第百一話 スクリーン
H県に在住のTさんが、隣町の映画館を初めて訪れた時のことだ。
そこは、設備はいささか古びているが、一応複数のスクリーンを抱えた、いわゆるシネマコンプレックスである。ただ、平日の昼間とあって客はほとんどおらず、ロビーで待機している時点で、すでに目に留まる人間はスタッフばかりという有り様だった。
もっとも、一人の方が気楽でいい――。Tさんはそう考えながら、近日公開作品のポスターなど眺めて、時間を潰していた。
やがて開場のアナウンスがあった。
Tさんはチケットを手に、ロビーの奥にある総合入場口に向かった。
もぎりに半券を切ってもらい、入場口を通ると、その先は上りのエスカレーターである。他に客もいないため、気兼ねなく真ん中に乗る。
降りた先では、細い通路が枝分かれを繰り返しながら、静かに伸びていた。
いくつものスクリーンホールが、そこかしこに暗い入り口を開けて、客の訪れをじっと待っている。まるで、巨大な虫の巣穴に迷い込んだかのようである。
軽く緊張しながらも、「確かここだ」と、手前から三番目の入り口に入った。
小さなホールだった。中は照明が落ちていたが、正面のスクリーンだけが白く光っている。時間に余裕をもって入場したはずだが、すでに上映寸前なのだろうか。
客はやはり、他に誰もいない。
座席は指定されていたが、どうせ自分一人なので、これも中央に陣取ることにした。
椅子に腰を下ろし、鑑賞しやすい姿勢を作る。スクリーンは相変わらず白いままだ。
Tさんは息をついて、映画が始まるのを待った。
……そして、一分が経った。
スクリーンの様子は変わらない。普通なら予告編なり諸注意なりが流れるはずだが、何も始まる様子がない。
もしかしたら、やはりまだ時間に余裕があるのだろうか。
……そう思った時だ。
ふっと、スクリーンが暗くなった。
同時に、カタカタカタカタ……と映写機の回る音が聞こえてきた。
――いくら古めの映画館とはいえ、今時、映写機の音が聞こえるものだろうか。
Tさんは少し引っかかりながらも、頭を背もたれに預けた。
スクリーンが再び明るくなった。
映し出されたのは、画面いっぱいの、女の顔だった。
白塗りの濃い、髪の長い女だった。
歳は分からない。化粧が濃すぎて、美人かどうかさえも言い表せない。
ただ――日本人のようだ。
Tさんが見にきたのは、洋画なのに、だ。
スクリーンに映し出された女の顔は、無表情のまま、まっすぐ正面を見つめ、微動だにしない。
始めは、何か意図のある演出だろうと思った。しかし、そのまま数分が過ぎようとしたところで、さすがにTさんも「おかしい」と感じ始めた。
さっきから、この女の顔しか映っていない。音すら流れない。
……それに、自分が真ん中に座っているせいもあって、ずっとこの女に見つめられているような錯覚を覚えてくる。
居心地が悪い――。
Tさんは次第にそわそわし出した。
スクリーンの様子が変わることはない。
明らかに、何かがおかしい。
――もしかしたら、ホールを間違えたのかもしれない。
Tさんはそう思って、一度外の通路に戻ることにした。
手早く荷物を抱えて席を立つ。どうせ
そこで――ふと、強烈な視線を感じた。
Tさんがハッとしてスクリーンの方を振り返ると、でかでかと映し出された女の顔が、Tさんの動きを追うように、真っ黒な
――うわ、これ映画じゃない。
Tさんはそれを確信して、急いでホールを飛び出した。
それからTさんは、ちょうど外の通路にいたスタッフを呼び止めて、事情を説明した。
スタッフがチケットを確かめたところ、やはりTさんは、入るホールを間違えていたらしい。
ただ――その誤って入ったホールでは、今の時間は何も上映されていないはずだ、という。
「でも、顔が映ってるんだよ」
Tさんにそう言われて、スタッフは首を傾げながら、問題のホールに入っていった。
……彼は一分と経たず、真っ青な顔で駆け戻ってきた。
間違いなく、同じものを見たのだろう。
その後Tさんは、「とにかく正しいホールにご案内します」というスタッフの申し出を断り、帰ることにした。さすがにこれ以上、一人きりでスクリーンを眺める勇気がなかったからだ。
以来、この映画館には行っていない。
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