第百八話 笑う怪
山中では時折、誰もいないはずの場所で、笑い声が聞こえてくることがある。
これまでにも、第四話「秋山の怪」や第九十五話「笑顔が迫る」で事例を挙げたが、このように山で得体の知れないものが笑っていたという話は、古くから枚挙に
山の怪異というのは、とかく笑いたがるものなのかもしれない。
K県に在住の、Nさんという男性から聞いた話だ。
Nさんは登山が趣味で、よく一人で山を歩く。
昨今は登山ブームの影響から、山道で一人きりになることは少なくなったが、かつては静かな山景色を独り占めすることも多かったという。
そんな時代の、ある年の春のことだ。
Nさんが、樹々に囲まれた山道をひとり歩いていると、ふと遠くから、ゲラゲラと大きな笑い声が響いてきた。
男の声だ。しかも、一人ではない。
どうやら大勢で笑い合っているようで、いくつもの声が重なって聞こえる。
近くに登山者の集団でもいるのだろうか。何にしても、あまりうるさいのは迷惑だな――と思いながら、Nさんはさらに足を進めていく。
そのうちに、相手との距離が縮まってきたらしい。笑い声が次第に大きくなり、辺りにわんわんと響き出した。
まるで夏場のセミの
思わず顔をしかめる。
しかし、歩きながら目を凝らしても、それらしき集団はどこにも見当たらない。
なのに、声だけは近い。
足を進める。
やがてNさんの周囲が、一気に笑い声に包まれた。
――ここなのか。
Nさんは足を止め、辺りを見回した。
……人の姿は、ない。
山道の先にも後にも、誰もいない。集団はおろか、一人で歩いている影すらない。
森の奥に目を凝らしても、それは同じだ。山道を外れた樹々の向こうには、ただ
つまり――ここにいるのは、自分だけなのだ。
そう思った刹那、肌が粟立った。
……だったら、この笑い声は何だ。
……いったい誰が、こんな場所でゲラゲラ笑っているんだ。
恐怖心が一気に膨れ上がった。
ゲラゲラ、ゲラゲラ、ゲラゲラ――と、声が止む気配はない。
耳鳴りがする。恐ろしさと相まって、吐き気すら覚えてくる。
Nさんは耐えかねて、ついに大声で怒鳴った。
「うるさい! 笑うな!」
その途端――。
ぴたり、と笑い声がいっせいに止んだ。
静寂が訪れたかに思えた。
しかし、その静寂を拒むかのように――。
――ゲラゲラ。
まだ一つだけ、笑い声が残っている。
それは、Nさんの頭上から聞こえてくる。
……しかしそこには、樹の枝しかないはずだ。
見上げれば、声の主の正体が分かるかもしれない。だが、もしそれで取り返しのつかないものを目にしてしまったら――。
本能的な不安が、大きく膨れ上がる。
一つだけになった笑い声は、ゲラゲラと、なおも続いている。
……Nさんは、先へ進むことにした。
絶対に上を見まいと、顔を正面に向けたまま、足を一歩踏み出す。
その時だ。不意に、ザワッ、と頭上で枝が鳴った。
途端――笑い声が、落ちてきた。
ゲラゲラと笑いながら、それはNさんの耳元を
そして弾み、すぐ背後の地面に転がり、なおもゲラゲラと笑い続けた。
振り返って正体を確かめる勇気はなかった。
Nさんは悲鳴を上げ、脇目も振らずに、全速力で山道を走って逃げたそうだ。
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