第百九十九話 聞こえない

 O県に在住のNさんは、小さい頃から、ある奇妙な現象に悩まされているという。

 不意に、人の声が聞こえなくなる時があるのだ。

 ただし難聴の類ではない。

 周囲の音を拾うことは普通にできる。話している自分の声も聞こえる。

 なのに、一人だけ――。

 ……ある特定の人物の声だけが、ふっ、と途切れるのである。


 例えば、こんなことがあった。

 Nさんが園児だった頃の話だ。

 夏休みに父方の実家に帰った時、一緒に遊んでもらっていた祖父の声が、不意に途切れた。

 どうしたのだろう、とNさんは不思議そうに、祖父の顔を見た。

 祖父は笑顔で、Nさんに何か話しかけている。

 ……なのに、その声がまったく聞こえない。

 だから、ただ口をパクパクさせているだけにしか見えない。

 Nさんが祖父にそれを言うと、祖父はふと不安気な顔になって、台所にいたNさんの母親を呼んだ。

「どうしたの? Nの耳がおかしいって……」

 そう言って飛んできた母の声は、普通に聞くことができた。

 いや、それに自分の声や、近くで点いているテレビの音も、ちゃんと聞こえる。

 やはり――祖父の声だけが、聞こえないのだ。

 Nさんは改めて、それを訴えた。

 祖父と母は、Nさんの耳を摘まんだり、そばで物を鳴らしたりしながらいろいろ確かめ、揃って首を傾げた。

 ただ、そのうちに――数分後のことだったそうだが――ようやく祖父の声が、戻ってきた。

「もう聞こえるよ」

 Nさんがそう告げると、母は「おうちに戻ったら、耳のお医者さんに診てもらおうね」と、心配そうに言った。

 病院は嫌だな、とNさんは幼心に思ったそうだ。

 しかし――事態はその夜、急転することになった。

 祖父が倒れたのだ。

 心臓発作だった。

 祖父は救急車で病院に搬送されたが、間に合わず、夜明けを待たずして息を引き取った。

「……予兆だったのかな」

 後で小さくそう呟いた母に、Nさんはただ、首を傾げるばかりだったという。


 また、こんなこともあった。

 Nさんが小学生の頃、近所の公園で友達数人と遊んでいた時のことだ。

 不意に××ちゃんという子が、口をパクパクさせ始めた。

 Nさんが奇妙に思ってよく見ると、どうやら何か話しているのに、声だけが出ていないらしい。

 ……いや、出ていないのではない。他の友達は皆、××ちゃんと普通に会話している。

 つまり――Nさんだけが、××ちゃんの声を聞けていないのだ。

 爺ちゃんの時と同じだな、とNさんはおぼろに思った。

 もっとも、この奇妙な状態が続いたのは、やはり数分の間だけだった。

 その後Nさんの聴覚は、あっさりと元に戻った。

 もう××ちゃんの声は、普通に聞こえる。だからNさんも、それ以上は気にしなかったそうだ。

 ……Nさんが××ちゃんの死を知ったのは、翌朝のことだ。

 昨日皆と別れた後、帰り道の途中で、車にねられたらしい。

 そして――この時からだ。

 「誰かの声が聞こえなくなる」という不可解な現象が持つそのに、Nさんが気づいたのは。


 こんなこともあった。

 ある時テレビドラマを見ていたら、画面に映っていたある俳優の声が、プツリと途切れた。

 テレビの故障ではない。他の出演者の台詞は聞こえるし、バックの音楽もしっかりと流れている。

 ただ一人、その俳優の声だけが、まったく聞こえてこないのだ。

 Nさんは「まただ……」と不安になりながら、テレビの前を離れた。

 その俳優は数日後に急逝し、大々的にニュースになったそうだ。


 近所の一家の声が、丸ごと聞こえなくなったこともあった。

 当時Nさんは中学生だった。

 通学途中、ちょうどその家の前を通りかかった時、玄関から出てきた家族が全員で口をパクパクさせているところに出くわした。

 ……警告すべきだったのかは、分からない。

 近所とはいえ交流があるわけではなく、ろくに顔も知らない同士だった。だから、おそらく声をかけて事情を話しても、不審がられるだけで終わっていただろう。

 結局Nさんは、黙ってその場を通り過ぎた。

 ……消防車のサイレンが激しく鳴るのを聞いたのは、日付けが変わった深夜のことだ。 

 音は、近所で停まった。

 どの家で異変が起きているのかは、窓から眺めずとも分かった。


 この奇妙な現象は、Nさんが大人になってからも続いているという。

 雑踏の中を歩いていると、時折、声を伴わずに口を動かしている人を見かける。

 酷い時には、そういう人が数人で固まっている場合もある。

 また、聞こえなくなるのは、「声」だけに留まらない。

 ある時など、まったく走行音を立てずに走るバイクを見た。

 そのバイクは、直後に交差点で横転し、乗っていた男性ごとガードレールに激突して、動かなくなった。


 こんな日々を送るうちに、Nさんは、自然と無口になっていったそうだ。

 ――いつかある日突然、自分の声が聞こえなくなるのではないか。

 それを思うと恐ろしくて、とてもお喋りなどできない――ということだ。

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