第百七十九話 夕暮れの琴

 関西に在住の、主婦のYさんが体験した話だ。

 Yさんは以前、とある賃貸のマンションに住んでいた。

 すべてのフロアを合わせても部屋数が二十に満たない、小規模のマンションである。おかげで住人同士の付き合いも多く、そこは長所なのだが、一度いざこざが起きると、かえって必要以上に険悪な雰囲気に陥ってしまう、という欠点がある。

 それを少しでも避けるためだろう。マンション内では、トラブルの元凶に繋がりそうな行為が、かなり厳しく制限されていた。

 例えば、楽器の演奏は騒音の原因になるため、はっきり「一切禁止」となっていたという。


 ところが、ある年の春のことだ。

 具体的に何月何日から――というのは定かでないが、毎日夕暮れになると、どこからともなく、楽器の音が聞こえてくるようになった。

 それも、ピアノやギターといったメジャーなものではない。

 ことだ。

 今時珍しい琴のが、コロリンシャンと響く。

 しかもCDではないらしい。時々詰まったり、同じフレーズを練習するかのように繰り返しているから、生演奏なのだと分かる。

 音自体は、決して大きなものではない。しかし、日々の生活の中に不意に紛れ込んでくる異音は、どんなに優雅な音色であっても、耳障りに思えてしまうものだ。

 琴の音は瞬く間に、マンション中で物議を醸すようになった。

 マンション中――という表現は、決して大袈裟ではない。何しろ音は、すべての部屋で聞こえるのだ。

 壁や天井越しに。あるいは通気口から。またあるいは窓から――。

 コロリンシャン、コロリンシャン、とひたすら響いてくる。

 これを優雅だと言う住人は、一人もいなかった。とにかく鬱陶うっとうしいし、そもそも楽器の演奏は禁止なのだから、弾いている人はすぐにやめてくれ――という声がすべてだった。

 ……ただ、問題があった。

 どの部屋で演奏されているかが、さっぱり分からないのだ。

 マンションの部屋数自体は多くない。だから、一部屋ずつ当たっていけば、「犯人」は分かるはずである。

 なのに、誰に聞いても「うちじゃない」と答える。

 おそらく「犯人」は、いざこざを恐れて、しらを切っているのだろう。しかしそれならば、すぐに演奏をやめればいいだけのことだ。そうすれば、騒ぎは収まる。

 にもかかわらず、琴は毎日、夕暮れを待って鳴り響く。

 次第に住人達の苛立ちも、高まっていく。Yさんもその一人だった。

 Yさんは、マンションの主婦グループの中心にいたこともあって、率先して「犯人」捜しに乗り出すことにした。

 夕暮れ時、琴の音色が聞こえてくるたびに耳を澄ませ、あるいは廊下に出て、音の出所を探る。

 他の主婦達とも一緒になって、耳に神経を集中させながら、マンション中をうろうろと徘徊する。

 ……それでも、やはり出所は分からなかった。

 だが、やがて一箇月も過ぎると、不満の声は次第に小さくなっていった。

 解決できないことは、我慢するしかない。所詮は我慢できる程度の音である。

 そうなると、慣れというものだろう。いつしか誰もが、音を気にしなくなっていった。

 Yさんも気がつけば、まったく苛立ちを覚えなくなったという。

 そんな住人達の心を知ってか知らずか、琴は毎日、優雅な音色を奏で続けていた。


 やがて、五月になった。

 ある蒸し暑い平日の、夕暮れことだ。

 いつものように琴のを聞きながら、洗濯物を取り込んだYさんは、「そろそろ服を夏物と入れ替えよう」と思い、押し入れに向かった。

 夏物の服は、押し入れ内の収納ボックスに仕舞ってある。入れ替えるだけだから、大した作業ではない。

 さっさと終わらせようと襖を開け、ボックスを引っ張り出して、蓋を開けた。

 途端にYさんは、我が目を疑った。

 中に――小さな琴があった。

 畳まれた衣類を毛氈もうせん代わりに、まるでミニチュアのような琴が一張、ちんまりと載っている。

 隣に、これまたミニチュアのような、上品な着物姿の女の子が、正座をしていた。

「……っ?」

 声にならない驚きが、Yさんの口から漏れた。

 同時に女の子が、顔を上げた。

 両目が、ぐちゃぐちゃに潰れていた。

 その潰れた両目で、女の子はYさんを見上げ、にぃっと笑った。

 Yさんの上げた悲鳴は、それこそマンション中に響いたそうだ。


 直後――廊下に飛び出したYさんは、駆けつけてきた近所の人達に事情を話して、全員で押入れを検めた。

 しかしそこには、小さな琴も、目の潰れた女の子の姿もなかったという。

 ……そしてこの日以来、夕暮れ時の琴は、ピタリとやんだ。

 優雅な音色の絶えたマンションは、しばらくの間、どことなく物淋しい雰囲気に包まれていたそうだ。

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