後編
第百六話 漂う家
海運業界で働いている、Hさんの話だ。
Hさんは仕事柄、船に乗る機会が多い。特に洋上を何日もかけて移動することも多く、非常に体力と精神力を使うという。
だから――もしかしたら幻覚を見たのかもしれない、と前置きした上で、Hさんはこんな体験談を語ってくれた。
長い航海の途中だった。
ある日差しの強い午後、Hさんが甲板で仕事をしていると、ふと水平線の彼方に、大きな白い塊が浮かんでいるのが見えた。
船かと思ったが、それにしては妙に四角い。
何だろう、と気にしながらも作業の手を進めていると、その白いものが、次第に大きさを増してくるのが分かった。
こっちに近づいている――と気づき、改めて目を凝らした。
陽射しに歪んだ空気の彼方から、白い何かが、スルスルと距離を詰めてきつつある。
航行中の船に近づいてくるのだから、それなりにスピードが出ているに違いない。なのに、その白いものの周囲には、波一つ立つ様子がない。
まるで海原の上を滑るように、やがてそれは甲板の真横に、ぴたりと身を寄せてきた。
「……ええっ?」
そんな声が、思わずHさんの口を突いて出た。
とにかく目の前にやって来たものが信じられず、Hさんは何度も瞬きした。
……家だった。
紛れもない、一戸建ての家が、そこにあった。
津波か何かで流されてきた、というわけではないらしい。家は傾きも壊れもせず、無傷な姿のまま、二階建ての外観を、波の上に静かに漂わせている。
一階は塀に囲まれている。塀の内側には、庭木も見える。
明らかに、常識ではあり得ないものが、すぐそこにある。
だがそれ以上に、Hさんが声を上げたのには、大きな理由があった。
我が家――なのだ。
目の前に現れた家はどう見ても、陸で家族が待っているはずの、我が家なのだ。
「何で俺の家が……」
ポカンとした顔で佇みながら、Hさんは呟いた。
それから慌てて周りを見た。
甲板に、他に船員はいない。
だから、目の前にあるものが現実なのかどうか、すぐには確かめることができない。
ただ――触れば、分かるかもしれない。
手を伸ばしてみようか、とHさんは考えた。
甲板の
Hさんは腕を上げ、恐る恐る、我が家へと近づいた。
そんな中――ふと視線を感じた。
我が家の、二階の窓からだ。
見上げると、何か白いものが、こちらに向かって手を振っているのが分かった。
何だか、妙にグネグネとした動きだった。
結局――Hさんは我が家に背を向け、逃げるように船内に戻った。
……それから数分して、もう一度甲板に出てみたが、そこにはただ、真っ青な大海原が広がるばかりだった。
後でHさんが船長にそれを報告すると、「船に乗っていると、時々そういうものを見ることがある」と言われた。
ただ間違っても、その家に入ろうとしてはいけないらしい。
そもそも――海の上に、家があるわけがない。
その、あるはずのない家に、海の上で足を踏み入れたら、どうなるか――。
「……そんなことは子供だって分かるよな」
船長は静かに、警告するように、そう言ったそうだ。
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