第百九話 赤い村と、赤くない館
かつて、とある妖怪関係のイベントに遊びにいった際、Yさんという怪談作家のかたとお話しする機会があった。
以下は、そのYさんから提供された怪談である。
プロの怪談作家から仕入れたネタを、怪談素人の僕が文章にして世に出す……というのも妙だが、その辺は諸事情のため、ご容赦願いたい。
「赤い村――という怪談を知っていますか?」
Yさんの話は、こんな一言から始まった。
もともとどういう経緯でこの話題になったのかは、いまいち記憶が定かでない。ただ、一緒にいた共通の知人である編集氏の「都市伝説ですか?」という返しからの流れは、よく覚えている。
「なんか都市伝説っぽい名前ですね。ほら、『赤いチャンチャンコ』とか『赤い沼』とか……そういうの、ありましたよね確か」
「『赤い沼』って、それ二十歳までに忘れないとヤバいやつじゃないですか?」
「二十歳過ぎてから知ったんなら、セーフですよ」
そんな冗談を交わす僕と編集氏に、Yさんはあくまで神妙な面持ちで、こう続けた。
「そういう根も葉もないような都市伝説とは、少し違うと思うんですけどね。まあ、この話にタイトルを付けるとしたら……やはり『赤い村』になるでしょうね」
「すると、何か具体的なストーリーがあるわけですか?」
「……私の体験談ですよ」
Yさんは意味ありげな笑顔を見せ――そして、こんな話をしてくれた。
*
Yさんが大学生だった頃のことだ。
ある初夏の折、友人数名と、某県の高原にあるキャンプ場へ遊びにいった。
移動はレンタカーのワゴンで、運転は友人の一人にお任せだったため、Yさんは後部座席で他の仲間達と喋っていた。
窓の外には、空から明るい日差しが降り注いでいる。絶好の行楽日和である。
車はやがて、曲がりくねった森道へと入っていく。都会ではなかなか見られない、青々とした樹々の景色に囲まれ、Yさんは自ずと目を細めた。
「あとどれぐらいで着くの?」
「二十分ぐらいかな」
そんな他愛のない会話が、周りで交わされる。ここまでは何事もない、穏やかな旅路だった。
……様子がおかしくなったのは、長いトンネルを過ぎてからだ。
車が、なかなか目的地に着かない。
もう四十分も走ったが、キャンプ場が一向に見えてこない。
森はこの先、どこまでも続いているようだ。他に走っている車も、一台もない。
「道が違うっぽい」
運転していた友人が、スピードを落とし、努めて冷静に呟いた。
どうやらカーナビの表示がおかしいらしい。さっき通ったトンネルも、パネルには映っていなかったという。
車を路肩に停める。地図を取り出して確かめるが、やはり現在地がはっきりとしない。
ただ、幸い道は分かりやすい舗装路である。幅が広く他に車も来ないので、Uターンして戻れば問題ないはずだ。
Yさん達は、さっそく車を戻すことにした。
念のため周囲を確認してから、ぐるり、と方向を変える。
窓の外の森景色が勢いよく流れ、三半規管が軽く刺激される。
……そんな時だ。
Yさんが、妙なものを目にしたのは。
「あれ、今の何?」
思わず声に出すと同時に、車のUターンが完了した。
一瞬見えたものが、再び視界から外れる。急いで目で追い、後部のリアガラスに顔を向ける。
そんなYさんの様子を見て、友人達も口々に「どうした?」「何かあった?」と、身を乗り出してくる。
そして――その場にいた全員が、それを目にすることになった。
その樹々の隙間を縫うようにして、いくつもの赤いものが、チラチラと覗く。
正体は、目を凝らすことで分かった。
……家だ。
古びて朽ち果てた木造の日本家屋が、森の中のそこかしこに点在している。
一軒一軒の大きさは、小屋ほどしかない。しかし、数は多い。
打ち捨てられた村の跡、だろうか。
しかし――赤い。
どの家も、屋根と言わず壁と言わず戸と言わず、すべてが赤黒く染まっている。
まるで、森の中に血の
不可解で
……あの家々は何なのか。
……なぜ赤いのか。
「ペンキ、だよな?」
友人の一人がそう呟いた。
そうであってほしい、とYさんも思った。
もっとも、あの赤がペンキにしろそれ以外の何かにしろ、意図的に塗りたくられたものには違いないだろう。でなければ、家があそこまで隙間なく染まったりはしない。
しかし――誰が、なぜ、染めたのか。
塗料の黒ずんだ具合いからして、昨日今日染めたものではない。つまり、この村が――仮に村だとしてだが――打ち捨てられる以前から、赤くなっていたと考えるのが自然だろう。
観察しているうちに、おぞましさよりも好奇心の方が膨らんできた。それは周りも同じだったようで、「降りて様子を見にいこうか」という声も出た。
……だが、結局Yさん達は、車を降りることなく、元来た道を引き返しただけだった。
運転を任せてあった友人が、かなり強い口調で反対したからだ。
時間が押しているから、というのがその理由だった。しかし、後でYさんは、その友人からこんなことを言われたという。
「Y、お前ホラーとか好きだよな?」
「ああ」
「……本物は大丈夫か?」
「え?」
「さっきの、あの赤い家な――」
そして一瞬言葉を切り、友人はこう続けた。
「……どれも、人が窓から覗いてた」
しかも、真っ赤だったそうだ。
何がどう真っ赤なのかは、教えてもらえなかった。
その会話は、それっきりになった。
ちなみに、後で資料などを調べてみたところ、確かにこの辺りには、戦前まで村があったという。しかし、廃村になったのを機に建て物はすべて取り壊され、今は何も残っていないらしい。
そういう意味では、何とも不可解な話だった。
そして――いずれにしても、家が赤く塗られていた理由は、どこにも見つからなかった、ということだ。
*
「取り壊されたはずの村が現れた……ということですか」
話を聞いた編集氏が、興味深そうに頷いた。
「つまり村の幽霊?」
「幽霊だか残留思念だか、とにかくそういうものでしょうね」
Yさんが応える。なるほど、そういうものか、と僕も何となく納得する。
「しかも、真っ赤なんですよね」
「気味悪いですね。猟奇殺人の跡だった、とか?」
「いや、そんな村全体を真っ赤にするほどの血が流れたなら、さすがに記録に残ると思いますよ」
三人でそんなやり取りをしていると、Yさんがふと真顔になって、「あ、それでですね」と、話を切り替えた。
「この『赤い村』なんですけどね。私、最初に『赤い村という怪談を知っていますか?』って聞いたじゃないですか」
「そうでしたね」
ふと僕は、ある予感を覚えた。
もしこの怪談が、Yさんの個人的な体験談に留まるものならば、「知っていますか?」などとは尋ねななっただろう。
これは、つまり――。
「……どうやら、他にもいるみたいなんですよ。『赤い村』を見た、という人が」
Yさんは案の定、そう答えた。
ニヤリと、意味深な笑みを浮かべながら。
聞けば、Yさんは怪談の仕事をするようになって以来、以前見た「赤い村」を題材にするため、少しずつ取材を進めていたという。
もっとも、真相めいたものは何一つ見つからなかった。例の土地にかつて村があり、それが廃村になった――という歴史的な背景以外は。
ただ……目撃譚の方は、あったのだという。
――森の中を車で走っていたら道に迷い、気づいたら真っ赤な家に囲まれていた。
――キャンプ場から双眼鏡で森を眺めていたら、そこに真っ赤な家があって、窓から真っ赤な顔がこちらを睨んでいた。
――森の中のトンネル内の路肩に、大勢の人が
……等々。いずれも、ここ何年かの間に、あの土地であった話だという。
それで、もしかしたら有名な怪談なのかもしれないと思い、僕のような妖怪関係の人間にも話を聞いてみた――ということらしい。
「また何か分かったら、お話ししますよ」
Yさんがそう言ってくれたのは、僕の食いつきが存外よかったからだろうか。ともあれこの話題は、ひとまずここで終わった。
彼から連絡があったのは、それから数箇月後のことになる。
『進展がありました』
Yさんからのメールには、そんなメッセージとともに、長めのテキストが添えられていた。
テキストの中身は、おそらく彼がどこかで聞き取ったと思しき、一本の怪談だった。
もっとも、きちんと書かれた文章ではなく、ほぼメモ書きのような状態である。きっと、取材時に書き記したものを、そのまま送ってきたのだろう。
それでも箇条書きにされた要点から、この話の気味悪さは、ひしひしと伝わってきた。
しかし――実のところ、僕はこれを読んでいる途中、怪談の内容とは別の意味で不可解な気持ちになっていた。
なぜならこのメモの怪談は、例の「赤い村」とは、まったく関係なさそうに思えたからだ。
いったいなぜYさんは、この怪談を僕に寄越してきたのだろう――。そう考えていた。
しかし話を最後まで読み、さらにメールの末尾に添えられていた一文を見て、ようやく理解できた。
最後にYさんは、こう書いていたのだ。
『これも、あの土地で起きた話です』
……以下の怪談は、このYさんのメモをもとに、僕が改めて書き起こしたものである。
なお、一応メモ内にあった要点は押さえてあるが、足りない部分は、ある程度想像で補わせていただいた。その点はご容赦願いたい。
*
Bさんという女子大学生から聞いた話だ。
やはり初夏のことである。Bさんは連休を利用して、同じサークルの仲間達と、例のキャンプ場に遊びにいくことになった。
ワゴンに七人で乗り込み、森の中を走った。だが途中で道を誤り、カーナビにないトンネルを通って、知らない道に出た――。
……と、ここまでは「赤い村」の話と同じである。
しかし、その道の先でBさん達が見たのは、まったく違うものだった。
館――だった。
二階建ての、古びた木造の巨大な洋館で、元は白かったであろう板壁を黒ずませ、森の中にずっしりと佇んでいた。
もしかしたら、道を尋ねることができるかもしれない。そう思ってBさん達は、車をそちらに向けた。
だが実際に近づいてみると、人が住んでいる様子はなかった。
外れて傾いた正面の扉。
……どう見ても、
誰ともなく溜め息が漏れた。しかし続いて、ちょっとした好奇心が首をもたげたのは――やはり「道を引き返せば戻れる」という安心感があったからだろう。
「入ってみようか」
一人がそう提案し、全員がそれに乗った。
正面の扉は外れている。足を踏み入れるのは簡単だった。
中に入ると、まず広々とした玄関ホールが、一同を出迎えた。
誰かがペンライトを点けた。剥き出しの床がキラキラと光った。そこかしこに窓ガラスの破片が散乱しているのだ。
踏まないように気をつけながら足を動かすと、そのたびに、靴の底で床が
周囲にはガラスだけでなく、木片も転がっている。崩れた扉があちこちに見えるから、その残骸だろう。
「ボロボロだね」
一人が率直な感想を漏らした。しかし的確である。床に穴が開いていないのが、不思議なぐらいだ。
壁際に大きな柱時計が見える。それから、ラッパ部分の外れた――今となっては珍しい、蓄音機もある。
逆に、電気製品の類は一切見当たらない。照明も、壁に
Bさんは手近な部屋を覗いてみた。暗くてよく分からないが、床にはいろいろなものが転がっている。
鍋、薬缶、お椀、箸……。厨房だろうか。
目を凝らすと、壁のそこかしこで、板が剥がれ落ちているのが分かった。
「ここから二階に上がれるよ」
向こうで仲間の一人が叫んだ。Bさんが振り返ると、ペンライトに照らされた闇の中に、ぼんやりと、大階段が浮かび上がっている。
ライトが上に向く。しかし、さすがに上階に届くほどの光量はない。
「上ってみようか」
「そんなことしたら階段が壊れるんじゃね?」
「いや、結構しっかりしてるよ。ほら」
そう言いながら、一人が率先して上り始める。Bさん達も、恐る恐る後に続く。
階段は、多少軋むものの、崩れる様子はない。ただ左右の手摺りは、すっかり壊れて歯抜けになっていた。
どうしてこんなに荒れ果てているのだろう――。Bさんはふと疑問に思った。
廃墟だから、という単純な理由でか。しかし、どこか違和感がある。
その時だ。不意に先頭から、小さな悲鳴が上がった。
驚いて見上げる。と、ペンライトの光の輪の中に、奇怪なものが浮かび上がっているのが見えた。
――顔だ。
ボロボロに崩れた、真っ白な顔だ。それが段上の壁に、ベッタリと張りついている。
思わず息を呑む。だがすぐに、それが勘違いであることに気づいた。
「……絵だよ」
一人が引きつった笑みを浮かべ、呟いた。
確かに、光の中にあるのは、一枚の油絵――。いわゆる肖像画である。
古いものだからか、絵の具がところどころ剥げ落ちている。だからボロボロに崩れたように見えたわけだ。
……しかし誰一人として、安堵の息を漏らすことはなかった。
改めて、重苦しい沈黙が一同に訪れる。理由はひとえに、この絵の異様さにあった。
――これは、人の顔なのだろうか。
Bさんも含めて、誰もがそう思ったという。
絵に描かれているのは、どうやら女の顔のようだった。
目の形は、丸い。
目蓋がないのか。しかも、両目の間が妙に空いていて、どこか動物じみた印象を与える。
鼻は、小さな穴だけが二つ、ポツポツと
その鼻の下には、やたらと長い横線が、左右の頬を貫くように引かれる。これは口だ。
横一文字の口からは、小さく尖った歯が、何本もはみ出している。
やはり――人間の顔とは思えない。
それに、配色も奇妙である。
まるで塗りたてのようにぬらぬらと輝く白――顔を中心に、その上部と左右を、髪の黒色が縁取る。ここまではいい。
しかし、顔の下。首筋から鎖骨にかけてを、どぎつい朱色がベッタリと覆っている。人体を表現した色にしては、あまりにも不自然だ。
「……ヤバくないか、これ」
一人が呟いた。確かに、いつまでも見ていてはいけないような禍々しさを、この絵は放っている。
引き返したい、とBさんは思った。同じことを思った人は、他にもいたかもしれない。
しかし、一同は先へ進むことになった。
グループがバラバラになってはならない――。誰もがそれを本能的に察していた。だから、一人が先へ進んでしまうと、あとはもう無言で従うしかなかった。
二階の廊下は、玄関ホールに輪をかけて暗かった。
そこかしこに、扉の残骸と思しき木片が散乱している。一同はペンライトで足元を照らしながら、慎重に進んだ。
ふと一人が壁を照らし、「ひっ」と悲鳴を呑んだ。
……肖像画があった。
……階段の上に飾られていたアレと、まったく同じものが。
「何でここにもあるんだよ……」
先頭が絶句しながら、辺りを照らす。
闇の中を光の輪が、ゆっくりと動く。
その輪の中に、少なくとも四つ、まったく同じ絵が浮かび上がった。
真っ白な顔。真っ黒な目。真っ赤な体――。
……あの女だ。
あの女の絵が、廊下のあちこちに飾られている。そのことに気づき、Bさんは全身を一気に
――いったいこの絵は何なのか。
――誰を描いたのか。
――なぜ何枚も飾ってあるのか。
「……あの、俺気づいたんだけどさ」
男子が一人、張り詰めた声で言った。
「この館、あちこちぶっ壊れてるじゃん。ドアとかさ。でもこれって絶対、自然にこうなったわけじゃないって」
人為的なもの――と言いたいのだろう。Bさんも、この説には合点が行った。
壊れているのは主に扉だ。他にも一部の壁や手摺りに損傷があったりはしたが、階段が崩れることはなかったし、床にも穴はない。
足場に問題がないのは、もともとの造りがしっかりしていたからだろう。その上で扉ばかりが壊れている、ということは――。
……誰かが荒らしたのだ。
「まあ、廃墟なんだし、面白半分で荒らすやつもいるだろう」
「いや……そういう悪ふざけじゃないと思う」
ペンライトがスッと動いた。床が照らされる。
板の黒ずみに混じって、うっすらと赤い汚れが見える。
誰もが押し黙った。
異様な空気が立ち込めている。
……悉く破壊された扉。何枚もの不気味な絵。床の赤い汚れ。
いったいここは、何なのだろう。
「出ようか」
一人が言うと、誰もがすぐに頷いた。
そうして、一同が
ふと――何かが聞こえた。
真っ暗な廊下を震わせるように、彼方から。
……あぁぁぁ。
……あぁぁぁぁ。
声か。しかし言葉ではない。
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
恐る恐る、全員が廊下の先に目を凝らした。
暗くて何も見えない。しかし――。
……ああぁぁぁぁ。
……あああぁぁぁ。
近づいてくる。
声が、はっきりと近づいてくる。
甲高い。喩えるなら、赤ん坊の泣き声か。
しかしそれは、廃墟で聞こえるはずのないものだ。
一人が悲鳴を上げた。
それを合図に、Bさん達はいっせいに逃げ出した。
……ああああぁぁ。
……あああああぁ。
迫る赤ん坊の声に背を向け、軋む二階の廊下を走り、階段をドタドタと駆け下りた。
玄関ホールを抜け、眩い陽光のもとに飛び出した時には、全身から汗が流れるように溢れていた。
それでも足を止める者はなく、草の上を駆け、次々とワゴンに転がり込んだ。そして素早く人数確認をした上で、すぐに車を出した。
元来た道を走り、しばらくしてBさん達は、ようやく息をついた。それでも、誰もがなかなか話を切り出せず、やがてトンネルを抜け、カーナビの表示がまともになるまで、ワゴンの中は重苦しい沈黙に支配されていた。
その沈黙を破ったのは、一人の女子だった。
「あの、さっきは言わなかったんだけど……言っていい?」
「何?」
「二階にあった絵ね。どれも絵の具が剥げてボロボロだったんだけど――」
……何だかどれも、爪で
その言葉に、しかし新たに恐怖が募ることはなかった。
もう充分だ――。すでにそんな気持ちになっていたからだろう。
その後キャンプ場に着いたBさん達は、他のキャンパーとの会話で、「赤い村」の怪談を知ることになる。
「え、この辺に洋館なんて建ってないよ。ああ、もしかしてアレかな? 存在しないはずの真っ赤な廃村っていう――」
……そう、こんな風に。
しかし例の館は赤くなかったし、あれを指して「村」とは呼べないだろう。
それに――とBさんは、後になって奇妙に思うことがある。
あの館、ずいぶんと荒れ果てていた割には、
……だとしたら、あれは本当に廃墟だったのだろうか。
いずれにしてもBさんは、以来このキャンプ場へは、足を運んでいないそうだ。
*
……以上が、Bさんの体験談である。
実に気味の悪い内容だ。
存在しないはずの洋館。廊下に何枚も飾られた奇怪な肖像画。
気味が悪い。しかし気味が悪い一方で、どこかつかみどころのなさも感じる。
……それぞれの怪異に繋がりがないからか。
僕はそう理解した。
絵が怖いのか。赤ん坊が怖いのか。事件の痕跡が怖いのか。あるいは、館そのものが怖いのか――。いまいち恐怖の焦点が定まらないのである。
いや、そもそも――。
一番解せないのは、なぜこの体験が「赤い村」と同じ場所で起きたのか、だ。
話の終わりにある「他のキャンパーとの会話で、『赤い村』の怪談を知ることになる」という部分から察するに、Bさん達が館に迷い込んだ時期は、「赤い村」の噂が流れている時期と、そう離れているわけではない。
むしろ、完全に同時期と言っていい。しかしそんな同時期に、同じ土地で二種類の「不気味な廃墟」が目撃されるとは、どういうことだろうか。
奇妙に思った僕は、ひととおりの感想をYさんにメールで送ってみた。
返事はすぐに来た。
『私も気になって土地の記録を調べてみたんですが、過去に村があったという事実以外には、何も見つからないんですよ。例えば、もし村の跡地に洋館が建っていた時期があって、その洋館の幽霊だか残留思念だかが村と同様に現れたというなら、理解できるのですが……。あいにくそういった記録はなかったですね。あの辺りは廃村後に人工林にされて、以後はそのままみたいです』
なるほど、ずいぶんと難解のようだ。
『また何か分かったらご連絡しますよ』
Yさんからのメールは、そう締められていた。
しかしこれを最後に、Yさんからの連絡は、ぱったりと途絶えてしまった。
それどころか、同業の集まりで会うこともなければ、新作が発表される様子もない。活動を休止してしまったのか、それとも何かあったか――と心配していたら、例の共通の知人である編集氏から、こんなことを聞かされた。
「そう言えば、知ってます? Yさん、ずっと入院してるそうですよ」
「え、全然知らなかったです。どこかお悪いんですか?」
「いや、それが……」
編集氏はそこで妙に言葉を濁した。
「……精神病院らしいです」
「……はあ」
僕は何とも言えない相槌を返すに留まった。
もっとも、編集氏も詳しい事情は知らないらしい。ただ、音信不通になっていたYさんのことを心配して、あちこちに事情を聞いていたら、そういう情報をつかんだのだというのだ。
「面会しようにも、どこの病院かも分からないんですよ。東さん、何か聞いてません?」
「いや、まったく……」
そう答える他ない。そもそもYさんが入院していること自体、僕は初耳だったのだ。
だからこの話題は、すぐに終わった。
ただ――それから程なくしてのことだ。
僕の家に何の前触れもなく、Yさんからの封書が届いたのは。
封筒は、A4サイズの大きなものだった。
裏面の差出人はYさんの名である。住所は記されていない。
一方で表面には、当然僕の家の住所が記されている。しかし、僕はYさんに自分の住所を教えた覚えはない。
……いろいろと不可解だった。
僕は慎重に、封筒を開けて中身を取り出した。
A4サイズの紙が数枚出てきた。
活字をプリントアウトしたもので、ざっと眺めた限りでは、例によってメモ書きのようである。それ以外の、例えば僕への私信のようなものは、特に見当たらない。
だから僕は、改めてメモを読んでみた。
そして――どうすればいいのか分からなくなった。
……送られてきたメモは、怪談のプロットのように思えた。
内容は、例によって「赤い村」を題材にしたものである。
Yさんを始めいくつもの目撃例がある「赤い村」。そして、Bさんが同じ土地で迷い込んだという、「赤くない館」。この二つを繋ぎ合わせ、一本の創作怪談として成り立たせている――。
それが僕の解釈だった。
創作だと思った。
しかし、それにしては細部の補強が不充分にも思えた。
特に、洋館の正体や赤ん坊のことなど、肝心の疑問点は、まったく答えが示されていない。
いや、そもそもYさんは、何を思ってこれを僕に送ってきたのか。
……正直、扱いに困った。
いっそのこと、編集氏に渡して委ねてしまおうかとも思った。消息不明の人物からの郵便物となれば、僕一人で抱え込むよりも、関係者に報せるのが正解だろう。
そう思っていたのだが――翌朝になって、さらに不可解なことが起きた。
封書が、消えたのだ。
部屋に置いておいたのに、封筒も中身も、どこにも見当たらない。
かと言って、間違って捨てた記憶もないから、文字どおり「消えた」のである。
もはや困惑する以外になかった。
結局、この封書のことは誰にも伝えず、僕の記憶に留めるのみとなった。
さて――以下は、そんな僕の記憶を頼りに、この時Yさんから送られてきたメモの内容を、改めて書き起こしたものである。
ただ、文体は僕なりのものに直している。その点はご了承願いたい。
*
二〇××年××月××日。私は今日も車であのキャンプ場へと向かった。
これでもう何度目になるか分からない。仕事の合間を縫って、再びあの「赤い村」に辿り着けないものかと、現地へのドライブを繰り返している。
この日は天気もよく、かつて自分があの村を目にした時によく似ている。
もしかしたら、今度こそ行けるかもしれない――と、根拠のない淡い期待を抱きながら、ハンドルを握る。
トンネルが現れた。
カーナビ上には存在しない、あのトンネルだ。
全身が粟立つのを感じながら、慎重に車を進める。
四十分、森の中を走る。
新緑の樹々が並ぶ中、ちらり、ちらり、と赤いものが見え始める。
道路沿いに開けた草地を見つけ、そこに車を停めた。
リュックを背にして降りると、どこかひんやりとした空気が、シャツ越しの肌に染み込んできた。
まだ初夏だというのに。
……村があった。
赤い、あの村だ。
辺りに人の姿はない。あの時仲間が見た「真っ赤な人」というのは、ただの錯覚だったのか。それとも、霊感の個人差の問題か。
いずれにしろ、村を散策する機会は今しかない。
私は恐る恐る、赤い家が建ち並ぶ一角へと、足を進めた。
ザク、ザク、と靴の下で草が鳴る。土の臭気が鼻を突く。
家は、すぐ間近だ。
家は、やはり赤かった。
造りそのものは古びた日本家屋だが、屋根と言わず壁と言わず戸と言わず、すべてが赤一色でベッタリと覆われている。
いったいどんな塗料を用いたのか。そう思いながら、そっと戸に手をかけてみる。
開かない。長い年月の果てに、すっかり固まっているのか。
裏手に回ると、格子状の窓があった。中を覗く。
誰もいない。そして――中は、至って普通の色だ。
こちらから見て奥に、土間と
……布団は、赤い。
いや、布団の上から赤い布をかけているのだ。防寒用とも思えないが、何かまじない的な意味でもあるのか。
私はそこまで考えて――ハッと気づいた。
まじない。案外、これが正解かもしれない。
赤という色には、魔除けや厄除けの意味があると聞く。
村全体が赤く塗られているのは、もしかしたらこれが理由ではないのか。
そう思って、別の家を見にいく。赤い建て物はそこかしこにある。手近な一軒を覗くと、やはり中の座敷に、真っ赤な布団が敷かれている。
さらに何軒か回ってみたが、どの家も同じだった。
外側はまんべんなく赤く染まり、中には赤い布団――。家によっては、加えて赤い布が壁に吊るされていたり、赤い小物が枕元に置かれていたりした。
やはり、意図的に「赤」を配置してあるのだ。
……だとすると、例の「真っ赤な人」というのも、正体が見えてくる。例えば赤い服を着ていたとか、顔や手足を赤く塗っていたとかだ。
もちろん、これも魔除け・厄除けのためだろう。
ということは――つまり、こんな仮説が成り立つのではないか。
……この村はかつて、何かとてつもない災厄に見舞われた。
それを防ぐために、村が総出ですべてを赤く染め上げた。家も、自分自身も。
しかしその甲斐も虚しく村は滅び、結果廃村になった……。
これならば、筋が通るのではないか。
私が頻りに考えていると、ふと視界の端に、奇妙な違和感を覚えた。
振り返り、森の奥に目を凝らす。
……洋館があった。
私は今さらになって、我が目を疑った。
すでに超常的な村を前にしながら、それでも困惑と焦燥が胸を
洋館――。なぜここにあるのか。いや、目撃された場所は確かにここなのだが、なぜ洋館が村と同時に存在しているのか。
かつて私がここで見た赤い村と、Bさんが迷い込んだという不気味な館。この二つは場所を同じくしながらも、決して同じタイミングで重なることはない、と――。
……そのはずだった。いや、私は何となくそう考えていた。
しかしそれは、単なる思い込みだったようだ。
考えてみれば、Bさん達はこの周辺を念入りに散策したわけではない。たまたま車上の彼女達が赤い村を見過ごし、あの洋館のそばに迷い込んでしまった、という可能性は否定できない。
それにもしかしたら、この土地の記録についても、私はだいぶ先入観を持っていたのではないか。
この土地には村はあったが、洋館が建っていたという記録はなかった。しかしそもそも、洋館が村の一部だった、と考えることはできたはずだ。
そう、それならば、辻褄は合う。
……もっとも、腑に落ちない点もある。
日本家屋が建ち並ぶ村の中に、一軒だけ洋館があるという不自然さ。そして、その洋館だけが赤く塗られていないという違和感。
――あそこに行けば、答えが分かるのだろうか。
私は森の奥、赤くない館に向かって、足を進めることにした。
館の有り様は、Bさんから聞いたイメージと概ね一致していた。
二階建ての巨大な木造建築で、元は白かったであろう壁を黒ずませ、森の中にずっしりと蹲っている。扉や窓はことごとく破壊され、人為的に荒らされたことも分かる。
私は用意しておいた懐中電灯を手に、中に足を踏み入れた。
ガラスと木屑にまみれた内装に迎えられる。光を周囲に走らせながら、まずはBさんが見たという厨房を捜す。
捜しながら、私の頭の中には、この館に対する疑問がいくつも渦巻いていた。
……村の中に交じる、場違いな洋館。
いったいこの館は――そして館の主人は、村において、どのような立ち位置だったのだろう。
おそらく財力はあったはずだ。でなければ、このような豪華な家など建てられるはずがない。
そして、村の中で財を持つ者と言えば、やはり村長のような有力者だった、ということになる。
……しかし、仮にそうだったとして、だ。
新たな疑念が頭をよぎる。それはひとえに、この館が荒らされているからだ。
――いつ荒らされたのか。
この館が村の一部であった以上、廃村後には他の家ともども取り壊されたはずである。となると荒らされたのは、やはり村が存在していた時期と考えるのが自然だ。
――誰に荒らされたのか。
他の家々がまったく荒らされていないところを見ると、村の外部から襲撃があったとは考えづらい。つまり、この館を荒らしたのは、村人ということになりはしまいか。
――では、なぜ荒らされたのか。
その答えは……。
考えがまとまらぬまま、私は厨房を見つけて中を覗いた。
ふと気づいたのだが、他の部屋と比べても、ここだけ荒れ方が酷いように思える。
村人達は、なぜ厨房など荒らし回ったのだろう。
大階段の下に立って、懐中電灯を上に向けた。
ぼぅっと、顔が浮かび上がった。
あの絵だ。この位置からでは、まだはっきりとは見えないが、その異様さは窺える。
私はゆっくりと、階段を上がった。
奇怪な絵が、次第に迫る。
……これは、誰を描いたのだろう。
そう考えた刹那、私はすぐに、頭の中で言い直した。
……何を描いたのだろう。
到底人間とは言い難い異形を前に、私はそう思わざるを得ない。
二階に上がる。同じ絵は、やはりいくつもあった。
模写ではない。あくまで同じ顔を描いた、別々の絵である。
意図が分からない。
ただはっきりと感じるのは、この館は襲撃を受けて荒れ果てる以前から、まともではなかった――という事実だ。
……なぜこの館だけが、赤くないのだろう。
私は改めて、それを思った。
可能性を考えてみる。
例えば……この館が赤くないのは、ここが村八分に遭っていたからではないか。
家を赤く塗るとなれば、村人総出の仕事になる。しかしこの館だけが、村人達に手を貸してもらえなかった――と考えれば、辻褄は合うだろう。
さらに言えば、この館の主人は村の有力者などではなく、むしろ「異端者」の方だったと推測できる。
しかし他の可能性もある。
この館が赤くないのは――そもそも村を襲った災厄の元凶が、この館にあったからではないか。
もちろん、この仮説を裏付ける証拠は、どこにもない。単に、不気味な絵が飾られているという一点から感じた、ただの印象である。そもそも私は、村を襲った災厄の正体すら分かっていない。
ただ、もしこの仮説が正しければ、村人達が館を襲撃したのも納得できるのだ。
……ふと、何か大きな音が聞こえた。
一階からだ。
見下ろすと、赤い村人達がひしめいていた。
これは……かつての襲撃の再現だろうか。
厨房を始め、いくつもの部屋が荒らされていく。
彼らは、ただ闇雲に暴れていると言うよりは、何かを捜しているように見える。
何人かの村人が、大階段に向かってきた。こちらに上がってこようとしている。
私は廊下を逃げた。
隠れられそうな部屋は見当たらなかった。
どの部屋も、扉が壊されている。過去に村人達に破られた名残だろう。ならば今回も、彼らはすべての部屋を襲撃するに違いない。私が身を隠す場所などない。
……私はどうなるのだろう。彼らに捕まるのか。そして、当時の館の主人のように――。
おぞましい想像が頭をよぎる。だがそこで、私は不意に閃いた。
急いでリュックを探り、目的のものを引っ張り出した。
雨に見舞われた際にと思い用意してきたレインコートだ。
色は、赤い。
急いで広げ、身に羽織った。
ほぼ同時に、数人の村人がこちらへやってきた。
しかし彼らは、私を無視して通り過ぎていった。
私は安堵した。
書斎があった。
何か館の記録のようなものがないか、と期待して中を探す。しかし、過去の手がかりになりそうなものは、何もない。
諦めて廊下に戻ろうとした時だ。
……声が聞こえた。
……赤ん坊の声だ。
巨大な書棚の奥からである。
もしやと思い調べてみると、書棚の裏側に扉が隠されていた。
赤ん坊がいた。
まだ、生きている。
*
Yさんから送られてきた最後の怪談は、ここで途切れている。
未完の創作であろう、とは思う。……だが一方で、こんな不安も抱く。
もしも――もしもこのメモが、実は創作怪談のプロットなどではなかったとしたら。
Yさんが自身の体験を、そのまま書き起こしたものだったとしたら。
……彼は果たして、何を目にし、何を知ったのか。
……そして、何を僕に伝えようとしたのか。
確かめる術は、もうない。
それにあいにく、これ以上この話に踏み込むほどの度胸を、僕は持っていない。
ただ、今後他の誰かが「赤い村」と「赤くない館」に迷い込まないことを、祈るばかりである。
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