第八十六話 嫌な部屋

 ホテルや旅館にまつわる怪談に、こんなものがある。

 ……ある客が部屋に入ると、壁に額縁がくぶちがかかっている。

 しかし他の部屋には、額縁などない。なぜこの部屋にだけあるのか。

 不思議に思いながら泊まるが、やがて夜が更けると、その部屋で怪しいことが起こり始める。

 それは例えば金縛りであったり、延々とノックの音が続いたり、部屋の中を何かが這い回ったり……と、内容は様々だ。

 そんな悪夢のような一夜をどうにか乗り切り、翌朝になって客が「もしや」と思い額縁を裏返してみると、そこには一枚のおふだが貼ってあった――。

 ……以上、概ねこのような話である。

 つまり、この部屋には怪異が起きるため、宿の人が壁にお札を貼った。しかしそのままでは目立ってしまい、客に不審がられてしまうので、額縁で隠しておいた――というわけだ。

 この手の怪談は、かなり以前から語られているため、ご存知のかたも多いかもしれない。

 今回も、その類の話である。


 男子高校生のHさんが、修学旅行先で体験した出来事だ。

 その日の宿はホテルで、部屋は四人一組の班ごとに分かれていた。すでに部屋の割り当ても決まっていたため、ホテルに到着後、先生から指示された部屋に、そのまま班全員で向かった。

 ところが部屋に入ろうとした途端に、一人がぼそりと呟いた。

「……この部屋、嫌だ」

「え?」

「嫌な感じがする。他の部屋がいい」

 その言葉に、Hさんはピンと来た。

 壁に――額縁がかかっている。

 中に入って裏を検めると、案の定お札が貼ってあった。

 それからHさん達は、四人で先生のもとへ行き、「部屋を変えてほしい」と頼んだ。

 事情を聞かれたので、額縁の件を話した。しかし――当然と言えば当然だが――それで部屋割りを変えてもらえるはずもない。

「お札が貼ってあるなら、むしろ安全だろ」

 先生は笑って、そう答えた。一理あるだけに、言い返せない。

 結局Hさん達は、その額縁のある部屋に泊まることになった。


 さてその後、何が起きたか――。

 ……結論から言えば、何も起こらなかった。

 特に恐ろしい出来事に見舞われることもなく、Hさん達はぐっすり眠り、翌朝には不安など跡形もなく消え去っていたという。

 やっぱりお札は効果あるんだな、などと笑い話にしながら、朝食後に宿を引き上げて、次の目的地に向かった。

 その移動中の、バスの中でのことだ。

 班の一人が、ふと思い出したように尋ねた。

「……なあ、昨日『他の部屋がいい』って言ったの、Hだっけ?」

「違うよ」

「じゃあ誰だっけ」

「お前じゃないの?」

「俺じゃない――」

 四人が四人とも、順番に首を横に振った。

 それから全員で顔を見合わせ、不思議そうに目を瞬かせた。

 少なくとも班のメンバーの中に、あの時部屋が嫌だと言った者は、一人もいなかった。

 しかし――あの場にいたのは、この四人だけなのだ。

 だとしたら、「他の部屋がいい」という言葉を口にしたのは、誰だったのか……。

 Hさん達は懸命に記憶を巡らせたが、誰一人として、それを思い出すことができない。

 ただ――一人がこんなことを呟いた。

「……女子の声だった気がする」

 もちろん、男子の班に女子が交じっているわけがない。

 だからそれは、絶対にあり得ないはずだった。


 ともあれ、この一件は特に大事には発展せず、そのまま幕を下ろした。

 しかし後になって、Hさんは、ある二つの「確かなこと」に引っかかりを覚えた。

 一つは、声の主が、お札のある部屋を嫌っていたこと。

 そしてもう一つは、その声の主がHさん達を、お札のない部屋に移そうとしていたことだ。

 では――果たしてこれらは、何を意味していたのか。

 ……仮に、もしあの声の主がで、Hさん達を追ってホテルまで付いてきていたのだとしたら――。

 ……そして、もしHさん達がその声に言われるままに、お札のない無防備な部屋に移っていたとしたら――。

 後からその可能性に気づき、Hさんは、思わず背筋を震わせたという。

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