第百九十二話 鏡に映る
鏡には、よくおかしなものが映り込むことがある。
Uさんという、一人暮らしの男性から聞いた話だ。
都内の古い賃貸マンションに引っ越したばかりのことである。
夜、脱衣所にある洗面台の前に立って歯を磨いていると、ふと、正面に備えつけられた鏡に、妙な違和感を覚えた。
……何か、光景がおかしい。
そう思ってよく見ると、鏡面に映り込んだ自分の斜め後ろ――開け放たれた脱衣所のドアの陰から、長い黒髪の束が、だらりと垂れ下がっている。
おや、と思い振り向いた。
……だが、そこには何もない。
髪の毛はもちろんのこと、それと見間違うようなものも存在しない。ただ開け放たれたドアの向こうに、照明を落とした暗い廊下が見えるのみである。
気のせいか――。そう思い、気を取り直して再び鏡の方を向くと、また同じ位置に、髪の毛が映っている。
Uさんは奇妙に思い、もっとよく見ようと、鏡にグイッと顔を近づけてみた。
……と、髪の毛が、ゆらり、と動いた。
そして――顔が覗いた。
長い黒髪を垂らした女の顔が、半分。
それがドアの陰から、にゅぅっ、とはみ出し、Uさんをじっと見つめ返している。
Uさんは慌てて、もう一度ドアの方を振り向いた。
……やはり、誰もいない。
どんなに凝視しても、耳を澄ませても、そこに人がいる様子はない。
なのに――鏡には、はっきりと映っている。
……何だか気持ちが悪くなって、Uさんは鏡の方を振り向かないまま、そそくさと脱衣所を離れた。
そして、キッチンの流し台で口をゆすぎ、その日はすぐ
それから朝になるのを待って、今一度脱衣所の鏡を検めたが、おかしなものは何も映っていない。
――やはり気のせいだったか。
Uさんはそう考えて、自分を納得させたのだが――。
しかし安心できたのも、陽のあるうちだけだった。
夜になると、またあの女が鏡に映り込むのだ。
女は、やはりドアの陰から顔を半分だけ覗かせて、Uさんを斜め後ろから、じっと見つめている。
そして翌朝にはいなくなり、夜が更けるとまた映る。
……どうやら女が映るのは、夜だけらしい。
実害はない。
だが――それでも、気味が悪い。
Uさんは仕方なく、ホームセンターで適当な布地を買ってくると、鏡全体をカーテンの要領で覆い尽くした。
これでもう、鏡は見えなくなった。
もちろん不便ではある。しかし、いちいち気味の悪い思いをするよりは、ずっとマシだ。
ともあれ、こうして問題は解決したかに思えたのだが――。
その日の夜のことだ。
Uさんが風呂に入ろうと脱衣所に足を踏み入れると、鏡を覆った布が、もそもそと
思わずギョッとして身を強張らせる。
……と、布が内側から、むくっ、と盛り上がった。
……それは、人が布越しに頭を押しつけた形、そのものだった。
Uさんは悲鳴を上げて家を飛び出すと、そのまま近くのネットカフェで一夜を過ごし、それからすぐに引っ越したそうだ。
また、こんな話もある。
女性会社員のGさんの家には、祖母の形見の古い三面鏡がある。
だがその三面鏡を覗くと、時々、三つの鏡に、それぞれまったく違う人物が映るという。
ちなみに、Gさんと同じ顔は一つもない。
しかし三人とも、Gさんとまったく同じ動きをするそうだ。
いずれにしても気持ちが悪いので、その三面鏡は、もうずっと押し入れにしまってある、ということだ。
また、Kさんという別の女性からは、こんな話を聞いた。
Kさんには二つ下の妹がいる。この妹が、小さい頃、やたらと手鏡を怖がっていた。
手鏡というのは、Kさんの母親が使っていたもので、普段は寝室のドレッサーの引き出しにしまってあった。
それをKさんが、ままごとに使おうと拝借してくると、必ず妹が嫌がって泣き出すのだ。
聞けば――その手鏡に、知らない女の人が映る、という。
もちろんKさんが覗いても、そこにあるのは自分の顔だけだ。
しかし妹が一人で覗くと、必ずいるらしい。
……そんなわけで、Kさんは妹が怖がらないように、手鏡を持ち出すことはなくなったのだが――。
ある深夜のことだ。
Kさんが子供部屋で寝ていると、突然隣の布団から、妹の悲鳴が聞こえてきた。
慌てて飛び起きると、妹が身を縮こまらせて泣きじゃくっている。
何でも――例の女の人が、部屋に入ってきたという。
しかも、手鏡を持って。
そして妹に、「見ろ、見ろ」と迫ってきたそうだ。
きっと悪い夢でも見たのだろう……とKさんは思ったが、ふと妹の枕元に目をやると、そこには母の手鏡が、ポツンと置かれていた。
自分も妹も持ってきていないはずの手鏡が、なぜそこにあったのか――。
答えは、二十年以上経った今でも分からないままだ。
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