第二百話 チクチク
Yさんという女性が、まだ中学生だった時の話だ。
春休みに合わせて、都心部の町に引っ越しをした。
新居は一戸建てだった。中古だが、以前暮らしていた集合住宅よりも広々としていて、五人家族であるYさんの家には、ちょうどいい物件だった。
ただ、そんな快適さとは裏腹に、この家に引っ越してからというもの、Yさんは奇妙な現象に苛まれたという。
……腹痛だ。
それは決まって、夜に起きた。
下腹がチクチクと、まるで針で突かれているかのように、小さく痛むのである。
決して悶え苦しむほどではなく、眠って一晩も経てば治ってしまうのだが、また次の夜になると、同じように痛み出す。
しかも――これが、Yさんだけではない。
Yさんが家族に相談して分かったのだが、どうも母親と高校生の姉も、引っ越して以来、まったく同じ症状を抱えているようなのである。
原因は分からない。とりあえず病院には行ってみたものの、三人揃って精密検査を受けても、何の異常も見つからない。
ちなみに父親と大学生の兄は、二人とも、その手の痛みは感じたことがないという。つまり家族のうちで、なぜか女ばかりが腹痛を訴えている――というわけだ。
医者は、精神的なストレスが原因ではないか、と言った。医学的に見れば、体そのものに具体的な原因が見られない以上、そう診断するしかなかったのだろう。
三人の腹痛は、その後も途切れることなく続き、半月が経った。
微かな痛みとはいえ、原因が分からないままというのは、不安で仕方がない。いっそ別の病院でもう一度診てもらおうかと、そういう話になったのだが――。
……ちょうどそんな時だ。
Yさんが、原因と思しきものを突き止めたのは。
きっかけは、ある夜に見た夢だった。
夢の中で、Yさんは家の玄関に立っていた。
廊下に灯りが点いていないのを気にしながら、いつものように靴を脱いで、中に上がろうとする。だがそこで、不意に違和感を覚えた。
玄関にあるはずの家族の靴が、どこにも見当たらない。
代わりに、知らない女物の靴が一組、雑多に脱ぎ散らかされている。
首を傾げながら廊下に上がり、周りを見回した。
――何かが違う。
真っ先に、そう感じた。
間取りは変わらない。
壁紙やドアの色も変わらない。
ただ――空気が違っている。
自分が暮らす家とは異なる、別の空気が漂っている。
におい。温度。微かな
Yさんは困惑しながら、リビングのドアを開けた。
……見知らぬ家具が並んでいた。
テーブルも、椅子も、テレビも、自分の家にあるものとは、明らかに違う。
――あ、そうか。
Yさんは心の中で
――これは、私達が引っ越してくる前なんだ。
そう思い、納得する。
Yさんは一度リビングを出て、自分の部屋に向かった。
部屋は二階にある。薄暗い廊下を伝い、階段を上る。
ドアを開けてみた。
やはり自分のものは、何一つ置いていなかった。
ベッド。勉強机。本棚……。どれもない。
代わりに、窓際にベビーベッドが一台、据えられていた。
近寄ってみると、酷く埃を被っていた。
赤ちゃんがいたのかな、と思ったが、ベビーベッド以外に、それらしき痕跡は何もなかった。
Yさんは続いて、姉と兄の部屋も覗いてみた。
ガランとしていた。
家具も荷物も、何もない。これでは、ただの空き部屋である。
――いったいどんな人が住んでいるんだろう。
奇妙に思いながら、もう一度一階に下りた。
すぐ目の前に、和室の
開けてみた。
と、そこに――。
……いた。
女だった。
長い髪をボサボサに乱した、部屋着姿の痩せこけた若い女が、真っ暗な和室の中央に
「あ……」
Yさんが思わず声を漏らす。だが女は、こちらに気づいた様子もなく、ごそごそと手を動かして、何かをやっている。
――私が見えてないのかな。
そう思いながら、Yさんは目を凝らした。
そして、気づいた。
女の正面の畳が取り除かれ、下の板張りが剥き出しになっているのだ。
あれ、と思いながら見ていると、不意に女が、細い指を板の一枚にかけた。
板が持ち上がった。
和室の中央に、細長い穴がぽっかりと口を開けた。
その穴に――。
……女が、何かを放り入れるのが見えた。
夢は、そこで途切れた。
目を覚ました後でYさんは、さっそくこのことを、姉と兄に話して聞かせた。
何しろ夢にしては妙にリアルだったから、気になって仕方がない。実際に和室を調べてみたい――と訴えると、二人とも面白がって、すぐ乗り気になってくれた。
調査はその日の夕方、三人が
和室へ行き、兄が畳をどかし、黒ずんだ板を持ち上げる。すぐ目の前に、夢で見たのと同じ細長い穴が、カビの臭気を伴って現れる。
Yさんは目を凝らして、中を覗き込んでみた。
腕を挿し入れてようやく届くほどの深さのところに、何かが転がっているのが見えた。
大人の手の平ほどのサイズで、黒く、丸い。
しかし、はっきりとは判別できない。
当然、引っ張り出してみよう、ということになった。
さっそく兄が軍手をはめ、穴に腕を挿し入れた。
「なんかチクチクする」
不快そうに言いながら、黒い物体を引っ張り上げる。そして、埃とクモの巣にまみれたそれを、横に敷いた新聞紙の上に、そっと置いた。
Yさんは興味津々の面持ちで、その物体に視線を向け――。
思わず息を呑んだ。
隣で姉が真っ青になるのが分かった。
兄も、自分が引き上げたものが何なのかを知って、絶句している。
……それは一見、
黒い布に
小さな球状のパーツが一つ。それから、細長い円柱状のパーツが四つ。
――頭と、手足。
――つまり中心のボールは、胴。
「……人形、だよね?」
姉が声を震わせて言った。
確かに、人形だ。針山ではない。
なのに、その人形の膨れ上がった腹には、
何本も。何本も。
何本も。何本も。何本も。
何本も。何本も。何本も。何本も。何本も。何本も。何本も。何本も。
びっしりと、突き刺さっていたという。
その後――。
この針だらけの人形は、事態を知った父親の手で、ある寺に運ばれた。
そこはいろいろなものを供養してくれるという、その筋では有名な寺だったが、住職は針だらけの人形を一目見るなり、溜め息交じりでこう呟いたそうだ。
「これはまたずいぶんと、重たい念の
そして人形を引き取った後で、こうも言ったという。
「おそらく、もう大丈夫だろうとは思いますが……。今後、もしご家族のどなたかが
住職のこの言葉を信じるなら――。
おそらくあの人形には、そういう類の
果たして、Yさんの夢に出てきたあの女は、何を想って、このような人形を残していったのだろうか。
いずれにしても――人形が家からなくなって以降、Yさん達の腹痛は、ぴたりと止んだということだ。
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