第四十七話 寺に出るもの
ライター業をしている、Oさんの話だ。
ある雑誌の企画で、某県の山寺を取材することになった。
しかも泊まり込みである。現地までの交通の便が悪いため、日帰りは厳しい……というのが実情だったが、「それならいっそ先方にお願いして、泊めてもらったらどうか」という編集長の提案もあって、問答無用で、寺で一夜を過ごすことになった。
ただし一人ではなく、気心の知れた若手編集者のBさんも一緒だという。
多少気を楽にしながら、OさんはBさんとともに、取材先の寺へ赴いた。
紅葉の美しい、秋のことだった。
山の
山道はきちんと整備されているが、長い石段になっているため、どのみちきついことには変わりない。
「こういう石段って、途中で休憩したらいけないような気になりますよね」
「ていうか休憩する場所ないじゃん」
そんなことを言い合っているうちはよかったが、次第に腿が上がらなくなるにつれて、口数も減っていく。
やがて頂上に着いた頃には、二人ともすっかりふらふらになっていた。
そんなOさん達を、住職は快く迎えてくれた。
一息ついた後、さっそく取材が始まった。もっともこれ自体は、特に変わったことはなかったそうなので、割愛したい。
取材を終えた頃には、だいぶ日が傾いていた。
どうやら食事の支度が始まったようで、年若い修行僧達が、くるくると忙しそうに働いている。「手伝いましょうか?」と尋ねてみたが、「これも修行の一環です」と言うので、そのままお任せすることにした。
支度が整うまでの間、OさんとBさんは、通された一室で時間を潰すことになった。この部屋が、今夜二人が寝る場所になるようだ。
畳敷きの小さな部屋である。出入口は障子戸が一箇所にあるのみだ。
二人で細かい打ち合わせを済ませ、そこでBさんがトイレに行きたいと言い出したので、Oさんも同行することにした。
トイレは本堂の裏手から、庭の飛び石を伝っていった先にあった。
外である。
最初にBさんが入ったので、Oさんは表で待つことにした。
陽が落ちた秋の山は、ずいぶんと肌寒い。
きちんと上着を着て出てくればよかったな……と思いながら、Oさんが身を縮こまらせて、飛び石の上に佇んでいると、Bさんがそそくさとトイレから出てきた。
心なしか、慌てているように見える。
「Oさん、今、窓から僕のこと覗いてませんでした?」
「何で男のトイレなんか覗くんだよ」
「女なら覗くんですか?」
「覗かねぇよ」
そんな軽口を交わしつつ、わけを聞いてみると、たった今トイレの格子窓の外に、誰かが立っていたのだという。
ガラスの
「でも、俺以外は誰もいなかったよ」
Oさんがそう言うと、Bさんは「やっぱりOさんが犯人じゃないですか」と真顔で返してきた。
そこは否定しつつ――この時はまだ、冗談を言い合う余裕があったのだ、と思う。
夜更けのことだ。
寺の消灯は早い。二人とも九時には布団に入ったが、どうにも寝つけない。
薄い障子越しに入り込んでくる廊下の寒さが、どうしても眠気を削ぐ。それに疲れこそ溜まっているものの、このような非日常的空間では、どうしても脳が興奮してしまうものだ。
仕方なく二人で、小声で下らないお喋りをしていた。
……その時だ。不意に外の廊下から、何かが聞こえてきたのが分かった。
人の声である。
思わず二人して押し黙った。
声は低くぼそぼそとしていて、何を言っているのかまでは、聞き取れない。
しかし、意味そのものは分かる。あまりにも独特のリズムがあったからだ。
「……お経、ですよね?」
Bさんが、擦れた声で言った。
Oさんも、無言で頷いた。
廊下から聞こえてくる声は、確かに
「寺なんだから、経ぐらい聞こえてもいいじゃん」
「みんなもう寝てる時間にですか?」
その疑問は、もっともだった。
Oさんは息を殺し、耳をそばだてた。
読経は、次第にこの部屋に近づいてきている。
男の声だ。そもそもこの寺には、男しかいないが――。
……ふと障子越しの廊下に、ぼぉっと明かりが灯るのが見えた。
照明が点いたのではない。火だ。
小さな火が揺らめきながら、廊下をゆっくりと移動している。
どうやら誰かが、手に
影は、坊主頭をしていた。
それが障子の前で、ピタリと足を止めた。
同時に読経がやんだ。
――まずい。
本能的にそう察して、Oさんは急いで布団を頭から被った。
直後、カタッ……と、障子の動く気配があった。
ひゅぅひゅぅと、隙間風の音が部屋に響いた。
ただしそれ以上は、何も起きない。
……入ってくるわけではないのか。
……入らずに、覗いているのか。
Oさんは布団の中で身じろぎもせず、得体の知れない何かが立ち去るのを、じっと待った。
風の音は、そのまま一分ほど続いた。
やがて、ぴたっ……と障子が戻る音がして、風はやんだ。
再び読経が始まった。それはゆっくりと廊下を歩き、遠ざかっていくように思えた。
――もう大丈夫かな。
Oさんは恐る恐る、布団から顔を出した。
すでに火は見えない。やはり、行ってしまったようだ。
思わず、深く息を吐いた。肌寒い夜だというのに、全身が汗ばんでいる。
「……何だったのかな、今の」
Oさんは小声で言いながら、Bさんの方を見た。
Bさんは――黙っていた。
布団から体を起こしたまま、石のように
「どうしたの、B君」
「……目が、合っちゃいました」
Bさんが、震え声で応えた。
どうやら、例の読経の主と、直接顔を見合わせてしまったらしい。
「障子がこう、一センチほど開いたんです。その隙間の向こうにアレがまっすぐ立って、顔をピッタリと付けて、中を覗いてきて……」
「どんなやつだった?」
「……片目と鼻と口が見えました」
「そりゃそうだろ」
間の抜けた答えに、Oさんは脱力した。特に突飛なものがいたわけではなかったようだ。
だとしたら、実際は怪しい出来事でも何でもなかったのかもしれない。
例えば今のは住職で、修行僧や客がきちんと寝たかどうかを確かめるために、巡回していた――。そう解釈することだって、できるわけだ。
「ほら、修学旅行の時、消灯の後で先生が部屋を回ってたろ? あんな感じだよ」
Oさんはそう言ったが、Bさんは納得していないのか、ずっと強張り続けていた。
ともあれその夜は、これ以上奇妙な出来事は起こらなかった。
翌朝になってOさんは、住職に、昨夜の話をしてみた。
ああ、あれは私ですよ――とは、ならなかった。
住職は、少し決まり悪そうな素振りを見せながら、こう答えた。
「あれは、私の父――先代の住職だと思うのです」
もちろんその先代は、すでに他界されているという。
しかし、息子である今の住職や、若い僧達の修行を見守るためか、今でもあのように、寺の中を歩き回っているらしい。
「このことはご内密にお願いします。坊主の父親が化けて出るなんて世間に知れたら、笑いものになりますからな」
話の最後に、住職はOさんに、そう釘を刺した。
冗談のようにも聞こえるが――実際のところ、悪評が立って
Oさんも何となく察して、「分かってます」と頷いた。
それから朝食を終えると、Oさん達は住職に礼を言って、寺を後にした。
下りの石段で、Bさんは、ずっと無言だった。
登りに比べて遥かに楽なのに、冗談の一つも出てこないのは、やはり幽霊を見てしまったショックからか。
Oさんはそう思ったのだが――。
麓に着き、停めておいた車に乗ったところで、Bさんがおずおずと話しかけてきた。
「……Oさん、一つ確かめたいんですけど」
「どうしたの?」
「幽霊って、要するに人間ですよね?」
「死んだ人間なんだから、まあ、一応人間って言えるよな」
「ってことは、少なくとも、人間の形はしてるはずですよね?」
「……どういうこと?」
「あの、昨日も言ったと思うんですけど――」
――障子が一センチほど開いて、そこに片目と鼻と口が見えた。
「Oさん、人間がまっすぐ立って、一センチの隙間に顔を押しつけてきたとしたら、その顔はどんな風に見えると思います?」
「…………」
「僕が見た顔って、明らかに形が人間じゃないんですよ」
――あれは本当に、ご住職のお父さんだったですかね。
Bさんのその言葉に思わずゾクリとして、それからOさんも、車の中ではずっと無言だったそうだ。
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