第百八十六話 カリカリ

 作家のIさんから聞いた話だ。

 ある深夜のことである。いつものように机に向かって、パソコンで原稿を書いていると、ふと背中に、軽いむず痒さを覚えた。

 普段なら手を回して掻くところだが、ちょうど筆が乗っていたため、無視してキーボードを叩き続けた。

 しかし、痒みはじわじわと増してくる。

 不快さが徐々に膨らみ、思考を乱す。

 それでも、意地でもキーボードから手を離すまい、というよく分からない執念が、Iさんを突き動かした。

 Iさんは、座っている椅子の背もたれに、ピタリと背中を押しつけた。

 そして執筆の手を保ったまま、身じろぎするように、もそもそと擦りつけた。

 ……その時だ。

 不意に誰かの指が、Iさんの背中を、カリカリ、と二度掻いた。

「ふおっ?」

 Iさんは驚いて、慌てて椅子から飛び上がった。

 だが椅子には、何の異変もない。

 辺りを見回しても、部屋にはIさんの他に、誰もいない。

 そもそも――背もたれにピタリと押しつけられた背中を、いったい誰が掻けたというのか。

 ……Iさんは気味が悪くなったが、これしきで執筆の手を止めるわけにもいかないので、仕方なく椅子に座り直し、作業を再開した。

 その後執筆は明け方まで続いたが、幸い、奇妙なことは二度と起こらなかったという。


 ちなみに――とても気持ちよかった、そうだ。

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