第百八十七話 寝ていたもの

 男性編集者のMさんは、自宅の近所にある高架下で、奇妙なものを見たという。

 そこは歩行者専用の狭い道路が伸びている場所で、雨露あめつゆしのげることもあって、かつてはホームレスの溜まり場になっていた。

 もっとも、何年か前に行政が対処したようで、彼らはある日を境に、ぱったりといなくなったそうだ。

 その、閑散となった道路を、会社帰りのMさんが歩いていた時のことだ。

 すでに夜の十時を回っていた。

 辺りには他にひと気もなく、ただ街灯の光だけが、高架下に点々と続く。

 頭上を流れる車の走行音もごくわずかで、どことなく心細い帰路である。

 ……そんな時だ。

 ふと、すぐ近くで妙な異臭を覚えた。

 何だろうと思って見回すと、道の片隅に、何かがごろりと横たわっているのに気づいた。

 寝袋――だった。

 アスファルトの上に敷かれた段ボールの上に、汚れて黒ずんだ巨大な寝袋が一着分、どさりと置かれている。

 いわゆる「マミー型」と呼ばれる、体をすっぽり包み込むタイプのものだ。

 ただし、あるのは寝袋だけだ。人は、入っていない。

 その寝袋だけが、きちんとファスナーを閉ざし、巨大な芋虫の亡骸なきがらのように、ベッタリと横たわっている。

 周りには、これまた薄汚れたリュックや傘が、まるで身を寄せ合うようにして置かれている。

 ――また誰か住み着いたのかな。

 Mさんは、そう思った。

 ここにあるのは、どう見てもホームレスのねぐらだ。

 もっともその人物は、今は不在のようだが。

 Mさんはもう一度軽く辺りを見回し、それから帰路を急ぐことにした。

 べつに、まじまじと見るようなものでもない。自分には関係のないことだ――。

 そう思いながら寝袋に背を向け、足を進め出した。

 そこで――。

 ガサッ、と何かの擦れる音がした。

 すぐ背後からだ。

 おや、と思い、振り返ってみた。

 寝袋が――動いていた。

 モソ、モソ、と段ボールの上でうごめき、ゴロン、と寝返りを打った。

 ……中に、人は入っていない。

 頭を出すべき穴には、何もない。

 なのに、しきりに動いている。

 転がり、折れ曲がり、グルリとねじれ――。

 それからまた仰向けに戻ると、ピタリ、と動きを止めた。

 Mさんは――しばしその場に固まり、強張った表情で、無人の寝袋を睨み続けた。

 ……しかし、それ以上は何事も起こらなかった。

 まるで息を引き取ったかのように、寝袋は、もうピクリとも動こうとはしなかった。

 Mさんは、荒れる鼓動をどうにかしずめ、急いでその場を離れたそうだ。


 ちなみに、この奇妙な寝袋が高架下にあったのは、その一夜きりだったという。

 ……寝袋を見た翼朝、Mさんは会社へ行くために、同じ道を歩いた。

 しかしそこには、ホームレスのねぐらなどなく、ただ人々が当たり前のように、会社や学校へ向かうばかりだったそうだ。

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