第十四話 幼馴染の話
今は都内で老後を送っている、Sさんという男性が、まだ十歳だった頃の話だ。
当時のSさんは、関東圏の
すぐ近所に裕福な屋敷があった。そこにはKちゃんという一歳下の女の子がいて、それこそハイハイしている頃からの友達だった。言わば
Kちゃんはおとなしい性格で、人見知りが強かったが、Sさんにはよく懐いていた。
SさんはそんなKちゃんを、いつも妹のように可愛がった。
Kちゃんは時々、「大きくなったらS兄ちゃんのお嫁になる」と言って、Sさんを赤面させた。もちろんそれは、本気の恋愛というよりも、子供特有の無邪気な
ただ、もしこのまま二人が何事もなく大人になれば、あるいは本当に、そのような道を辿っていたのかもしれない。
しかし――あくまで「もし」の話だ。
それは、Sさんが十歳になった、春のことだった。
いつものようにKちゃんを連れて、近くの森で遊んでいた。
夕暮れになり、そろそろ帰ろうか――というところで、Kちゃんが「あっ」と小さく叫んで、森の奥を指差した。
見ると、薄暗く陰った先に、いくつもの灯のようなものが浮かんでいた。
――お祭りみたい。
Kちゃんがそう言って、森の奥に向かって、とことこと歩き出した。祭りの夜に並ぶ
Sさんも後を追った。
草を掻き分けて進むうちに、次第に背後の闇が濃くなっていくのが分かった。
夕日が沈み、夜が訪れたのだ。
森の灯が、一際キラキラと
いつしか二人は笑っていた。
草や枝が体に擦れるのも気にならずに、一心不乱に灯を求めて歩いた。
どこまで歩いても、辿り着けなかった。
Kちゃんが、辛抱できずに走り出した。
Sさんも後を追って走った。
そこで――記憶が途切れた。
……気がつくとSさんは、家の布団に寝かされていた。
目を覚ましたSさんに、両親が事情を話した。
どうやらSさんが森に行ったきり帰ってこないので、村総出で山狩りがおこなわれたらしい。ようやく見つかった時には、Sさんは大木の根本で、
それから三日三晩、意識が戻らなかったそうだ。
Sさんは、両親からこっ酷く
ただ――引っかかることがあった。
Kちゃんの話が、一向に出てこないのだ。
「Kちゃんはどうしたの?」
Sさんが尋ねると、両親は一瞬口を
何かを隠している――。
Sさんはそう直感したが、得体の知れない不安に苛まれて、それ以上は何も聞けなかったという。
その日を境に、Kちゃんは姿を見せなくなった。
今までのように遊びにくることもなくなったし、こちらからKちゃんの家に行っても、先方の家族が会わせてくれない。学校にも来ないし、外を出歩いているところを見たこともない。
「Kちゃんは、どこに行ったの?」
大人達にそう聞いて回ったが、誰一人として答えてくれない。いや、それどころか、突然怒られて追い払われることすらある。
「Kちゃんのことはもう口にするな。分かったな?」
父親から厳しくそう言われ、Sさんは黙るしかなかった。
それでも、突き止めたいという気持ちが、消えたわけではなかった。
だから――その年の夏のことだ。
Sさんは、Kちゃんの家に、こっそり忍び込んでみた。
もっとも、空き巣
直接Kちゃんを訪ねていっても、追い返されるだけだ。ならば忍び込んでみよう――と考えるのは、子供なりに、理に適っていたといえる。
Sさんは放課後、日が暮れる前の時間に、勝手口からKちゃんの家に入ってみた。
何人ものお手伝いさんが働いていたが、特にSさんの姿を見ても、
とは言え、さすがにKちゃんの両親に見つかれば、摘まみ出されてしまうに違いない。だから堂々と――というわけにはいかない。物陰から物陰へと、できるだけ人目に触れないようにしながら、廊下を進んでいく。
しかし、Kちゃんの姿はどこにもなかった。
Kちゃんが使っていたはずの部屋は、空っぽだった。Kちゃん本人はもちろん、家具の類までもが、きれいさっぱり消えていた。
途方に暮れながら、「そろそろ帰ろうか」と思った時だ。
ふと――すぐ近くで、女の子の笑い声が聞こえた気がした。
……Kちゃんの声だ。
そう思って辺りを見回すと、目立たない廊下の突き当たりに、小さな引き戸があるのに気づいた。
近寄って、そっと開けてみた。
引き戸の先は、細長い階段になっていた。
Kちゃんの家は
しかし階段は、なぜか下へと続いている。
階下に
……微かにまた、Kちゃんの笑い声が聞こえた。
Sさんは、階段を下りてみることにした。
息を殺し、音を立てないよう、一歩一歩慎重に足を下ろしていく。
やがて階段が途切れ、狭い廊下に着いた。
低い天井と、板壁に並ぶ
……しかしその視線はすぐに、廊下の奥へと、吸い寄せられることになった。
太い木で組まれた、大きな格子が見えた。
それが奥の突き当たりを、壁の代わりに覆っている。
その格子の向こうに――Kちゃんがいた。
格子にぴたりと体をくっつけて、こちらを見て笑っていた。
ボウボウに伸びた前髪の下に、正気の抜けた目と、限界まで吊り上がった
着ているものは、寝間着だけだった。それも半裸にはだけていたが、Kちゃんは恥ずかしがる素振りもなく、ただ「ひぃひぃひぃ」と、意味のない奇声ばかりを漏らしていた。
「……Kちゃん」
呆然と、Sさんが呟いた時だった。
ふと――後ろから、ポンと肩を叩かれた。
「こら、見たらいかん!」
そう言われて驚いて振り返ると、そこにいたのは、この屋敷でKちゃんの世話係をしている、顔見知りのお婆さんだった。
どうやら、Sさんが地下に入っていったのを見かけて、連れ戻しにきたらしい。
「旦那様と奥様に見つからないうちに、早く」
お婆さんはそう言って、Sさんを引っ張って外に出ようとした。
「待って、Kちゃんは?」
Sさんが尋ねる。これを確かめないことには、帰るわけにはいかない。
するとお婆さんは表情を曇らせ、静かに首を横に振った。
「お嬢様は、もういかん。つかれたきりだからなぁ」
「つかれた――?」
「全然落ちてくれん」
何を言っているのか――当時のSさんには、まったく分からなかった。
ただ、直後にお婆さんから言われたこの一言で、思わず肌が
「……S、お前は、三日で落ちたのになぁ」
その言葉には間違いなく、Sさんへの憎しみが籠っていたそうだ。
Sさんは、それからすぐに家に戻り、以来Kちゃんのことは絶対に口にしなくなった。
それから歳月が流れた。
大人になったSさんは、村を離れ、東京で暮らし始めた。
やがて就職し、結婚して、子供ができて――。次第に身も心も東京の人間へと変わっていく中、ふとある時、故郷の村が近々廃村になるという報せを、新聞で見た。
Sさんは、休みの日を利用して、日帰りで村に行ってみることにした。
家族にはただのドライブだと言って、車で一人で出かけた。
着いた村には、人っ子一人いなかった。
Sさんの両親は他界していたから、生家がもぬけの殻なのは知っていたが、他の家々も廃村を理由に、よそへ移ったようだ。
……Kちゃんの家も、すでに廃墟になっていた。
外から眺めながら、裏の勝手口へと回ったところで、不意にあの日の記憶が鮮明に蘇った。
Sさんは、そっと中に入ってみた。
もちろん誰もいない。
廊下に上がり、うず高く積もった
Sさんは、そっと引き戸に手をかけて、開いてみた。
暗いはずのその先に、はっきりと階段が見えた。
階下に、いくつもの明かりが灯っている。
キラキラと光るその明かりは、かつて森で見た、あの不思議な灯と同じだった。
ふと――笑い声が聞こえた。
階下からだ。
そして――。
「――S兄ちゃん」
確かに、そう名を呼ばれた。
Sさんは、すぐに引き戸を元どおりに閉めると、急いで廃墟を出た。
そして、振り返りたくなる気持ちを懸命に
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