第百六十八話 子犬
K県に在住の、Hさんという主婦から聞いた話だ。
Hさんには一人息子がいて、名をS君という。
そのS君が、まだ小学一年生だった時のことた。
……ある日の夕方。外で遊んでいたS君が、帰ってくるなり玄関に立って、Hさんにこんなことを言った。
「ママ、子犬を拾ったから、飼っていい?」
あまりにも唐突だった。
ちなみにHさんの家は一戸建てなので、ペットを飼うのは自由だ。しかし、だからと言って、簡単に「いいよ」と答えられるものではない。
犬が一匹増える――ということは、費用や世話の問題もあるが、何より、家族が一人増えるも同然だ。だからこそ、慎重に吟味しなければならない。
「その子犬は、どこにいるの?」
Hさんは、S君に尋ねてみた。見たところ、S君が子犬を連れている様子はない。
「庭にいる」
S君はそう答えると、玄関を出て、庭の方へ回っていった。Hさんもサンダルをつっかけて、後を追った。
……正直なところ、「勝手に庭に入れちゃ駄目でしょ!」と、叱りたい気持ちはあった。ただ、せっかく子供が生き物に興味を示しているのに、水を差してしまうかもしれない――という心配もあり、ここは怒りを堪える。
――とにかく、実際にその子犬を見てみよう。
そう思いながらS君に付いていくと、S君は庭の真ん中で立ち止まり、じっと動かなくなった。
犬は――どこにもいない。
「いないね」
逃げたのか、それとも、家の中に入ってしまったのか。もし後者なら面倒だな、と思いながらS君に言うと、S君はキョトンとした顔で、こう答えた。
「え、ここにいるよ?」
S君は、足元を指した。
……何もいない、ただ土が剥き出しになっているだけの、地面を。
「……どこに?」
「ここ」
それからS君は、不意にしゃがみ込み、虚空を撫で回し始めた。
まるで、姿のない子犬と
――母親をからかっているのだろうか。
Hさんには、そうとしか思えなかった。
「もうすぐご飯だから、早く中に入りなさい」
諦めてそう言うと、Hさんは先に玄関へ戻った。
「ねえ、飼っていい?」
後ろからS君が呼びかけてきたが、Hさんはただ、肩を
さすがに様子がおかしい――とHさんが気づいたのは、それから二十分ほど経ってのことだ。
S君が、なかなか家に入ってこないのである。
まさかと思って庭を見にいくと、案の定まだしゃがみ込んで、「子犬」を撫で続けている。
すでに空は真っ暗になっている。普段なら、とっくに夕食が始まっている頃だ。
「馬鹿なことやってないで、早く入りなさい!」
思わず怒鳴り声が出た。
S君は、そんな母親をチラリと
一瞬こちらを向いた我が子の眼差しが、なぜか異様に冷たいものに感じられて、Hさんは内心、ゾクリ、とした。
「いい加減にしなさい!」
もう一度怒鳴るが、S君は動かない。
そうこうしているうちに、やがてご主人が仕事から帰ってきた。
Hさんが事情を話す。それからすぐに二人して、S君を連れ戻そうと庭へ出たが、S君はやはりしゃがみ込んだまま、こちらを振り仰ぐ素振りすらない。
「S、もう中に入りなさい」
ご主人が声をかけたが、返事はない。
「S!」
怒鳴っても同じである。
S君は相変わらず、愛おしそうに目を細め、虚空を撫で回し続けている。
――何で、そんな顔をするんだろう。
Hさんはふと、不可解に思った。
――ただ何もない空間を撫でているだけなのに、この子はいったい、何を嬉しがっているんだろう。
S君の表情は、親をからかっている子供の、それではない。
実際に今、何かを愛でている、としか思えない。
しかし――ここには、何もいないはずなのだ。
そう思った刹那、不意にHさんの背筋を冷たいものが、すぅっ、と走った。
……そんな時だ。突如家の中で、電話が鳴り響いたのは。
「俺出る」
苛立ちを紛らわせたいのか、ご主人が電話に立った。
ところが――そのご主人が、何事か話し終えて戻ってくると、ずいぶんと
「なあ、今あった電話なんだけど――」
「誰からだったの?」
Hさんが何気なく尋ねると、ご主人は少し迷ったような素振りを見せてから、こう答えた。
「……子犬の飼い主」
「え?」
「いや、飼い主って人から……。『お宅のお子さんが、うちの犬を捨て犬と間違えて連れていってしまったから、返してもらう』って……」
二人は顔を見合わせ、それから、S君を見た。
S君は――まるで糸が切れたように、地面の上に、バッタリと倒れ込んでいた。
Hさんが悲鳴を上げた。
S君はいつの間にか、意識を失っていた。
その後、救急車で病院に担ぎ込まれたS君は、幸いすぐに意識を取り戻した。
念のため検査もしたが、これといった異常は見つからなかった。おそらく、何らかの精神的ショックで、一時的に気を失っただけだろう――というのが、医者の見立てだった。
ただ、「心当たりはありますか?」と尋ねられて、Hさんは答えに迷った。
……あの「子犬」のことを、果たして信じてもらえるのだろうか。
迷った末、Hさんは、医者には何も話さなかったそうだ。
ちなみにS君は、拾った「子犬」のことを、きちんと覚えていた。
何でも、町外れにある寺の境内で遊んでいた時に、出会ったらしい。
それがずいぶんと人懐っこくまとわりついてきたので、つい家に連れて帰ってしまった、という。
ただ、病院で意識を取り戻してからは、一度も姿を見ていない、と――。
……やはり、嘘をついている様子は、どこにもなかった。
Hさんはご主人と相談した上で、起きたことをそのまま、S君に伝えた。
S君はポカンとしていたが、「そういえば――」と、妙なことを口にした。
「あの犬、お墓の前にいたんだよ」
……聞けば、正規の墓地ではなく、境内の片隅に勝手に作られたと思しき、小さな
もちろん普通の寺であれば、そんなところに無断で何かを埋葬するわけには、いかないだろう。
しかし――
すでに住職はおらず、目を光らせる者は一人もいない。
だから、子供達の遊び場にもなるし、誰かが勝手に何かを埋めることもある。
……なお、もともと墓地にあった遺骨は、寺が廃れた際に、すべてよそに移されたらしい。だから、墓と呼べるものは、境内の土饅頭一つきりだったようだ。
ともあれ――問題の「子犬」は、そのただ一つの墓の前に、じっとうずくまっていたという。
S君曰く、子犬の大きさは、土饅頭のサイズと、ほぼ変わらなかったそうだ。
もしかしたらS君は、子犬の幽霊を拾ってしまったのかもしれない――。
この話は、要するに、そういうことだろう。
ただ――これだけでは解釈しきれないことが、一つある。
Hさんの家にかかってきた電話だ。
……子犬の飼い主を名乗った、あの人物は、何者だったのだろう。
ちなみに、Hさんのご主人が、電話機に記録されていた先方の番号を後で調べたところ、問題の寺のものと、ピタリと一致したという。
……ただしそれは、あくまで住職がいた頃の番号の話だ。
寺が廃寺になって以降は、何の関係もないはずである。
それとも――すでに人も電話もないはずのあの寺から、誰かがかけてきた……とでも言うのだろうか。
「S、あのお寺、誰も住んでないよね?」
気になったHさんは、S君にそう尋ねてみた。
「ううん」
S君は、首を横に振った。
「いるよ? すごく髪の長い、お化けみたいなお爺さんが、いっぱい」
……それが何を指していたのかは、今でも分からない。
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