第百九十話 翁面
Kさんという男性が、某県の温泉宿に、一人で泊まった時のことだ。
通された部屋に入ると、不意に妙な視線を感じた。
見れば、床の間の壁に、能面が飾られている。
木製の古びた面で、長い
和室を飾る骨董品……ということになるのだろうか。しかし、歳月をかけてじわじわと朽ちたその老顔は、どことなく異様な存在感がある。
落ち着かない――と、Kさんは思った。
この部屋で一夜を過ごすのに、不気味な翁面に見つめながらというのは、ぞっとしない話だ。
Kさんは少し悩んだものの、宿の仲居を呼んで、どうにかならないかと尋ねてみた。
我がままな客だ、と思われるのは不本意だったが、しかし向こうも客商売とあって、特に嫌な顔をされることはなかった。
「それでしたら、外してしまいましょう」
仲居は、あっけらかんとそう言って、床の間の壁から翁面を外した。
ただ、そのままどこかへ運んでいくのかと思ったら、そういうわけでもなかった。
押し入れの上にある、
要は、目に触れないように隠しただけである。
しかも、何かで包むでもなく、箱に入れるでもない。剥き出しのまま天袋に入れてしまったのだから、ずいぶんと雑な扱いだ。
――骨董品とはいえ、意外と値打ちのないものなのかな。
そんなことを思いながら、Kさんはやがて、翁面のことを忘れていった。
……その夜のことだ。
Kさんが温泉を堪能して、部屋に戻ってくると、不意に強烈な違和感に襲われた。
――何だろう。
気になって部屋を見回し、気づいた。
天袋の襖が、十センチほど開いているのだ。
いったいなぜ、と思いながら、Kさんは天袋を見上げた。
同時に――目が合った。
わずかに開いた襖の隙間から、あの翁面が、顔半分をじっと覗かせていた。
「おっ?」
思わず妙な声が漏れた。
それから身を強張らせ、束の間、翁面を睨み続けた。
……翁面は、ピクリとも動かない。
いや、それは当たり前の話だ。
なのに――なぜあの翁面は、こちらを覗いているんだろう。
Kさんは少し冷静になって、翁面を観察してみた。
……どうやら翁面は、襖の内側に立てかけられているだけのようだ。
つまり、隙間の出来た襖を壁とし、顔の側をもたれさせる形で、固定されているわけだ。
だからまるで、隙間からこちらを覗いているように見えるのである。
……とは言え、さっきまでは、このような形にはなっていなかった。だから、誰かが意図的に襖を開け、翁面を動かしたことになる。
「誰だよ、こんな悪戯したの……」
Kさんはそう呟きながら、腕を天袋に伸ばし、襖をピシャリと閉めた。
もたれていた襖が動いたためだろう。翁面がバランスを崩し、天袋の中で、ゴトン、とくぐもった音を立てるのが聞こえた。
Kさんは肩を
ただ――そこで、ふと思った。
自分が風呂場に行っている間、この部屋には鍵をかけておいた。
……いったい誰が、天袋の翁面を
「まさか、な……」
つい嫌な答えが出てきそうになり、Kさんは思わず、缶ビールをグイッと呷った。
それから、小一時間ほど経っただろうか。
アルコールが回り、だいぶ眠気を覚えてきたKさんが、そろそろ寝ようかと布団に移った時だ。
……またも、違和感を覚えた。
見ると――やはり天袋の襖が、わずかに開いている。
翁面が、こちらを覗いている。
――さっき、ゴトンと音を立てて、天袋の中で倒れたはずなのに。
――この部屋には、自分一人しかいないはずなのに。
――なぜまた、翁面が起き上がって、襖の向こうにもたれかかっているのか。
理由を考えたい、とは思わなかった。
Kさんはすぐに襖を強く閉め直すと、部屋の灯りを消して、布団に潜った。
……睡魔が恐怖に
柔らかな布団の中で、次第に意識が遠のいていく。そんな中で、Kさんはぼんやりと思った。
……今襖を閉めた時、ゴトン、と翁面が倒れる音は、聞こえただろうか。
……もしかしたら、聞こえなかったかもしれない。
そんなことを考えながら、Kさんはまるで
……やがて、夜が明けた。
いつしか布団をはだけ、仰向けに寝ていたKさんは、不意に強烈な異変を感じて、目を覚ました。
ハッと目蓋を開けると――視界が異様に狭い。
顔が重い。
何かが、自分の顔に被さっている。
慌てて手で払うと、木肌が指に触れ、ゴトン、と顔の上から何かが転がり落ちた。
……正体は、確かめるまでもなかった。
天袋の襖は、いつの間にか、全開になっていた。
Kさんは悲鳴を上げ、部屋を飛び出した。
それから仲居に事情を話し、一緒に付いてきてもらったが、部屋に戻った途端、Kさんは唖然とした。
……翁面は、すっかり元の位置に戻っていた。
元の――床の間の、壁に。
後で仲居に聞いたところ、客の前でこういうことが起きたのは、初めてらしい。
ただ、宿の人間は、何度も体験しているそうだ。
「このお面、妙に目立つんで、壁から外して物置に仕舞うでしょう? そうすると、翌朝にはちゃんと、元の部屋の床の間に戻っているんですよ」
だから、最初からそのままにしておくのが正解だった……のだろう。
ちなみにこの一件以来、Kさんは、自分の顔が妙に老け込み出したような気がする、という。
……おそらくは、気のせいだろうが。
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