第百八十九話 ふわり

 Mさんという男性が、A県内の旅館に泊まった時のことだ。

 窓から近くの湖を一望できるその旅館は、冬にはワカサギ釣りを目当てにした客で賑わうという。もっとも、この日は冬も終わりの頃で、宿泊客の数もまばらだった。

 それでも、まだ寒い時季には違いない。夕方からは少しずつ雪が降り始め、部屋にいても、窓ガラス越しにじんわりと冷気が染み入ってくる。

 Mさんは、外の雪模様に名残を覚えながらも、早々に窓のカーテンを閉じ、暖房のお世話になった。

 そして、翌朝のことだ。

 明け方、早くに目が覚めたMさんは、布団を出て、窓のカーテンを開けてみた。

 途端に、真っ白な雪景色が視界を覆った。 

 曇天の下、純白に染まった林の樹々。さらにその先には、氷の張った湖が、わずかな陽光を反射して、ぼんやりと輝いて見える。

 Mさんは肌寒さも忘れ、しばしその光景に見入った。

 ……そんな時だ。

 ふと、湖の氷上に人影が見えた。

 岸からだいぶ離れた位置である。ここからでは姿ははっきりとしないが、黒い防寒着のようなものを寒風にはためかせ、猫背気味になって、氷の上をと歩いているのが分かる。

 ワカサギ釣りの客かな、とMさんは思った。

 しかし、荷物のようなものは持っていない。

 何だろう……と奇妙に思っていると、不意に横殴りの強い風が、正面の窓ガラスをガタンと打ち鳴らした。

 驚いて軽くる。その時だ。

 氷上の人影が、ふわり、と宙に浮き上がった。

 え、と思って目を見張る。

 しかし見誤りではない。人影は黒い防寒着をはためかせながら、ふわり、ふわり、と宙に漂っている。

 Mさんが呆気に取られていると、一際強い風が、どおっ、と吹いた。

 その強風に煽られ、人影はふわぁっ、と舞い上がり――。

 ……そのまま曇り空の彼方へ消えていった。


 Mさんが急いで旅館の人にこのことを話すと、「ああ、またですか」と苦笑いで返された。

 何でもこの時季になると、よく客に目撃されるらしい。

 人影は、決まって氷上をと歩き、最後は風に吹き上げられて、どこかへ飛んでいくのだという。

「じゃあ、竜巻のようなものが起きて人が飛ばされている……というわけじゃないんですね?」

「違うと思いますよ。そもそも――」

 そもそも今の時季、湖に張る氷はとても薄く、到底人が上を歩くことなどできない。

 だから、氷上に誰かがいる時点でおかしい、ということらしい。

 ……薄い氷の上を歩くことができて、風に煽られて飛んでいってしまうほど、軽いもの。

 ……それでいて、人そっくりの形をしたもの。

 それが何だったのか、Mさんは今でも分からないという。

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