第四十三話 関わるな

 Nさんという男性会社員の身に、十年以上も前に起きたことだ。

 日曜日に友達数人で集まって、とある音楽イベントに参加することになった。

 ただ友達曰く、その日の夜は、雨だという。

 イベント自体は日中に終わるが、流れで飲み会になるのは目に見えている。つまり、帰りはほぼ間違いなく、降られるわけだ。

 Nさんは普段、傘を持ち歩く習慣がない。雨に降られた時は、コンビニでビニール傘を買って済ませている。おかげで玄関の傘立てがビニール傘だらけだったので、つい最近まとめて処分したばかりだ。

 同じことを繰り返すのも能がないと思い、Nさんは当日、バッグに折り畳み傘を入れていくことにした。


 そして、日曜日が来た。

 当初の予定どおり、イベントの後は飲み会に移った。気心の知れた仲間同士で大いに盛り上がり、Nさんが帰る頃には、すでに終電の時刻が訪れていた。

 雨は降っていなかった。もっとも酔いの回ったNさんは、すっかり天気のことなどは忘れていた。

 地下鉄に乗り、家の最寄駅でひとり降りて、地上に出た。

 外では、ようやく雨がしとしと降り始めていた。

 酔ったNさんはいつもの癖で、近くのコンビニに駆け込んだ。

 店員が手際よくレジ前にビニール傘を置いていたので、一本買って表に出た。

 そこで――思い出した。

 傘はバッグの中にあったのだ。無駄なことをしてしまったと思いながら、買ったばかりのビニール傘を差して、再び帰路を行き始めた。

 表通りを抜け、ひと気のない真夜中の道を歩いていく。

 雨の滴る音が、常に静寂を掻き消している。おかげで夜道の心細さはない。

 アルコールも手伝って、だいぶ判断力が鈍くなっていた。

 ――そんな時だ。

 ふと、行く手に白いものが見えた。

 小さな川にかかった橋の上に、誰かが佇んでいた。

 街灯が姿を照らしている。女だ。

 雨具を持っていないのだろう。長い黒髪と、薄手の白のワンピースが、雨で全身にべったりと張りついている。

 歳は二十代か、それより少し若いだろうか。

 整った顔立ちをしている。ただ、表情はない。

 それが素足にサンダル履きで、こちらの方を向いて、じっと立っている。

 いったいこんなところで、何をしているのか――。Nさんが酔っていなければ、「おかしい」と不審に思うことができたかもしれない。

 歩みを進めるにつれて、距離が縮まってくる。間近に迫るにつれて、Nさんの目は自然と、女の顔と、濡れた体に吸い寄せられた。

 酔った勢いと助平心が、Nさんを突き動かした。

「ねえ、どうしたの?」

 思わず、気軽に声をかけていた。

「びしょ濡れじゃん。うち来る?」

 さすがに冗談めかしたが、あいにく、女からの反応はない。

「じゃあ、この傘使う?」

 Nさんは気を取り直して、真っ当にビニール傘を差し出した。

「俺もう一本傘持ってるからさ。今度会ったら返してくれればいいから――」

 そんなことを言いながら、女の手を取って、ビニール傘を握らせる。

 ……と、女が不意に、にっこりと微笑んだ。

 Nさんもつられて、締まりのない顔で笑い返した。

 それから自分の折り畳み傘を差すと、女に手を振って、別れた。

 橋を渡り切ったところで振り返ると、女は渡された傘を使うことなく、Nさんの方を見ながら、じっとその場に立っていた。

 Nさんはもう一度手を振って、帰路を急いだ。


 翌朝のことだ。

 Nさんは、一戸建ての家で一人暮らしをしている。

 起きて顔を洗い、それから新聞を取りに玄関に向かった。

 表に出るために靴を履こうとして、ふと見ると、三和土たたきが妙に濡れている。

 昨日帰った時に、雨が吹き込んだのだろうか。しかし、一晩で乾かないほどの雨ではなかったはずだが――。

 傘立てに挿したビニール傘を横目に、Nさんは表に出た。

 よく晴れた朝だった。

 門柱のポストに入っていた新聞を抜き出し、再び家の中に入る。

 そしてドアを閉め、靴を脱いで玄関に上がりかけ――。

 そこでようやく、「あれ?」と気がついた。

 家に溜まっていたビニール傘は、つい最近まとめて処分したばかりではないか。

 不思議に思い、もう一度傘立てを見た。

 やはりビニール傘が、一本だけある。

 表面に、透明な水滴の粒が、びっしりと張りついている。

 コンビニでビニール傘を買ったことは、うっすらと覚えている。しかし、その後は確か……。

 昨夜の記憶を辿りながら、視線を下ろす。ビニール傘の隣に、湿った折り畳み傘が、申し訳なさそうにちょこんと置かれている。

 ――そうだ。昨日は途中から、折り畳み傘を使ったんだ。

 ――こっちのビニール傘は、道端で女に貸して……。

「……何でここにあるんだ?」

 思わず声に出して呟いていた。

 考えられるとすれば――あの女が、のか。

 しかし、住所を教えた覚えはない。

 それともまさか、後を付けられたとでもういのか。けれど玄関のドアは、帰った時に、しっかりと施錠している。彼女が外から、三和土の傘立てに傘を突っ込めたはずがない。

 わけが分からない――。

 Nさんが困惑に陥っていた、その時だ。

 ……ポタ。

 微かなしずくの音が、耳に囁いた。

 ……ポタ。

 すぐ近くで、鳴っている。

 辺りを見ると、扉付きの下駄箱の下から、水が垂れている。

 ここに濡れた靴を入れた覚えはない――。

 現に、昨夜履いていたスニーカーは、三和土に出しっ放しにしてある。

 Nさんは恐る恐る、下駄箱の扉を開けてみた。

 ……見慣れぬサンダルがあった。

 女物だ。

 そのサンダルから水が滴り、下駄箱の下から漏れていたのだ。

 そう言えば――昨日の女も、サンダル履きではなかったか。

「何で、ここに……?」

 ビニール傘を見つけた時以上の困惑が、Nさんを襲った。

 だが、その意味に気づいた途端、困惑は恐怖へと変わった。

 ――まさか、

 Nさんは慌てて、三和土から廊下を振り返った。

 ひと気は、ない。

 靴を脱いで、そっと上がる。

 その途端、足の裏にとした感触が走った。

「おぉっ?」

 小さく叫んで見下ろすと、足元のフローリングが、まるで雑巾で拭いたばかりのように、しっとりと濡れている。

 ……いや、足元だけではない。目を凝らすと、濡れた跡は廊下をなぞるようにして、奥に向かっていた。

 ――女が歩いた跡だろうか。

 そう考えたものの、すぐに「違う」と思い直した。

 廊下に付いた跡は、湿り気で出来た帯のように、一本の線を描いている。

 濡れたモップを廊下に押し当てて突き進んだ跡――という喩えが、一番しっくり来るかもしれない。

 しかし、もしあの女が濡れた足で歩いたのなら、廊下には「足跡」が残るはずである。

 だからこの廊下の跡は、そうじゃなくて――。

 ……いったい、何なのだろう。

 合理的に考えようとしたら、ますますわけが分からなくなった。

 ――女が自分の足跡を拭きながら、廊下で後ろ歩きをした? そんな馬鹿な。

 ――それとも、のか?

 ――いや、そんなはずはない。だって彼女は、サンダルを履いていたじゃないか。

 ――でも、現にこれは……。

 妄想じみた考えが、頭の中を延々と渦巻く。

 Nさんは――素直に、跡を辿ってみることにした。

 濡れたところを踏まないようにしながら、そっと廊下を進んでいく。

 ……跡は、寝室まで続いていた。

 ついさっきまで、Nさんが寝ていた場所だ。

 朝起きた時、特に異変はなかったはずだが……。それに、廊下もまだ濡れていなかったように思う。

 Nさんはそっと、寝室に足を踏み入れた。

 敷かれたカーペットの上に、湿った帯が続いている。

 帯は、ぐねぐねと蛇行しながら、部屋の片隅にあるクローゼットの前で途切れていた。

 ――開けるべきか?

 正直、身の危険を覚えないわけではなかった。

 しかし、確かめずに済ませることもできない。

 観念してクローゼットに歩み寄る。

 そして扉に手をかけた、その時――。

 ……パッ、と背後から両目を塞がれた。

 濡れた冷たい手が、すぐ後ろから伸びてきて、Nさんの顔を覆っていた。

「うわっ!」

 思わず叫んで振り解いた。

 それから振り返ったが、もうそこには何もいなかった。

 ただ、すぐ背後のカーペットが、まるでコップの水でもぶちまけたかのように、ぐっしょりと濡れていたそうだ。


 しかもこの異変は、一度きりでは済まなかった。

 Nさんはほぼ毎日のように、家の廊下を湿った帯状の跡が走っているのを、見つけた。

 その跡を辿ると、必ずがいた。

 もっとも、直接姿を現すことはない。

 例えば居間では、背後から濡れた手で、頬を撫でられた。急いで振り返っても、誰もいない。

 風呂場では、Nさんが覗き込んだ途端に、耳元で「ひ……」と笑う声だけがした。

 もちろん跡を辿らずにいれば、遭遇することはない。しかし生活している以上、そう上手く行かない時もある。

 例えば、ある日のことだ。Nさんがトイレに行こうとすると、例の湿った跡が、そのトイレまで続いているのが見えた。

 嫌だな、と思った。しかし、我慢できる状態でもない。

 仕方なくトイレに入って、便器の蓋を開けると、中に真っ黒な髪の毛がびっしりと詰まっていた。

 Nさんは耐えられずに家を飛び出し、近くの公衆トイレで用を足す羽目になった。

 この「髪の毛」にも、しばしば悩まされた。

 朝起きると、濡れた長い髪が一筋、なぜかNさんの顔に貼りついていることが、何度もあった。

 もちろん、自分の髪ではない。気持ちが悪いので念入りに顔を洗うと、今度は顔を洗った指に、新たな髪の毛が絡みついている。

 そういう日は、炊飯器や湯船の中にも、見知らぬ長い髪の毛が紛れ込んでいることが多い。うんざりしながら夜中になり、ベッドに入ろうとすると、布団の中に濡れた髪の毛の束が、とぐろを巻いている――。

 Nさんはやがて、頻繁に会社に泊まり込むようになった。

 ただ、こんな暮らしを、いつまでも続けるわけにはいかない。そう思って一度、実家の両親と兄に相談してみた。

 すぐに兄が来てくれた。兄は「女を見つけて警察に突き出してやる」と言って、家探しを始めた。

 例の濡れた跡は、すぐに見つかった。兄はNさんをその場に残して、勢い込んで跡を辿っていったが、五分としないうちに逃げ戻ってくると、語気を荒くして叫んだ。

「馬鹿っ、すぐに引っ越せ!」

 兄の首筋に、血がにじんでいた。女にらしい。

「ここにいたら命がないぞ!」

 真っ青な顔で悲鳴を上げる兄を、Nさんは懸命に宥めた。

 ともあれ――この助言に従う以外に、手段はなさそうだった。


 ……以上が、Nさんという男性会社員の身に、十年以上も前に起きたことである。

 この後、Nさんはすぐに引っ越したそうだ。

 そして学んだことがある。「この世には、絶対に関わってはならないものがある」ということだ。

 ――事件から、十年以上が経った。

 Nさんは、五回引っ越した。

 女は、Nさんのところに、まだいる。

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