第百四十話 給湯室のおじさん

 G県に在住の、Mさんという女性会社員から聞いた話だ。

 Mさんの勤務先は、某市内の古い小さなオフィスビルの中にある。

 このビルには、他にも複数の会社が入っていて、トイレや給湯室などは共用になっている。だから、よその社員と顔を合わせる機会も多い。

 Mさんの場合も、入社して一箇月も経った頃には、ビル中に顔見知りが出来ていたという。

 そんな折、奇妙な出来事があった。

 ある夕方のことだ。作業の遅れから残業が確定したMさんが、気分転換にお茶を入れようと給湯室に行くと、そこに見たことのない男性がいた。

 年の頃は五十代ぐらいだろうか。頭がきれいに禿げ上がり、開襟シャツ越しに大きなお腹をたるませた、いかにも「おじさん」といった風体の人物である。

 Mさんと目が合ったおじさんは、ニコニコ笑いながらこちらを見て、「おや、お疲れ様です」と挨拶してきた。

「あ、お疲れ様です」

 Mさんも急いで挨拶を返した。見知らぬ相手だが、どこの社の人だろう――と、頭の中で考えながら。

「お茶ですか? ちょうどお湯が沸いたところですよ」

 おじさんは笑顔のまま言うと、湯気の立つ電気ケトルを持ち上げて、大きなきゅうにトポトポと湯を注ぐ。

 よく見ると、給湯室に常備してある急須とは別物だ。おじさんの社で使っているものか、あるいは私物か……。いや、さすがに会社に急須を持参する人など、そうそういないだろうが――。

 Mさんはそんなことを思いながら、自分もお茶を入れようと、棚から急須と茶葉を取り出そうとした。

 と、そこへおじさんが一言。

「ああ、お茶ならこちらをどうぞ」

 急須を指しながら、にこやかに言ってきた。

「え、でも、いいんですか?」

「構いませんよ、たっぷりとれましたから。湯呑みはありますか?」

「は、はぁ」

 一瞬「大丈夫かな?」と思ったが、せっかく勧められているのに、断るのも気が引ける。それに、知らない相手とは言え、悪い感じがする人ではない。

「じゃあ、いただきます」

 Mさんが湯呑みを差し出すと、おじさんは笑顔で頷き、自分の湯呑みと二つ並べて、「出るまで、もう数分待ってて下さいね」とMさんに言った。

「そう言えば、最近××社に入社されたかたでしたね?」

「あ、はい。Mです」

 おじさんに尋ねられて、Mさんが急いで頭を下げる。

 ……おじさんは名乗らなかった。ただ相変わらず、ニコニコと頷くばかりである。

(もしかしたら、顔を知ってて当然じゃなきゃいけないぐらい、偉い人なのかも……)

 ふとそんな不安が、Mさんの脳裏をよぎった。

 今まで見かけたことはないが、実は他社の社長とか、あるいはこのビルのオーナーとか――。そんな人にお茶を淹れてもらったりして、本当に大丈夫なのだろうか。

 ……と、Mさんが勝手に恐縮しているうちに、目の前の湯呑みにお茶が注がれる。

「さ、どうぞ」

「いただきます。あの――」

「今夜は残業ですね。頑張って下さい」

「は、はい。ありがとうございます……」

 結局こんな感じで、恐縮のあまり名前を尋ねそびれたまま、Mさんは給湯室から笑顔で送り出された。

 おかげでモヤモヤしながら、自分のデスクにお茶を持ち帰る。

(……そう言えば、何であのおじさん、私が残業だって知ってたんだろう)

 不思議に思いながら、恐る恐る湯呑みに口をつけた。

 同時に、熱さとともに、濃厚なお茶の味と香りが、口の中いっぱいに溢れた。

「……美味しい」

 Mさんは、思わず声に出して呟いた。

 何だか、本当に頑張れそうな気がした。


 さて――問題はこの後だ。

 翌日Mさんは、自分が見たおじさんが何者だったのか、知り合いの女性社員達に探りを入れてみた。

 とは言え、「頭が禿げ上がっていて、お腹の大きなおじさん」というありふれた条件では、なかなか特定するのは難しい。実際、「××社の○○さんじゃないか」という答えが何通りもあった。

 もっとも、その「○○さん」達の顔を遠巻きに確かめても、全員が、給湯室で会ったおじさんとはまったくの別人である。

「もっとこう、ニコニコしてて、物腰が丁寧な人なんですけど」

「え、そんなよさげなおじさん、このビルにはいないよ?」

 そんな冗談交じりの会話を、女子トイレの鏡の前で交わしていたところ――。

 ……ふと一人の女性社員が、思い出したように、こんなことを言った。

「もしかして、Mさんが見たのって、『給湯室のおじさん』じゃないのかな」

「給湯室のおじさん? 誰かのあだですか?」

「いや、渾名ともちょっと違うんだけど……。『給湯室のおじさん』って呼ばれているおじさんがいるらしいの。このビルに」

 その女性社員曰く――。

 ――給湯室のおじさんは、このビルの給湯室で、ごく稀に目撃されるという。

 ――給湯室のおじさんは、会った人にお茶を淹れてくれる。とても美味しいらしい。

 ――給湯室のおじさんは、いろいろ励ましてくれたりもする。きっといい人なのだろう。

 ――ちなみに、現在このビルに勤めている人で、他に給湯室のおじさんに会ったのは、××社の○○部長だけだそうだ。

 ――なお、それは三十年以上前、○○部長が新人時代のことである。

「あの……そのおじさんって、人間なんですか?」

 Mさんが思わず口にしたその疑問に、しかし相手の女性社員は、曖昧あいまいに首を傾げただけだった。

 ということは――人間ではないのだろう。


 そんな出来事から、もう十年以上が経った。

 Mさんは今でもこのオフィスビルに通っているが、あれ以来、給湯室のおじさんを見たことは、一度もないそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る