第百五十八話 迷惑メール
ある時Fさんという若い男性作家から、こんな相談を受けた。
「最近よく変なメールが来るんですよ。どうすればいいですかね」
聞けば、仕事で使っている自宅のパソコンのアドレスに、ある知らない相手から頻繁にメールが届くのだという。
ただし、スパムの類ではない。文面は、きちんとFさんに宛てたものになっている。
問題は、その内容だ。
まず『こんにちはF先生』から始まり、続いて過去数日のFさんの行動――出かけた場所や食べたもの――が、あれやこれやと書かれる。
ただしその中身は、ほぼメールの送り主の妄想である。おそらく、Fさんが自著の後書きに書いた日常報告をベースに、想像で描いているのだろう。
しかもその妄想の中では、なぜか送り主がFさんに同伴していたことになっている。
そして、まるで恋人がデートの思い出を振り返るかのように、楽しげな文章が延々と
……正直、ちょっと関わり合いたくない相手である。
おそらくストーカーというやつだろう。幸い今のところ実害はないようだが、こんなメールが毎日のように送られてくるだけでも、精神的にはきつい。
ちなみに、送り主のアドレスに心当たりはないという。
「この人は女性ですかね。とりあえず、Fさんへの好意はあるみたいですけど」
僕が冗談めかして言うと、Fさんは、「むしろそれ、気持ち悪いですから」と、顔をしかめて返した。
ともあれ、彼はこの一連のメールには、一切返信をしていないらしい。賢明だろう。
ただ、扱いにはだいぶ困っているようだ。
「こういうの、どうするべきなんですかね。警察に相談とか?」
「いきなりそこまでしなくても、とりあえずブロックしちゃえばいいんじゃないですか?」
「それも考えたんですけど……。でも、万が一のことがあった場合、相手のメールが証拠として手元にあった方がいいんじゃないか……と思って」
なるほど、それは一理ある。
実際Fさんはここ一箇月ほど、問題の相手から届いたメールを、すべて迷惑フォルダに直行させる形で残しているらしい。もっとも、件名すら目を通していないというから、保存ではなく放置に近いが。
それでも――メールは毎日のように来る。
日に日に、迷惑フォルダの横に表示される件数表示が、膨れ上がっていく。
今やFさんは、その数字を見るのさえ憂鬱だという。
「もうアドレス変えるしかないですかねぇ。面倒だなぁ」
結局そんなFさんの呟きで、この日の会話は締められた。
それから数週間が経ってのことだ。
Fさんから、メールアドレスを変更したとの連絡があった。ついに、である。
さらにその数日後、某所でFさんと顔を合わせる機会があり、当然話題はこの一件になった。
聞けば、彼がアドレスを変える決意をしたのは、きっかけがあったから――らしい。
「こないだ、久々に迷惑フォルダの中を覗いたんですよ」
「ああ、ずっとほったらかしにしてたんですね?」
「はい。でも、それが……並んでいた件名が、だいぶヤバくて」
「ヤバい?」
「あの……開封確認っていうんですかね。そういう機能あるでしょ? 自分の送ったメールを、相手がちゃんと開いたかどうか確認するやつ。たぶん向こうはその機能を使ってたと思うんですけど――」
とにかくFさんが迷惑フォルダを覗いた時、そこには大量の、まったく同じ件名が並んでいたという。
『早く読んで』
『早く読んで』
『早く読んで』
……これが、溜まったメールの半分以上を埋め尽くしていたそうだ。
だから、さすがにアドレスを変えた――というわけである。
「で、それ以降メールは……?」
「来なくなりましたよ。新しいのは」
Fさんがそう答えたので、僕は我がことのように安堵した。これなら解決したも同然だ。
しかしFさんは、少しの間目を泳がせてから、こう続けた。
「それが……あの、こういうことって可能なんですかね。相手に送ったメールを、勝手に相手のパソコンに朗読させるのって……」
「うーん……。朗読ってことは、音声で、ですよね? 一応メール自体にそういうプログラムを仕込めば、可能そうですけど……。いや、僕もそんなに詳しくないんで、適当に言ってますけど」
「過去に送ったメールを、後から朗読させることは?」
「さ、さあ……」
いや、そもそもこの質問は、どういう意図だ。
僕は――少し考えてから、Fさんに尋ねた。
「……ええと、つまり例のメールを、パソコンが勝手に読み上げてるんですか?」
「……そうだといいんですけどね」
聞けば、Fさん曰く――。
アドレスを変更して以来、夜寝ていると、仕事部屋のパソコンの方から声が聞こえてくるという。
それは女の声で、例のメールを、ぼそぼそと読み上げているらしい。
ただし声ばかりで、姿は見えない。
部屋の灯りを点けても、誰もいない。
ちなみにFさんは、一人暮らしである。
「……あのFさん、それって、本当にパソコンの音声なんですか?」
「……いや、そうだったらいいな、と思いまして」
ただし寝る時は、当然パソコンのスイッチもオフにしてあるという。
「なんかもう、パソコン自体買い替えた方がいいかもですね……」
Fさんは疲れ切った表情で、そう呟いた。
その後Fさんは、突然誰にも告げずに、どこかへ引っ越してしまった。
同時にメールアドレスや携帯番号もすべて変えたようで、あらゆる連絡先が断たれた。
だから、彼が結局どうなったのか、僕は知らない。
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