第百二十八話 笠のボンさん
Kさんという六十代の男性から聞いた話だ。
Kさんは子供の頃、地方の小さな町に住んでいた。
当時そこには、「笠のボンさん」と呼ばれる老人がいた。
いつも頭に大きな笠を被り、
ボンさんとは、「坊さん」の意味らしい。
ちなみに念仏と言っても、声があまり出ないのか、聞こえてくるのは、リーン、リーン……という鈴の
そしてこの鈴の音が聞こえてくると、決まってKさんの母親が勝手口へ行き、外にいるボンさんに食料を渡していた。
もっとも、だいたい米を一つかみ程度だったり、あるいは野菜の切れ端だったりと、ささやかなものである。
ボンさんは、半紙に包まれたそれを、片手に持った鉢で受け取ると、必ず
幼いKさんにとって、それはどこか異様な光景だった。
毎日夕暮れ時にやってきて鈴を鳴らす、ボロボロの老人――。たとえそれが生身の人間であっても、そこに恐怖めいたものを感じてしまうのは、子供ならば仕方のないことだっただろう。
ある時Kさんは、母親にこう聞いたそうだ。
ボンさんは何者なのか――と。
そもそも町にはしっかりした寺があって、ちゃんと住職もいる。法事があれば、必ずその住職が呼ばれる。
一方ボンさんは、寺には住んでいない。近くの河原に佇む
つまり――ボンさんは、偽の坊主なのではないか。
子供心に感じたKさんがそれを言うと、Kさんの母親は苦笑した。
「一応、
ああいう人は地域で支えていかなければならない――というのが、母親の答えだった。
その点については、Kさんの父親も意見が同じだった。しかしKさんが、「だったら俺もボンさんに何かあげた方がいい?」と聞くと、「よせ」と顔をしかめられたから、少なくとも、ボンさんのことを快く思っていたわけではなかったのだろう。
「子供が関わるもんじゃない」
父親のその言葉は非情に聞こえたが、後になって思い返せば、決して理解できないものでもなかった。
もっとも――このやり取りから数箇月後、Kさんは図らずも、ボンさんと関わってしまうことになる。
それは、細かい雨粒が風に漂う、六月の午後のことだった。
小学校からの帰り道、Kさんが合羽姿で川沿いの道を歩いていると、ふと河原の草むらに、何かが落ちているのが見えた。
笠だ。
一抱えはあろうかという大きな笠が、深い草の上に被さるようにして、雨に濡れている。
サイズから見て、いつもボンさんが被っているものに違いない。
しかしなぜ、それがあんなところに落ちているのか……。
Kさんは首を傾げた。
辺りを見渡したが、ボンさんの姿はない。
――もしかしたら、落としていったのだろうか。
Kさんはそう思い、怖いもの見たさで笠のそばに寄ろうと、草むらの中に足を踏み入れた。
ザワザワと、濡れた長い草が腰に絡みつく。不快に思いながら、それを掻き分け、前に進む。
草下の湿った土が、次第に泥となり、靴の裏にねっとりと吸いつき始める。
やがて、笠のそばまで辿り着いた。
そして見下ろすと――。
……ボンさんがいた。
草むらの底に沈むようにして、仰向けに倒れていた。
顔は、笠の下になって、見えなかった。
「あ……」
突然の光景に、Kさんは思わず言葉を呑んだ。
――待ち伏せされていた。
なぜか、そんな気がした。
おそらく、日頃からボンさんに対して抱いていた「
……と、その時だ。
ボンさんの指が、ピクリ、と動いた。
……ような気がした。
Kさんは――慌てて逃げた。
泥の上を何度も転びそうになりながら、笠に背を向け、一目散に走り去った。
家に着いた時には、跳ねた泥で、合羽も靴も真っ黒になっていた。
見かねた母親に叱られたが、なぜ泥だらけになったかは、口にできなかった。
――子供が関わるもんじゃない。
そんな父親の言葉が、脳裏をよぎったからだ。
ボンさんを間近で見たことなど、とても打ち明けられなかった。
そして夕暮れ。
ボンさんは、現れなかった。
その日の――正確には日付けが変わった――真夜中のことだ。
柱時計が午前二時を告げた頃だった。
Kさんはふと、トイレに行きたくなって、目を覚ました。
両親は隣でぐっすりと眠っている。Kさんは部屋の灯りを点けず、そっと布団を抜け出して、廊下に出た。
途端にひんやりとした空気が、寝間着越しに体に染み込んできた。
外はまだ雨のようだ。ピチャピチャと、軒から雨粒の滴る音が聞こえる。
暗い廊下を足早に歩き、そそくさとトイレに入った。
そして用を足し、再び廊下に出たところで――。
……リーン。
ふと、鈴の
思わず足を止め、耳を澄ませる。
……リーン。
……リーン。
やはり、聞こえる。
雨に交じって、鈴の音がはっきりと。
あの音は――ボンさんだ。
ボンさんが、勝手口の外で念仏を唱える音だ。
声があまり出ないから、鈴ばかり聞こえてくるのだ。
何もおかしいことはない。いつもと同じだ。
……ただし、時刻以外は。
Kさんは怖々、廊下の先にある真っ暗な台所に目を向けた。
……リーン。
……リーン。
鈴の音は、鳴り続いている。
なぜこんな真夜中にボンさんが来たのかは、分からない。
ただどうやら、帰る気配はない。
帰ってもらうには――食料を渡すしかない。
しかし、母親は寝ている。
父親も寝ている。
……渡せるのは、自分だけだ。
ふとKさんの頭に、河原での出来事がよぎった。
――怖い。
――ボンさんが、怖い。
だけど、渡さなければならない。
Kさんは、泣く泣く台所へ向かった。
……もちろん後から思えば、ただ両親を起こすだけでよかったはずだ。しかし、そのわずかな機転さえ浮かばないほど、この時のKさんは、気が動転していた。
――ボンさんが怖い。
――早く帰ってもらいたい。
その一心に突き動かされ、Kさんは台所に足を踏み入れた。
灯りを点けると、勝手口の横の棚に、半紙の包みが見えた。夕方ボンさんに渡すはずだった米だ。
その包みを手に取り、Kさんは恐る恐る、勝手口の戸を開けた。
さぁぁぁぁぁ……、と、雨音が響いた。
ポタ、ポタ、と水滴を滴らせ、大きな笠を被った老人が、闇の中に立っていた。
台所の灯りに照らされ、濡れそぼった衣が、てらてらと光って見える。
顔は笠の下に隠れていて、表情までは分からない。
……リーン。
……リーン。
手にした鈴が、小刻みに震えている。
Kさんはおっかなびっくり、米の入った紙包みを、鉢の中に放り入れた。
ボンさんは無言でそれを受け取ると、恭しくお辞儀をした。
そして――上げた顔が、笠の中に覗いた。
……血色のない、泥にまみれた顔が、そこにあった。
……白く濁った目は、何も見据えていなかった。
……紫色の舌が口から溢れ、揺れていた。
それは到底、生きた人間の顔ではなかった。
「ひぃっ」
Kさんが息を呑む。
ボンさんは、そんなKさんの反応をよそに、ただ雨の中を、静かに立ち去っていった。
ボンさんが変わり果てた姿で見つかったのは、その翌朝のことだ。
何でも、河原で倒れていたところを釣り人が見つけ、通報したらしい。警察の調べによれば、死因は病死で、すでに亡くなってから丸一日が経っていたという。
……だとすれば、Kさんが河原で見たボンさんは、すでに息を引き取った後だった、ということになる。
ならば――。
……真夜中に来たアレは、何だったのか。
Kさんは恐ろしくなって、一連の出来事を両親に打ち明けたが、一笑に付されただけだった。
「もし本当にボンさんが夜中に来たなら、うちだけじゃなくて、他の家にも行っとったはずよ。でもご近所の人、誰もそんなこと話しとらんからねぇ」
母親が口にしたその理屈は、確かにもっともに聞こえた。
しかし逆に考えれば、こうは言えないだろうか。
――ボンさんは、いつものように食料を乞いにきたのではない。
――Kさんに、会いにきたのだ。
もしかしたらボンさんは、早く伝えてほしかったのかもしれない。
自分が死んでしまったことを、発見者であるKさんの口から、誰かに。
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