第百六十九話 すり替わる

 男性会社員のSさんが、今の家に引っ越して間もない頃の話だ。

 Sさんが通勤に使う最寄り駅は、家から表通りを辿って十五分ほどのところにある。初めの数日は、新しい土地で不慣れなこともあり、この表通りを歩いていたが、ある程度町の様子が分かってくると、少しでも近道をしたいと考えるのが人情だ。

 Sさんが、通り抜け可能な裏道を見つけるのに、そう時間はかからなかった。

 ……新たな通勤ルートとなったその裏道は、古びた民家に囲まれ、いつもひっそりとしていた。

 途中、道幅の狭いT字路があった。

 見渡す限り塀ばかりという殺風景なT字路で、しかも街灯が一切なく、朝はまだしも、夜は不気味なまでに真っ暗になる。

 Sさんの帰宅時間は夜の十時頃なので、行きと同じく帰りも裏道を抜けようとすると、どうしても、この真っ暗なT字路を通らなければならない。

 すでに静まり返った、ひと気のない暗闇の中を、疲れた体でとぼとぼと歩くのは、あまり気持ちのいいものではない。

 それでも、T字路を右に折れて十メートルも進めば、コンビニの明かりが煌々こうこうと灯っている。何より、通勤時間の短縮には代えられない。

 だから、ほんの少し我慢をすればいいだけだ――と、最初は思っていた。


 引っ越して十日目の夜だった。

 駅からの帰り道、Sさんがいつものように暗いT字路に差しかかろうとすると、ふと前方に黒い影が見えた。

 目を凝らすと、街灯のない闇の中に、うっすらと人の形が浮かび上がっている。

 誰かが歩いているようだ。他に人がいるなんて珍しいな、と思いながら、足を進める。

 相手は、Sさんと同じ方向に向かっているらしい。この暗闇ではシルエットのようにしか見えないが、肩幅が広く、がっしりとした体つきの、どうやら男性のようだ。

 Sさんは、自然と後を追う形になった。

 前を歩く男性の影が、突き当たりに差しかかる。右に折れる。

 その後ろに続いて、Sさんも右に折れた。

 そして――思わず足を止めた。

 ……前を行く人影の形が、

 相手は道を曲がるまで、肩幅の広い男性だったはずだ。

 なのに今、そのシルエットは、撫で肩にかかった長い髪を揺らしている。

 体型はスラリとして、足にはハイヒールを履いている。

 どう見ても――女性だ。

 一瞬にして別人に変わったシルエットを前に、Sさんは束の間、呆然と立ち尽くした。

 しかし、すぐに思い直した。

 ――単に見間違えただけかもしれない。

 何しろこの暗闇だから、自分が女性の影を男性だと勘違いした可能性は、充分にある。

 ……Sさんがそんなことを考えている間に、女性の影はすたすたと先を行き、瞬く間に闇に紛れて見えなくなってしまった。


 さらに、これと似たような出来事が、三日後にも起きた。

 やはり夜だった。SさんがT字路に差しかかると、またも前方に人影が見えた。

 先日の女性だろうか――。

 そう思って目を凝らしたが、どうやら体型が違っている。

 ずんぐりとして、髪は短い。片手に杖をついている。性別はよく分からないが、老人のようだ。

 Sさんが見守る中、老人の影はゆっくりとした足取りで、T字路を右に曲がっていく。

 後をついて、Sさんも右に折れた。

 そして――またも足を止めた。

 すぐ前の夜道を、小さな影が走っていくのが見えた。

 老人よりも小さい。杖はついていない。

 子供だ。

 小学生ぐらいの男の子と思しき影が、足早に闇の中へ溶け込んでいく。

 ――老人が、子供に

「いや、そんな馬鹿な……」

 Sさんはそう呟いて、小さく身震いした。


 さらに翌晩のことだ。

 Sさんが、やはり遅い時間にT字路に差しかかると、またも前を行く人影が見えた。

 ……性別は、よく分からない。

 ……服装も、よく分からない。

 ……髪型も、年齢も、どれもよく分からない。

 ただ妙にのっぺりとしたシルエットが、のそのそと、T字路を右に曲がっていく。

 不安に思いながら、Sさんも後をついて、右に曲がった。

 すぐに視界の中に、前を行く人影が飛び込んできた。

 ……今夜は、同じ形だった。

 性別も、服装も、髪型も、年齢も、どれもよく分からない、妙にのっぺりとしたシルエットが、そのままそこにあった。

 ただし――背丈だけが、

 人影の背丈は、周囲の民家の屋根を、遥かに高く超えていた。

 ……Sさんは、足を止めなかった。

 もちろん慌てて回れ右をし、急いでその場から逃げ出した。

 それから表通りを辿って家に帰り、以後はずっと、その遠回りの道を利用し続けているという。

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