第百二十二話 誘われた
N県に在住のHさんという男性から聞いた話だ。
もう十年以上も前、当時Hさんは、県内某山の
そこは観光地としても人気のスポットで、特に樹々の葉が赤く色づく季節ともなれば、たくさんの利用客で賑わいを見せていた。
そんな秋のことである。
ある土曜日の午後、Hさんのいるキャンプ場内の管理事務所に、事件の報せが入った。
何でも、利用客の一人が行方不明になったらしい。
報せてきたのは男子大学生のグループだった。いなくなったのは、彼らの仲間だという。
最初は、広いキャンプ場ではぐれたのかと思った。しかし話を聞いてみると、どうにも様子がおかしい。
「誘われた――って言ってたんです」
学生の一人は、Hさんに対してそう説明した。
……詳しくはこうだ。
まずキャンプ場に着いた彼らは、テントの設営をした後で、バーベキューの準備を始めた。
当然全員で手分けして作業を進めていたのだが、その時テントを離れていた一人の学生――仮にK君とする――が、戻ってきてから、こんなことを言った。
「さっき、同じ歳ぐらいの女の子に話しかけられてさ。あっちは女子ばかりだから、よかったら一緒にどうですかって誘われたんだけど――」
その言葉に一同が乗り気になったのは、言うまでもない。ただ、すでに火まで起こしてしまっているので、今すぐここを離れて合流というのは難しい。
「その子達がこっちに来られないかな。そうすれば一緒にバーベキューできるんだけど」
「いや、向こうも食事の準備ができているから、俺達に来てほしいって言ってた」
「どこのテント?」
「あっち」
そう言ってK君は、まっすぐに彼方を指差した。
その先は、なぜかキャンプ場から、大きく外れている。
見えるのは、ただ真っ赤に色づき
「……え、山の中なの?」
一人の問いかけに、K君はコクンと首を縦に振った。
「つまりその子達は登山客ってこと?」
「いや、キャンプしにきたって言ってた」
「でも、このキャンプ場じゃないんだろ?」
言われてK君は、またもコクンと頷く。
一同は顔を見合わせた。それから辺りを見渡したが、やはりそれらしき女子グループは、どこにも見当たらない。
どうにも要領を得ない話である。なので、とりあえず合流は後回しにして、今は食事にしようということになったのだが――。
「せっかくだから、ちょっと挨拶してこようよ」
今度は別の一人が、そんなことを言い出した。
何なら自分だけでも向こうに合流する、と言わんばかりである。そうなると、抜け駆けは許すまじと、それに同調する仲間が出てくる。
結局数人がK君に案内されて、その女子グループのもとへ顔を出しにいくことになった。
残りの学生達は苦笑しながら、彼らを見送った。
ところが――それからわずか十分ほどで、抜け駆け組がぞろぞろと引き返してきた。
しかもあろうことか、一人がK君を、半ば羽交い絞めにしている。
残っていたメンバーが目を丸くして、何があったのかと尋ねると、K君を抑えていた学生が、こんなことを言った。
「いや、Kがさ。いきなり山の中に突っ込んでいこうとしたんだよ。……崖をよじ登って」
そう言って彼は、登山道から大きく外れた地点を
そこは高さ十数メートルに渡って、ゴツゴツとした剥き出しの岩肌が、垂直に切り立っている場所だった。一応ところどころに草や
それで一同は、慌ててK君を引き止めたという。
しかしK君は、ここから登るんだと言って聞かなかった。まるで何かに取り憑かれたように、懸命に崖にしがみつこうとする。
だから――無理やり連れ戻した、というわけだ。
実際K君の様子は、今なお明らかにおかしかった。
ぼんやりと山を見つめ、「会いにいかないと……。会いにいかないと……」と、ブツブツ呟いている。
一同は相談の末、K君をテントで休ませることにした。
そして、中断されていたバーベキューの続きに取りかかった。
……それから三十分後のことだ。
……K君の姿がテントの中にないと、彼らが気づいたのは。
一同は慌ててキャンプ場を隈なく捜したが、K君はどこにもいなかった。
ただ、こんな目撃情報があった。
K君らしき若い男性が、崖をよじ登って山中に消えていった――というのだ。
学生達から事情を聞いたHさんは、それからすぐに警察に通報すると同時に、地元から捜索隊を出してもらった。
……K君が見つかったのは、一時間後のことだ。
登山道から大きく離れた森の中に、一人でいたという。
幸い命に別状はなかった。ただ――その様子は、明らかに異常だった。
真っ赤な落ち葉がハラハラと舞う中、K君はまるで壊れた機械のように、手足を出鱈目に動かして、踊り狂っていたそうだ。
捜索隊のメンバーが声をかけたが、彼は踊るのをやめなかった。
その眼差しは虚ろで、まるであらぬ方を見つめていた。
唇の端からは、泡が漏れていた。
取り押さえると、アルコールの臭いがした。
だから捜索隊の一人は、「何だよ、人騒がせな酔っ払いだな」と、内心思ったそうだ。
とにかく、こうしてK君は無事保護され、麓の病院に運ばれた。しかし、彼が見つかった時の話を聞いた学生達は、皆揃って首を傾げた。
「変ですね。Kはアルコールが苦手で、一滴も飲めないはずなんですけど……」
だからバーベキューをしている間も、彼はジュースばかり飲んでいたそうだ。
……K君は、いったいいつ、アルコールを口にしたのだろう。
何とも奇妙な話だった。
なお、その後病院で意識を取り戻したK君は、検査の結果「異常なし」と判断され、幸い大きな怪我もなかったため、その日のうちに退院となった。
彼がキャンプ場に戻ってきたのは、すでに陽の沈みかけた夕暮れのことだった。
迎えに出た仲間達は、さっそく口々に尋ねた。
なぜあんな場所に行ったのか。どうして酒を飲んだのか。そもそも、何が起きたのか――。
……しかしK君の口からは、満足の行く答えは返ってこなかった。
ただ彼は一言、こう呟いたそうだ。
「誘われたんだ」
答えと思しきものは、そればかりだった。
いったいK君は、誰に誘われたというのだろう。
ちなみに彼が口にしていた「女子ばかりのグループ」は、キャンプ場にはもちろんのこと、その日の登山客の中にも、まったくいなかったそうだ。
……さて、ここから先はHさんが直接関わったわけではないため、完全に又聞きの話となる。
その日の夜のことだ。
日中の一件こそあったものの、そこはせっかくの行楽である。学生達はキャンプファイヤーを囲んで、賑やかに酒盛りを始めた。
もっともK君だけは、さすがに疲れたのか、一足早くテントに戻って休んでいた。
そのうちに時が過ぎ、宴はお開きとなった。一同はざっと後片づけを済ませ、テントに戻った時には、すでに十時近くになっていた。
こういう場所では、夜は冷え込む。あとは寝袋にくるまりながら、眠くなるまで談笑するばかりだ。
ところが――テントの中を覗いた途端、学生達はギョッとした。
……K君の姿が、またもない。
まさか、と嫌な予感が全員に走った。すでに酔いなど吹き飛んでいた。
それから彼らは手に手に懐中電灯を持って、テントの周りを捜し出した。
もちろんトイレや炊事場も見た。
念のため、管理事務所の方にも確かめた。
しかし、K君はどこにもいない。
「もしかして、またあそこに行ったんじゃ……」
一人が呟いた。その言葉を否定できる者は、誰もいなかった。
彼らは記憶を頼りに、昼間K君が登ろうとした――そして本当に登ってしまった――あの崖の下に向かって、歩き始めた。
夜のキャンプ場はすでに静まり返り、ただ草を踏み鳴らす自分達の足音と息遣いだけが、耳に響く。
それでも、方々に設営されたテントから光が漏れているのは、せめてもの救いだった。もしこれがなければ、街灯一つない暗闇の中で、捜す心も折れていたに違いない。
テントの灯と懐中電灯を頼りに、彼らは懸命に崖に向かった。
そして、間もなく着こうというところで――。
懐中電灯の光が、前方に人影を捉えた。
K君だった。
「おい、K!」
一人が叫んだ。
K君は立ち止まらなかった。
彼は振り向きすらせず足早に、ザッ、ザッ、と草の上を歩いていく。
懐中電灯の光が集まって、その背を照らす。
そこで――ようやくK君の向く先が、露わになった。
……K君は、右腕を前に突き出していた。
……その腕を、別の誰かが、しっかりとつかんでいた。
相手の姿は、光の外の濃い闇に溶け込んで、見えなかった。
ただ、K君をつかむ手だけは、はっきりと見えた。
白くて細い――女の手だった。
学生達はそれに気づいた途端、ゾクリ、と背に悪寒を走らせ、思わず足を止めた。
そのわずかな一瞬の隙に、K君は女に手を引かれたまま、再び闇の中へと足早に消えていった。
「おい、今の……」
一人が囁こうとした。
その途端、まるで彼の声を掻き消すように――。
――ザッ。
――ザ、ザッ。
――ザァァァァッ……!
大きな草音が鳴った。
音は激しく夜気を乱し、地表から頭上へと、駆け上がるようにして消えていった。
そして静寂が戻った。
誰もが恐怖のあまり、無言になっていた。
しかし、何が起きたのかは、理解できた。
……K君は、また崖を登っていったのだ。
……あの女に引きずられて。
しかし、すでに彼を追えるような時間ではなかった。
いや、たとえこれが昼間であっても、もはや彼を救い出すことは――。
翌朝になって、再びK君の捜索がおこなわれた。
今回捜索隊が始めに向かったのは、昨日彼が発見された、あの地点だった。登山道から大きく離れた、紅葉舞う森の中である。
だがそこに、K君の姿はなかった。
……いや、厳密に言えば、痕跡だけはあった。
そこには、ボロボロに切り裂かれたK君の衣服だけが、残骸となって落ちていたという。
しかし肝心のK君が、どこにも見当たらない。
ただし周囲に血痕などがないことから、動物に襲われたわけでもないらしい。
果たしてK君は、夜の山中でボロボロの服だけを残して、どこへ消えてしまったのだろう。
そして――彼の腕を引っ張っていた女は、何者だったのだろう。
答えは謎のまま、結局K君は見つかることなく、やがて捜索は打ち切りになった――ということだ。
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