッ、パキッ、パキッ、パキッ、パキッ!
一同はハッとして、背後を振り返った。
音は、社の中から聞こえている。
誰かが悲鳴を上げた。
次いでKさんも悲鳴を上げ、さらにその悲鳴につられて、周囲が悲鳴で満たされた。
逃げろ、と一人が叫び、全員がいっせいに鳥居に向かって走り出した。
その途端――。
バァン! とすぐ背後で、社の扉が開く音がした。
そして、追ってきた。
もっとも、Kさん達が振り返って何かを見たわけではない。ただ、音が――。
パキッ、パキッ、パキッ! という音が、逃げるKさん達を追って、どんどん迫ってきた。
一同は、とにかく走った。
鳥居さえ抜ければ大丈夫だと、そう信じながら、全速力で走った。
……なのに、だ。
パキッ、パキッ、パキッ、パキッ、パキッ、パキッ!
鳥居から神社の外へ飛び出してなお、音は止まない。
森の中を、どこまでも追ってくる。
やがて、近くに停めておいた車に辿り着く。
まだ音は止まない。
きっと車に乗っても止まないだろう、と誰もが思った。
そして、ここへ来たことを後悔した。
音はもう、すぐそこまで迫っている。
駄目だ――とすべてを諦めようとした。
その時だ。
「やあ、遅れちゃいました」
不意に間の抜けた声が、森道の向こうから響いた。
見れば、H先生が嬉しそうに手を振りながら、のこのこと歩いてくる。
いやそれどころじゃないんだ、と一人が叫んだ。しかしH先生は、もちろん人の話など聞いていない。
「いやぁ、バスに乗ったら一つ隣の駅に行っちゃったんですよ。しょうがないから、そこから徒歩で神社に向かおうと思ったんだけど、地図で見たら一直線なのに、実際は途中で道が曲がってるんだもん。ひどいよね。ね?」
「いや、実際に曲がってるなら、地図で見たって曲がってるでしょ」
「そんなことないよ。ほらこの地図。あれ? 曲がってるね。変だな。でも一直線だと思ったんだよ」
「思わないで下さい。だいたいバス停から怪奇スポットまで、一直線の道が造られてるわけないでしょ――」
……と、ついいつもの調子でやり取りをしてしまったのは、H先生の妙なペースの賜物だったのかもしれない。
気がつけば、Kさん達は足を止めていた。
音は――止んでいる。
恐る恐る後ろを振り返ったが、何もいない。ただ静かな樹々の彼方に、ひっそりと廃神社が佇むばかりである。
社の扉も、ここから見る限り、しっかりと閉まっている。
今のは何だったんだろう、とKさんは首を傾げた。
「先生、今来た時、私達の後ろに何か見えませんでした?」
「え、何? 何かいるんですか? どこ、どこ?」
先生はそう言うと、なぜか自分の後ろを見ようと、その場でくるくる回転し始めた。
……まあ、要は何もいなかった、ということだ。
ならばあの怪音は、自分達の気のせいだったのか。一種の集団幻覚か。
それとも――H先生が来たから消えたのか。
Kさんはそっと、周りを見た。おそらく他の皆も同じことを考えていたのだろう。全員といっせいに目が合う。
まさか、とは思う。しかし、もし怪異にとって現れ辛い状況があるとしたら――。
……それは、H先生のような人がいる時なのかもしれない。
ともあれ、こうして一同は無事、神社を後にした。
もっとも、後日しっかりと、別の神社でお祓いを受けたそうだ。
また、こんな逸話もある。こちらはKさんが、同じサークルメンバーのSさんという男性から聞いた話だ。
ある年の夏、H先生を含む十人ほどで、泊まりがけで旅行に行った。
目的は、例によって怪奇スポット巡りである。しかし今回の事件は、宿泊先の旅館で起きた。
深夜のことである。
その時Sさんは、男性用に割り振られた部屋で、一人寝つけずにいた。
他のメンバーは、すでにぐっすり眠っている。特にH先生など、Sさんのすぐ隣で盛大にいびきをかいている。
……寝つけないのは、そのせいかもしれない。
Sさんが諦め半分で目を閉じてぼんやりしていると、そのうちに、H先生のいびきがピタリと止んだ。
それからモゾモゾと身じろぎし、起き上がる気配があった。
どうしたんだろう、と目を開けて隣を見る。
同時にH先生が布団から出て、のそりと立ち上がる。
そして眠気に満ちた顔をゴシゴシ擦ると、ふと、すぐそばでSさんが目を開けていることに気づいてか。
「ちょっとトイレ。ひひひ」
特に意味もなくそう笑い、ドタドタと自重しない足取りで、部屋の入り口に向かっていく。
Sさんがリアクションに困っている中、H先生は二人ほど軽く蹴っ飛ばして、「ああごめんなさい」と騒ぎながら、ドアを開けて廊下に出ていった。
何とも傍迷惑なトイレである。もっとも、これで他に誰も起きなかったのは、奇跡かもしれない。
……ともあれ、部屋は静かになった。
もういびきをかいている人はいない。寝てしまうなら今だ。
Sさんは改めて目を閉じ、ゆっくりと深呼吸した。
意識をリラックスさせ、遠退いていた眠気を少しずつ手繰り寄せていく。そうして、次第にウトウトとしてきた時だ。
ふと――部屋の入り口が開く音がした。
ああH先生が戻ってきたんだな、と思った。
ただ、それにしては静かだ。H先生特有の騒々しさがない。
代わりに、不意に部屋の温度が下がった気がした。
まだ夏だというのに、頬にひんやりとした風が吹きつけてくる。
汗ばんだ首筋に、ゾクリ、と悪寒が走る。
Sさんは不快に思い、はだけていた布団を被ろうと、手を動かしかけた。
その時だ。
……ヒタ。
何か、音が聞こえた。
思わず手を止める。何だろうと思い、目を閉じたまま、耳を澄ます。
……ヒタ。
……ヒタ。
やはり、聞こえる。
誰かの足音のように思える。
……ヒタ。
……ヒタ。
……ヒタ。
畳の上を、静かに歩いている。
この足音は、おそらくH先生ではない。
しかし――だとしたら、いったい誰なのか。
そう思った瞬間、とてつもない不安が、Sさんを襲った。
耳で足音を追う。
……ヒタ。……ヒタ。
足音は途切れることなく、畳の上をゆっくりと歩いている。
布団と布団の間を縫うように。そして、次第にこちらに近づいてくる。
……ヒタ。……ヒタ
……ヒタ。……ヒタ。
冷たい空気が、じわじわと迫ってくるのが分かる。
――いったい、何が来たのか。
――いったい、何をしに来たのか。
答えは分からない。ただ間違いなく言えるのは、絶対にあれと関わってはならない、ということだ。
理屈ではない。本能で、Sさんはそう感じた。
こうなったら、とにかく寝たふりでやり過ごすしかない。
しかし、静かに寝息を立てようにも、速まった胸の鼓動がそれを許さない。
肺が荒ぶり、口から余計な息が漏れる。これでは、自分が起きていることが、あれに気づかれてしまう。
足音が近い。
……ヒタ。
……ヒタ。……ヒタ。
……ヒタ。……ヒタ。……ヒタ。
どんどん近づいてくる。
やがてすぐ真横で 畳が踏み鳴らされるのが分かった。
そして――ピタリ、と枕元で立ち止まった。
ひゅうひゅうと、何かの息遣いが聞こえる。
顔に、冷たい息がかかる。
――見られている。
得体の知れない「何か」が、今、自分の顔を覗き込んでいる。
上がりそうになる悲鳴を、懸命に堪える。
開けたくなる目蓋を、頑なに閉じ続ける。
しかし、もう限界だった。
Sさんは観念して、目を開けようとした。
その時だ。
バタン! と部屋のドアが盛大に開く音がした。
そして、灯りが点いた。
「あ、ごめんなさい。間違って点けちゃった」
聞き覚えのある声が響いた。
同時に、ふっと冷たい空気が掻き消えた。
Sさんが恐る恐る目を開ける。……そこには、
怪しいものは、すでにどこにもいない。
夏の蒸し暑い空気が、冷え切っていた肌を温め出したのが分かる。
――どうやら、H先生に助けられたらしい。
Sさんは安堵し、照明が再び落ちるのを待って、改めて目を閉じた。
隣の布団で、またもH先生がいびきをかき始めたが、今度は不思議と心安らぐ気がした。
……以上が、H先生の逸話である。
何と言うか――「引き寄せてしまう人」というのは時々聞くが、「勝手に追い払ってしまう人」というのは、だいぶ珍しい気がする。
ちなみにこれらの事件の後、サークルのメンバーの間では、H先生の写真を携帯電話の待ち受け画像にするのが流行ったらしい。
何でも、魔除けのお守りになるから――だそうだ。
果たして本当だろうか。効き目の程が気になるところである。
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