第四十四話 訪ねてきたもの
男性会社員のNさんが、十五年以上前に体験した出来事だ。
当時Nさんは中学生だったが、学校に馴染めず、いわゆる「引きこもり」になっていた。
家族や担任の先生はずいぶん心配したが、何しろ反抗期ということもあって、そういった心配そのものが
Nさんの家は都内のマンションで、家族はご両親のみだ。そのご両親も共働きだったから、昼間はNさん一人が家にいることになる。そのタイミングだけが、Nさんが唯一日中に自室の外へ出る時間だった。
Nさんは昼ぐらいに起きると、耳を澄ませて家族がいないのを確かめてから、部屋を出る。食事は作り置きされたものが台所に置いてあるので、それで済ませる。その後は部屋に籠ってネットやゲームなどで時間を潰し、眠くなったら寝る。次に部屋を出るのは、家族が寝静まった真夜中だ。やはり作り置きされている晩ご飯を食べ、ぬるくなった風呂の湯に浸かり、部屋に戻る。そして眠くなったら寝る――。それがNさんの日課だった。
もちろん例外もあって、どうしてもトイレに行きたくなった時などは、家族がいても部屋から出て素早く済ませたし、逆に家族が仕事休みで家にいる時などは、たとえ日中でも部屋に籠りきりだった。どちらにしても、当時のNさんが家族の目を避けていたのは確かだ。
さて、このような日々を送っていると、どうしても「音」というものに敏感になる。今この家に人の気配があるか。あるとしたら父親と母親のどちらか、あるいは両方か。どの部屋にいて、何をしているのか。寝ているのか、起きているのか――。そういった情報を、Nさんは自分の部屋に籠りながら、すべて耳で確かめていた。
家の中だけでなく、エレベーターから玄関に至るまでの通路にも、自然と注意を払っていた。足音や、スーパーのビニール袋が擦れる音、鍵が鳴る音――。そんな音が少しでも聞こえれば、たとえ日中でも、Nさんはすぐに自室に引っ込むのだった。
そんな生活が三ヶ月も続いた、ある初秋の水曜日こと。
午後三時――ともなれば、家族はまだ仕事に出ていて、普段なら誰が帰ってくることもない時間だ。Nさんが部屋のベッドでうたた寝していると、不意に玄関の外で、ガチャガチャと鍵の音がした。
誰かが帰ってきたようだ。この時間なら、パートに出ている母の方だろう――。Nさんがそう思ったところで玄関のドアが開き、人の気配が上がり込んできた。
玄関を閉め、靴を脱ぎ、廊下に上がり、Nさんの部屋の前を通り過ぎ、リビングに向かう――。そんな母親の一連の動作を耳で追いながら、「帰ってくんの早ぇよ」と内心悪態をつく。もっとも今まで部屋で寝ていたわけだから、特に文句を言う理由もないのだが……。当時反抗期だったNさんにとって、家族の生活音そのものが嫌悪の対象にもなっていた。
すぐにテレビの音が聞こえてきた。それから台所で水音がして、カチリと何かのスイッチが鳴る。ポットで湯を沸かしているのだろう。お茶でも飲むのだろうか。
ゴボゴボと湯の沸く音に耳を傾けながら、Nさんは母の動向を探る。もっとも、この部屋には入ってくるなと何度も言ってあるから、干渉してくることはないだろうが……。
やがてポットの音が止まり、少ししてお茶を
そして――三十分も経った頃だろうか。
不意に玄関で鍵が鳴った。
Nさんがハッとしたのと、玄関のドアが開くのと、同時だった。
父だろうか。いやに早い帰りだが……。
しかし不思議なことに、廊下を歩いて部屋の前を通り過ぎていく足音や気配は、母のそれによく似ている。
その直後、母の声が響いた。
「N、テレビ見てたの? 見終わったら消してね?」
……あれ?
Nさんは目を
「お茶飲んでたの? ねえN?」
再び母の声がNさんに呼びかけてきた。Nさんは仕方なく「知らない!」と声を上げ、それから無言で部屋の中に立ち尽くした。
言われたことが理解できなかった。テレビを点けたりお茶を飲んだりしたのは、もちろん自分ではない。だが……母でもないらしい。少なくとも、母は今帰ってきたようだ。
ということは、三十分ほど前に帰ってきたのは、父なのか。父がテレビを点けてお茶を飲み……いや、それはない。もし父が帰っていたなら、今この場で母と何らかの会話があるはずだ。
考えられる可能性は二つあった。帰ってきた父が消えたか、あるいは、さっき帰ってきたのが父でも母でもなかったか、だ。
だとしたら、あれは「帰ってきた」のではない。
……「入ってきた」のだ。
でも――とそこでNさんは冷静に考え直した。
少なくとも三十分前に現れた「誰か」は、うちの鍵を持っていた。その上で、両親のどちらでもないとしたら、それは合い鍵を持っている人物だ。
マンションの管理人か、それともこっそり鍵を作った別の人物か――。いや、どっちにしろ、それが人の家に勝手に上がり込んで盗みでも働くならまだしも、テレビを見ながらお茶を飲んでくつろぐ理由がない。
わけが分からなかった。もっとも、それを母親に話して相談することは、引きこもりだった当時のNさんにはできなかった。
結局自分一人で抱えたまま数時間を過ごし、夜になって父親が帰ってきたのを耳にして、疑問ははっきりと不安に変わった。
父でも母でもない「あれ」は、誰だったのか……。
だがその不安も、一夜明ければ忘れてしまうはずだ――。少なくとも、Nさんはそう信じていた。
次にNさんがそれを体験したのは、翌日の午後のことだった。
エレベーターから降りてきた足音が、玄関の外で止まるのが聞こえた。ちょうどジュースを取りに台所に行っていたNさんは、ペットボトルを引ったくるようにつかむと、急いで部屋に引き返そうとした。
最初はいつもの「家族と顔を合わせたくない」という条件反射から出た動きだったが、途中ですぐ、それは不安に切り替わった。
――あれ、この時間って、もしかして昨日と同じ?
Nさんは気づいた。時計が午後三時を指していることに。
例の奇妙な体験が鮮明に蘇ってきた。昨日の同じ時間に家にやってきた、母でも父でもない、別の「誰か」……。今もまた同じことが起きようとしているのだろうか。
部屋へ向かう足が自然と早まる。廊下を急ぎ足で進む傍ら、外で鍵の音が鳴る。視界の端に玄関の様子が見える。ドアノブがゆっくりと回っている。
――見たくない。
とっさに顔を背けた。それに……。
――見られたくない。
入ってくる「誰か」に自分の姿を見られることが恐ろしく思えた。相手が何者なのかは分からないが、自分が家にいると知られてはならないと、そう思った。
自室のドアを開けると同時に、玄関のドアが動く気配があった。Nさんはすぐ部屋に飛び込み、後ろ手に、素早く静かにドアを閉めた。
……「誰か」が家に入ってきた。
上がり込む気配があった。廊下を微かに
Nさんはドアに背を預け、じっと息を殺しながら、相手の様子を窺い続ける。
相手は廊下を進み、やはりリビングへ行くと、テレビを点けた。それから台所でポットをいじる。昨日と同じだった。
……そう、ここまでは。
自室のドアに張りついていたNさんは、すぐ異変に気づいた。不意にテレビの音が消えたかと思うと、リビングでくつろぎ始めたはずの「誰か」の気配が、ゆっくりと動き出したのだ。
衣擦れの音が、再び廊下に戻ってきた。
テレビが消えて静寂が戻った家の中に、ぺた、ぺた、と足音が微かに響く。
帰るのだろうか。それとも――。
Nさんの心の中に、ふと嫌な予感が生まれた。
その予感を裏切ることなく、足音は、Nさんの部屋の前で、ピタッと止まった。
Nさんが背中を預けたドア越しに、「誰か」がじっと佇んでいるのが分かった。
カタッ、とドアノブが小さく鳴った。Nさんは触れてない。触れたのは、廊下にいる「誰か」だ。
――入ってくる!
Nさんは背中でドアを押さえたまま、とっさに震える手でドアノブをつかみ、動かないように力を込めた。
ガタ、ガタ、とドアノブが蠢いた。Nさんが押さえているため、回りはしない。だが――これで少なくとも相手は、Nさんが部屋にいることを確信したはずだ。
ガタ、ガタガタ。
ドアノブが鳴り続ける。それを握り締めるNさんの手に、じわりと汗が滲み出る。
カリ、カリ……。
ドアを引っ掻く音がした。ドア越しにもかかわらず、まるで背中をじかに掻かれたかのような錯覚を覚え、全身に鳥肌が立った。
……その時だ。不意にリビングの方で、けたたましい音が鳴った。電話だ。
「ひっ!」
思わず悲鳴が漏れた。
ドアの向こうに立った「誰か」は、しかしNさんの悲鳴よりも、電話を優先したようだった。
衣擦れが、ゆっくりと動き出した。部屋の前から廊下を進み、リビングへ――。遠ざかるその気配を耳で確かめながら、Nさんは荒い鼓動を押さえるべく、静かに深呼吸を繰り返した。
電話の音は鳴り続けていた。その音が、「ピッ」というプッシュ音とともに止んだ。
通話ボタンが押されたのだ。
「…………」
電話に出た「誰か」は、無言のままだった。
受話器の向こうから、大声で「もしもし?」を繰り返す声だけが、微かに聞こえていた。
そのまま数秒が過ぎた。電話の相手は諦めたのか、やがてツー、ツー、という電子音に切り替わった。
受話器が戻される。勝手に人の家の電話に出た「誰か」は、再び衣擦れの音とともに、廊下に引き返してきた。
――また来る!
Nさんは半泣きになりながら、懸命にドアにしがみついた。
ぺた、ぺた、ぺた。……カタッ。
再び「誰か」がドアノブに手をかけた。
カタッ。カタカタッ。
……ドンッ!
ドアが全体に衝撃が走った。
「うぅ」
くぐもった悲鳴が、Nさんの口から溢れる。だが――それ以上のことは起こらなかった。
不意に、玄関で鍵の鳴る音がした。
ドアが開き、新たに人の気配が入ってきた。
よく耳に慣れた気配だった。母だ。
「N、またお茶
部屋の前を通り過ぎて台所に行った母は、部屋に籠るNさんにそう呼びかけてから、自分もお茶を飲み始めた。
つい今までここにいた「誰か」の気配は、もう消えていた。
三日目。金曜日も、Nさんは「誰か」の訪問を受けた。
この日、家に上がり込んできた「誰か」は、リビングにも台所にも行かなかった。
最初からNさんの部屋の前で立ち止まり、ドアをこじ開けようとしてきた。
Nさんもそれを予感していたから、あらかじめ手近な本棚をドアの前に移動させて、バリケードを作っていた。
ガタガタとドアが鳴り、本棚が揺れた。Nさんは本棚が倒れないようにしっかりと押さえながら、母が帰ってくるのをひたすら待ち続けた。
四日目。土曜日は、家族が家にいる日だった。
Nさんは一日中部屋に籠っていた。母は時折買い物に出たが、父はずっとリビングにいて、テレビを見たりしてくつろいでいた。
三時が近くなると、Nさんは念のため本棚をドアの前に移動させた。しかし時間になっても、あの「誰か」がやってくる様子はなかった。
この分だと、家族がいる休日は何も起きなさそうだ。ひとまず安堵したNさんは、久しぶりに心から怠惰な時間を貪った。
そして――いつしか眠っていた。目が覚めたのは、すっかり夜中になってからのことだ。
あまりお腹は空いていなかった。Nさんは晩ご飯よりも先に、お風呂に入ることにした。
家族が寝静まっていることを物音で確かめてから、替えの下着を手に、そっと部屋を出た。
廊下の明かりは点けずに、そのまま脱衣所に向かった。
脱衣所は、Nさんの部屋の斜め向かい――。玄関へ向かう方とは逆の、リビングに近い側にある。入って電気のスイッチに触れると、周囲の視界が淡いオレンジ色の光に満たされた。
浴室では換気扇が低い音を立てて回っている。下着を備えつけのカゴに入れると、Nさんは一度トイレへ行ってから、思い出したように自室に戻り、点けっぱなしだった電気を消した。ついでにドアも閉め、脱衣所に戻った。
今や家の中で明かりが点いているのは、この脱衣所と浴室だけだ。Nさんはもちろん、脱衣所のドアをピタリと閉め、念のため鍵をかけた。
べつに裸体を見られるのが恥ずかしいわけではない。そもそも今、家族の目はない。ただ――落ち着かないのだ。少しでも自分が外界から遮断されていないと。
換気扇はそのままにして、服を脱いで浴室に入る。ひんやりと冷めつつある湿気が足元を伝う。湯船の湯はすっかりぬるくなっている。Nさんにとってはいつものことだ。
軽く体を洗ってから、湯船に浸かった。
熱の抜けた風呂の湯は、どろりとして、さほど気持ちよさは感じなかった。
数分浸かってから湯船を出て、熱いシャワーで身を清めた。
脱衣所に出て、バスタオルで乱雑に体を拭う。そこでふと、壁の時計に目が行った。
――三時だった。
正確には、午前三時だった。
……ガチャリ。
玄関で、鍵が鳴った。
「え……?」
一瞬耳を疑ったが、換気扇の唸りに紛れて聞こえたそれは、間違いなく鍵の音だった。
玄関のドアが、ゆっくりと開かれた。
閉ざされた脱衣所に、ひんやりとした隙間風が流れ込んできた。
Nさんはとっさに脱衣所の電気を消した。そうしなければ、入ってきた「誰か」に見つかってしまうと察したからだ。
濡れた髪から汗が滴る。Nさんは拭うのも忘れ、真っ暗な脱衣所の中で、息を殺し続けた。
バタン、と玄関が閉まった。ごそごそと靴を脱ぎ、「誰か」が上がってきた。
ぺた、ぺた、ぺた……。
明かりのない廊下を、足音が進む。それはしかし、Nさんのいる脱衣所まで来ることはなかった。
足音が止まったのは、もう少し手前――。Nさんの部屋の前だった。
Nさんは恐る恐る、脱衣所のドアの隙間に顔を押し当て、廊下を覗いてみた。
斜め向かいに、Nさんの部屋がある。だが闇に慣れた目に映ったのは、部屋のドアではなく、そのドアを遮るようにして佇む、「誰か」だった。
それはただ、黒い影にしか見えなかった。廊下の明かりを消したままにしておいたことを、Nさんは半分後悔し、半分安堵した。
影は、Nさんの部屋をじっと見つめているようだった。しかしドアノブに手をかけ、普通に動くのを確かめると、何の遠慮もなくドアを押し開いた。
そして衣擦れとともに、今は誰もいない真っ暗なNさんの部屋に、すぅっと入っていった。
頭の中が真っ白になった。それを覚ますかのように、バタン、とNさんの部屋のドアが閉ざされた。
内側から、「誰か」によって。
それから――五分もしないうちに、再びドアがそっと開かれた。
しかしそれは、壁とドアの間にわずかな隙間を作っただけで、中から「誰か」が出てくる様子はなかった。
Nさんは待ち続けた。「誰か」が立ち去るのを。
そのまま十分、二十分……と時間が過ぎていった。
――もう消えてしまっただろうか。
濡れた体を震わせ、じっと廊下の様子を窺いながら、Nさんはそう思った。だが、とりあえず服を着ようかと身じろぎした刹那、再び自室のドアが動いた。
隙間が大きくなり、黒い影がぬっと顔を覗かせた。
そして、まるで辺りの気配を探るかのように首を蠢かせてから、再び中へ引っ込み、バタンとドアを閉めた。
Nさんは――その夜、ずっと脱衣所で時を過ごした。
朝になって母親が起きてくるのを待って、Nさんは脱衣所を出た。
驚く母親に事情を話し、そうしているうちに堰を切ったように涙が溢れてきた。
やがて父親も起きてきたので、三人でNさんの部屋に行ってみた。
中には誰もいなかった。数ヶ月の引きこもり生活で雑然としていたとはいえ、そこに何者かが潜んでいるような気配はどこにもなかった。
ともあれこの日以来、Nさんは部屋に籠るのをやめた。
学校にも行くようになった。最初は居心地が悪くて、登校せずに外で時間を潰すこともあったが、次第に慣れも手伝って、普通に通えるようになっていった。
ただ――午後三時をだいぶ過ぎるまでは、絶対に家に帰らなかった。「誰か」の訪問は、その後も続いていたからだ。
家族が家にいた日の夜は、自室ではなく別の部屋で寝た。翌朝になると、無人だったNさんの自室には必ず、飲みかけのお茶が残されていたそうだ。
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