第2話 殺意の門
千鳥足で部屋へと帰宅した。
酒を飲み過ぎたせいか、こめかみ当たりがひどく痛む。
せっかく岡田が用意してくれた席だがほとんど記憶がない。
始まって程なく過ぎた頃には完全に眠り込んでしまった。
どうせなら起こしてくれればよかったのに、とは想うも連中からすれば気を利かせて、突っ伏していた自分をそのままにしておいてくれたのだろう。
スーツをハンガーに架けていると、ワイシャツの胸ポケットがかすかに震えた。
確認すると岡田からのラインで<大丈夫ですか?>
その5分前には山崎からもラインが届いていてこちらはウサギの可愛らしいスタンプ付きだった。
今頃はおそらく2次会で楽しくやっているのだろう、
その席の中途でもこうして自分の身を案じてくれることに隆史の胸は熱くなる。
今さらながらに良い部下を持ったものだと一人自己愉悦に浸りつつ、
<今日はとても楽しい会をありがとう^^>
と、普段使わない顔文字を添えて岡田と山崎へ送付した。
更なるラリーを期待したが、それ以上の返事はこなかった。
鳴らないスマホをベッドへ放り投げてキッチンへと向かう。
冷蔵庫を開け紙パックの麦茶を手に取りラッパ飲み、
継いで下段の冷凍庫から作り置きしていたおにぎりをレンジでチンして海苔を巻いて食べた。部屋着に着替えるのも億劫で、缶ビール片手に、ダイニングソファへと尻を落とし、ローテーブルへ足を伸ばす。
テレビをつけるでもなく背もたれにその身を預けると途端に疲労が眠気となった。
心地よさが汁状に体内を満たしていき、
このまま眠ってもよいか……と考えたが
昨日も、一昨日も、この硬いクッションの上で朝を迎え、
ために持病の腰痛がぶりかえし、仕事のパフオーマンスが上がらなかったことを思うと
<ダメだダメだ>
と、眠気にまどろむマナコを無理くり開けてソファから上体を勢いよく引きはがした。
そして眠気を打ち払うように首を左右に大きく振ったあと、
筋を伸ばすべく、両手を中空へ上げた瞬間、ツンとした臭みが鼻先をかすめた。
<そういえば2日ほど風呂に入ってなかったな>
少々億劫ではあったが、まだ酔いの残る体に、部屋干しのタオルをひっかけ、風呂場へ向かった。
洗面鏡の前でワイシャツのボタンを上から一つずつ解いてゆき、脱いだ綿パンもろとも脱衣カゴへと入れる。
汗を吸い込んだ肌着が体にひっついたように重たく感じる。
昨日はこの肌着のまま泥のように眠りこけてしまった。
そしてその肌着の上にYシャツ、スーツを重ねて出勤した。
臭いはしなかっただろうか、とよぎった不安に、
あるいは酒の席、山崎が隣に座らなかったのは、もしかして……などと
浮かんだやたらと乙女チックなとまどいに思わず隆史は苦笑したが、
上に立つものがこれではいかん、と自戒をこめて頬を3発平手で打って心の乱れを正した。
そして体から引き剥がすようにして肌着を脱いだあと、胸に巻いたブラのホックをゆっくりと外していく。
<あぁ~今日も一日疲れたなぁ~>
風呂から出て、濡れた髪に温風を当てている時、壁越しわずかなオトが隆史の鼓膜を震わせた。
注意しなければ聞き取れないほどのオトではあったが、
風呂場の木戸を後ろ手に閉め、8畳間のリビングへ続く廊下を歩む頃には、特段耳をそばだてなくともはっきりと鼓膜にそのオトの輪郭が露わとなった。
<またか……>
あきれたふうに下げた眉根に深いシワを寄せる。
気にしないと思っていても体は正直だ。
壁越し聞こえてくる音に、隆史の胃腸は反射的にキリリと痙攣する。
家賃は8万円で築4年。
万全な防音とはいかないまでも、使われた吸音材がちょっとしたノイズをカットしてくれるはずだった。
が、オトのひどく通りやすい静かな夜には、おのずとオトが耳に入ってくる。
五指で頭髪をかきむしる隆史。
テレビをつけて不愉快なノイズをシャットアウトする。
が、苛立ちは一向に解消されない。
通常の生活音であれば、まだ許容はできた。
ところが壁越し聞こえる音は生活に付随する類のものではなく、
明らかにギターをかきならすアップテンポのロックナンバーだった。
夜も11時を回った折も折、人の迷惑顧みず、生活する上では必ずしも必須でないオトを発信する自発的無神経さが隆史には許せないのだった。
初めてそのオトが漏れ聞こえてきたのはちょうど1か月ほど前だったろうか。
当初は全く気にしなかったし、日数も経過すれば自然と聴こえなくなるだろうと悠長に構えていた。
ところが不意にそのオトそのものへと注意を向けたのがまずかったのか、
程なくオトの源がギターであることが分かり、分かってからは聴こえるというよりは注意深く聴いてしまうことが多くなった。
幸いにもこの1週間は多忙を極め、オトとは無縁ではあったが、今こうして改めてオトに晒されると、瞬時にして体内器官の動悸が強くなる。
元々神経質な面があることは自覚していたものの、ここまで免疫がないとは、と自らの神経症的な弱さに打ち震えるしかない。
<隣人は社会人か学生か。社会人なら夜型の変態人間だな、学生ならバイトから帰宅後始めた空想コンサートといった類か>
と、リビングを右に左に闊歩しながら隆史は過剰な推察を進める。
<そういえば1ヵ月ほど前に家具や調度品が隣の部屋へと搬入されていたところに出くわしたな……そのとき確か周囲を梱包材で覆ったエレベーターの中で、耳にピアスを4つ下げた茶髪のロンゲが黒くて長いケースを大事そうに抱えていたっけ。
もしかしてアレがソウなのか……あのグリコ並み、糸のように細い冷たい瞼が敵なのか……>
すっと壁に耳を当ててみる。
<今日のサウンドはハードな80年代洋楽ビートだな。やはり若いのか、いやしかし昨今では中年の間でも80年代オールディーズが猛威を振るっていると聞くし……だが常識の欠如の観点からすれば……>
夜の2時。
耳栓の隙間を縫って隆史の鼓膜に未だにギターのうっとうしいオトが闖入してくる。
2重に重ねた布団へうずくまる隆史の苛立ちはもはや限界に達しようとしていた。
何とかしなければ……と理性を最大限に働かす反面、隆史の思考の多くを占めているのは本能的な殺意で!
<死ね死ね死ね!隣人死ね!>
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