第百四十五話 覗くもの
女性看護師が頭にナースキャップを被り、まだ「看護婦」と呼ばれていた頃の話である。
今回は、怪異のニュアンスをそのまま伝えるため、また、体験者に女性蔑視の意図が一切ないことから、敢えて当時の「看護婦」という呼称を、そのまま用いることにする。
この点、どうかご了承いただきたい。
Bさんという男性が、都内の某病院に、一晩だけ入院した時のことだ。
通された病室は、三人部屋だった。
中に入ると、左手の壁に沿って、三床のベッドが並ぶ。いずれも枕側が壁に接する、オーソドックスな並列式の並び方である。
Bさんに宛がわれたのは、中央のベッドだった。
左右の二床には、すでに高齢の男性が、一人ずつ入っていた。もっとも、ベッドとベッドの間は、
実際、この二人とは、最初に軽く挨拶を交わしただけで、あとは特に、大きな交流はなかった。
Bさんは、壁とカーテンに囲まれたベッドの中で、読書などしながら、静かな時を過ごした。
ちなみに足側には、仕切りがない。そちらは室内の通り道に面していて、よく医師や見舞い客が歩き回っていた。
……しかし、そんな外界との接点が残されているのも、日中だけである。
やがて消灯時間が来ると、こちらの足側も、カーテンでピタリと閉ざされてしまった。
四方を完全に壁とカーテンで囲われ、天井の明かりさえ落ちた病室のベッドは、瞬く間に闇一色となった。
……その消灯時間から、どれほど経っただろうか。
Bさんは、慣れない環境のおかげで寝つくことができず、暗い天井を、じっと眺め続けていた。
すでに目は闇に慣れ、周囲の様子も、うっすらとなら分かるようになっている。と言っても、見えるのはただ、周りを囲むカーテンばかりだが――。
ここが我が家なら、眠くなるまで読書でもするところだが、あいにく病室である。まさか、勝手に照明を点けるわけにもいかない。
仕方なく、あれこれとどうでもいい考え事などしているうちに――おそらく、すっかり深夜になっていただろう。
――早く眠らないと、明日が辛い。
そんなことを思って、Bさんがようやく目を閉じようとした時だ。
すっ……と、右側のカーテンが動く気配がした。
あれ、と思って視線を向けると、いつの間にか、カーテンにわずかな隙間が出来ている。
何かの弾みで、少しだけ開いてしまったのだろうか。
隙間の位置は、ちょうどBさんの顔の真横に近い。おかげで、気になって仕方がない。
閉じ直そう――と思い、ベッドから腕を伸ばしかけた。
……その時だった。
不意にカーテンの隙間が、ふわっと膨らんだ。
続いて向こう側から、にゅぅっ、と何かが突き出してきた。
黒くて丸いシルエット――。
……頭だ、とすぐに分かった。
誰かがカーテンの向こうから、頭を挿し入れてきたのだ。
まるで、眠っているBさんの様子を、窺うかのように。
……暗いため、相手の顔は分からない。しかし、それが隣のベッドの患者でないことだけは、確かだ。
なぜなら――隙間から現れたその頭は、ナースキャップを被っていたからだ。
――看護婦さん?
――巡回に来たのかな。
突然のことでちょっと驚いたものの、Bさんはそう思って、とっさに目を閉じた。
……べつに、寝たふりをする必要はない。しかし、消灯時間を過ぎてなお起きていることに、妙な後ろめたさを覚えたのも、事実だった。
Bさんは、そのまま寝息を立てる真似事をしながら、看護婦が立ち去るのを待った。
ところが、だ。
すっ……と、今度は、左側のカーテンが動く気配がした。
――え?
不可解に思って、うっすらと
……やはり、左のカーテンにも隙間が出来ている。
その隙間から、ナースキャップを被った新たな頭が、にゅぅっ、と突き出している。
つまりBさんは、左右から同時に、看護婦に見下ろされているわけだ。
――気まずいなぁ。
落ち着かない。早く立ち去ってほしい。
そう思いながら、Bさんは再び目を閉じた。
……そのまま、一分が過ぎた。
看護婦が去っていく気配は、ない。
カーテンが閉じる音も、病室を出ていく足音も、まったくない。
まだいるのかな――と思いながら、Bさんはもう一度、うっすらと目を開けてみた。
……看護婦が、増えていた。
左右に加えて、足側のカーテンにも隙間が生まれ、そこからナースキャップを被った頭が、にゅぅっ、と突き出している。
さすがにおかしい――。
慌てて目を閉じ直してから、Bさんはようやく、そう気づいた。
――これは、巡回なんかじゃない。
明かりのない病室の中、看護婦が三人がかりで、カーテンの隙間から、ベッドをじっと覗き込む――。しかも、通路に面した足側からだけでなく、他の患者が寝ている左右からも、同時に……。
そんな巡回など、あるはずがない。
……いや、そもそも、看護婦達が病室に入ってくる気配が、あっただろうか。
ドアが開く音も、足音も、隣のカーテンを開けるさえ音も――Bさんは、一切聞いていない。
にもかかわらず、看護婦達は今、ここにいる――。
不意に、とてつもない恐ろしさが込み上げてきた。
――早く、いなくなってくれ。
Bさんは、強くそう願った。
やがて――すぅっ、とカーテンが、動く音がした。
右。左。足元。三方向で同時に、何かが動いた。
……去ったのか。
……それとも、入ってきたのか。
いや、しかし後者なら、さすがに気配で分かる。
だったら――やはり、去ったのではないか。
Bさんは、ただそれだけを期待して、恐る恐る目を開けてみた。
……カーテンの隙間に、すでに看護婦達の頭は、なかった。
なぜなら、もっと高い位置に移っていたからだ。
カーテンの天辺と、天井とで区切られた、五十センチほどの狭間に、ナースキャップを被った頭がびっしりと並び、全員で、じっとBさんを覗き込んでいた。
Bさんは、絶叫した。
その後――騒ぎを聞きつけた左右の患者が、ナースコールのボタンを押したのだろう。すぐに病室の明かりが点き、カーテンが開かれた。
看護婦が、Bさんを覗き込んだ。
……もちろん、日中にも世話になった、顔見知りの看護婦である。つい今までいた怪しい方の看護婦達は、すでに、どこにも見えなかった。
ともあれBさんが、しどろもどろになりながら事情を説明すると、看護婦も「心得ている」とばかりに、すぐに睡眠薬を出してきた。
そんなものよりも、むしろ病室を移らせてほしい――。そう頼んでみたが、あいにく空いているベッドは、ここしかないらしい。
Bさんは仕方なく、薬の力に頼ることにした。
おかげで、安眠はできた。
……ただ、眠っている間に、またもあの看護婦達が覗いていたのではないか――と思うと、翌朝の目覚めは最悪だった。
だから最後の診察を待って、Bさんはそそくさと、病院を引き上げることにした。
病室を出る時、左右の患者に「昨夜はお騒がせしました」と頭を下げると、二人は笑って言った。
「いやぁ、よくあることだから」
……ちなみにこの二人は、ここ一箇月ほど入院しているが、特に怪しいものを見たことは、ないらしい。
きっと、普段から寝つきがいいのだろう。少なくとも、二人のベッドの傍らには、隣を覗く看護婦が立っているはずなのだから――。
Bさんは、以来ずっと、この病院を利用していない。
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