第3話 相談
「騒音トラブルに巻き込まれてるんだけど……」
昼間のレストルームで野球のペナントレースの話が一段落したあと、隆史は喫緊、頭を悩ませている騒音について楠本に話を向けてみた。
「かなり音デカいんですか?」
「うん、エレキをガンガンに」
「そりゃひどいですね!」
「辞めてくれと直訴したほうがいいんかなぁって」
「クレーム入れたら、相手がますます意固地になっちゃう可能性もありますからね。対処法としては気になさらないほうがいいとは思いますけど」
「やっぱそうか。俺もそうは思ってたんだ。そんなの気の問題だってさ。だけど甥の奴がこれまた随分神経質なたちでさ、ちょっとしたノイズにも過剰に反応してしまってね。もう毎日毎日気が狂いそうだから、何か良い手立てはないものかと相談されちゃったって次第だ」
「あ、隆史さんじゃなくて、隆史さんの甥っ子さんが…」
「ん? あ、そうだよ。まさか僕のわけないじゃん、基本的にはこういったノイズは全然気にしない気質だから」
「そうだったんですね。ともあれ甥っ子さんもお気の毒で……こればっかりは全てに通じる解決法はないですから」と渋い顔をする楠本は根元まで灰になった煙草を
水気を含んだ灰皿に押し付けた。
二人だけの静かなレストルームに、ジュッと消える煙草の音が際立った。
「まあそうなんだろうけど」
顎に手をやり、ビルとビルの合間、遠く聳える六甲山の山並みへ少し細めた視線を投げながら隆史は続ける。
「大家さんや管理会社に連絡して、こっぴどく注意してもらった場合、その後の経緯はどのような展開をたどるとおまえは読む?」
「効果は薄いかと。だって夜中に容赦なくギターを弾くほどしたたかなハートの持ち主ですよねぇ。注意されてはい、分かりましたと途端にエレキの音が完全に収まるとは考えにくいですよ。むしろ嫌がらせの意味も込めて以前よりさらにひどくなってしまうのが関の山ではないですか?」
「かといって直訴するのもよろしくないと」
「そうですね。直に話し合うことで良い方面へと動くこともありますが、お相手が話の通じないタフで鈍感な神経の持ち主だったら、その場では平身低頭、素直に謝っても、胸中ではきっと真っ赤な舌を出しているはず。きっとその舌の根の乾かぬうちに、また同じような迷惑行為を続けるんじゃないですか。再びノイズが聞こえてきたら、果たして甥っ子さんは普通の精神状態でいられますかね」
二本目の煙草をくわえた楠本は、名うてのプロファイラーよろしく、語尾で隆史に黒目勝ちの瞳をキッと尖らせた。
実際、彼は今の会社に勤める前、探偵業を営んでいた。
かなり際どい案件にも足を踏み入れていたらしい。
修羅場の数が人を観る目を養うとするなら、楠本の言い分に素直に従うべきかと隆史は思った。
「相手はどんな人ですか?」
「たぶん20歳代だろうね。耳にピアスを開けて茶髪でロンゲ的な」
「なら、だんぜん暴発してしまう可能性が」
「やはり我慢すべし、か?」
「そうですね。もしくはいっそのこと環境変えてみるってのもどうでしょ。甥っ子さんが折れる形とはなりますが、居室が賃貸なら引越しするのもそれほど高いハードルではないでしょ」
「実は、俺もそれが最善の方策だと思って、今おまえが言ったようなことを先日甥っ子へ助言してはみたんだよ。そしたらただただ瞑目して首を横に振るばかりでさ。彼が言うには、部屋を出れば俺が負けたことになる、迷惑を被っているのは俺のほうなのだから、むしろ馬鹿な隣人が部屋を出ていくべきだと言って聞かねーんだ。神経質な上にやたらと勝ち気一面があってね、まぁまだ22歳だからしょうがないんだけども」
そう言うと隆史は両の手の平を上に挙げて、困ったように肩をすくめた。
「ん~困りましたね…」
テクノカットの生え際をひっかきながら、口をすぼめる楠本。
「我慢する、折れるの選択肢がない以上、じゃぁもう、管理会社に注意してもらうしか方法はないですね。直接本人が行くよりはまだマシかなぁと……それに何度も注意してそれでも改善されない場合は、一応裁判所を通じた強制退去措置も可能ですからね。光明を見出すならそこがねらい目かと。ただ、それを成功させるにはだいぶ根気が必須ですよ。現在の借地借家法では管理主よりは入居者が手厚く保護されていますから。十分な証拠と信頼関係が著しく破壊されていることを示す証拠がなければなかなか強制退去させるのは難しい」
「信頼関係の破壊?」
「はい。大家が住人へ何度も何度も注意したものの、改善が見られないというプロセスの蹂躙、翻っては信頼関係の破壊ですね。どの程度といった明確な線引きはありませんけど、十分な証拠を提示すれば強制退去に追い込むことも可能です」
「例えばその十分な証拠とは?」
いつの間にか内ポケットからメモ帳を取り出していた隆史は、
やや前傾のテイでペンを握る手に力をこめた。
「常識を逸脱した時間に常軌を逸した騒音を相当期間にわたって鳴らし続ける、といったところでしょうか。それを計測器で逐一測定し、記録しておく。測定した結果、ある一定以上のレベルだと、騒音と認定される可能性はあります。例えば夜間だと、確か45Dbぐらい程度がボーダーラインだったかと。騒音で著しく体調を崩したことを証明する医者の診断書などがあればなおさら強い武器にはなりますね」
「そうなんだ。これは良い勉強になったよ。流石は元敏腕探偵!」
そう言うと隆史は人差し指で楠本の肩口をコツンとつついた。
いえいえと謙遜する楠本は
「何なら僕が直接甥っ子さんに会いましょ……」
と楠本が提案しかけた時、お昼休みの終局を告げるのどこかなベルが流れた。
「終了だな。長々とすまなかったね」
と言って、閉じたメモ帳を内ポケットへ手仕舞いつつ隆史は続けた。
「甥にはおまえの助言しっかり伝えておくからさ。若輩には思いも浮かばなかった案にきっと彼も喜んでくれると思うよ。お礼といっちゃなんだが、今日の夜は俺におごらせてくれや」
と朗らかな笑みを広角に留めたまま、クイッとおちょこを飲む仕草をしてみせると
颯爽と踵を返し、悠然とした足取りで午後1の部課長会議へと向かう隆史なのだった。
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