ぱんでみっく

@zaczac

ぱんでみっく

 おはよう、みなさん。おはよう、世界。

目覚ましの音で目が覚めました。今日もいつもと同じ一日が始まります。カーテンを開けると、眩しすぎる日差しに思わず顔をしかめてしまいます。遠くで小鳥のさえずりが聞こえました。

いつもと変わらない、少しだけ憂鬱な朝です。


僕は大学生です。今はまだ7時だから、全国の大学生の9割ほどは素敵な夢を見ていることでしょう。それにも関わらず僕は大学に行かなければなりません。絶対に行かなくてはいけないというわけではないのですが、理由もなく大学をさぼることは何となく嫌なのです。しかし大学に行ったところで5分としないで眠ってしまうのは目に見えているのです。そんな自分の中途半端なところが少しだけ嫌で、少しだけ憂鬱な朝です。


ぼーっとしながら朝ご飯を食べました。いつも見ている朝の情報番組を眺めながらです。今日の情報番組は少しだけ静かだなと思ったら、朝から元気なコメンテーターがお休みでした。風邪でも引いたのでしょうか。自分も体調には気を付けなければ、なんて思いました。


講義の開始に間に合うように、地下鉄の駅に急ぎます。この時間にしては暖かかったので、駅に着くころには少しだけ汗をかいていました。駅に入る階段を降りるときには、地下から風が吹いてきます。ひんやりとした空気がとても気持ちいいです。ようやくこの頃には寝ぼけていた頭も少しずつ動き始めるのです。


あれ、と思いました。この時間帯の地下鉄はいつも人でぎゅうぎゅうなのですが、今日は少しだけ余裕がありました。朝から疲れた顔のサラリーマンと押しくらまんじゅうをするのは辛いものです。朝から小さな幸運に出会たのだから、今日はいいことありそうだな、なんて思いました。


残念ながら2分ほど講義開始に遅れてしまいました。友達は遅れてきた僕を見て、小さくにやにや笑っています。講堂にいるのは自分と友達を入れても50人ほどでしょうか。朝っぱらから大学にやってくるなんてなんとも殊勝な方々たちです。みなさん眠たそうな顔をしています。教授の顔を見ると、小さくあくびを噛み殺していました。やっぱり家で寝ていればよかったな、なんて腕組みしながら思いました。その講義で覚えていることはそれくらいです。



おはよう、みなさん。おはよう、世界。

今日も目覚ましの音で目が覚めました。また朝がやってきました。カーテンを開けて眩しい日差しに顔をしかめます。遠くで小鳥のさえずりが聞こえます。昨日と同じような朝です。やっぱり少しだけ憂鬱な朝です。


ぼーっとしながら朝ご飯を食べます。朝の情報番組を眺めながらです。今日は元気なコメンテーターに加えて、メインキャスターとアナウンサーもお休みなようです。やっぱり風邪が流行っているのでしょうか。代役のアナウンサーは少し緊張しているのか、原稿をよく読み間違えています。今日のお味噌汁は自分の好きなしじみのお味噌汁です。冷めるといけないから、テレビを眺めるのを止めて、朝ご飯に集中することにしました。


朝ご飯をしっかり食べたからでしょうか、今日はいつもより脳みそが元気な気がします。イヤホンから流れる音楽も軽快です。保育園に行く途中でしょうか、小さな子どもとお母さんの姿を見て、微笑んでしまいました。今日もいいことがありそうです。


そんな予想が当たったのか、昨日に引き続き、今日も地下鉄は空いていました。というよりも、人が少なすぎるような気さえします。風邪が流行っているというのは間違っていなかったようです。人の不幸でいい思いをすることはいけませんが、どうしても幸運だと思わずにはいられませんでした。


ああ、今日も2分ほど遅刻してしまいました。友達は昨日と同じく、小さくにやにや笑っています。今日が水曜日だからでしょうか、広い講堂には30人くらいしかいません。友達の隣に座って教科書を開きました。教授の顔を見ると、我慢が出来なかったのか、教授は大きな口を開けてあくびをしました。自分と友達は顔を見合わせてくすくす笑いました。その講義で覚えていることはそれくらいです。



 おはよう、みなさん。おはよう、世界。

今日も目覚ましの音で目が覚めました。またまた朝がやってきました。カーテンを開けて顔をしかめて、遠くに小鳥のさえずりを聞きました。今日も少しだけ憂鬱です。小鳥のさえずりが少しだけ大きく聞こえた以外は、昨日と同じような朝です。もうこんな朝を1万回は繰り返したような、そんな気がします。


でも、テレビをつけると今日の朝はいつもと違うことがわかりました。情報番組のチャンネルをつけても、ただスタジオが映し出されているだけで、誰も映っていません。怖くなって他のチャンネルも覗いてみたのですが、やはり誰も映っていませんでした。


急いで僕は大学に行こうと思いました。友達に会って、少しでも安心したかったのです。イヤホンから流れる音楽は、朝には重ためのヘヴィーロックです。駅のホームに着くと、急いで元気な音楽に流し変えました。


気づいていました。駅までの道で誰ともすれ違っていないことに。気づいてしまいました。このホームには自分しかいないことに。待てど暮らせど、地下鉄が来る気配はありませんでした。どうしようもないことにスマートフォンも圏外になっているのです。この奇妙な出来事は夢なのでしょうか、とにかく僕は一度家に帰って自転車を取ると、友達がいる(であろう)大学へと向かいました。


がんばって自転車を漕いだから、僕は汗だくでした。ようやくいつもの講堂に辿り着きます。重たいドアを開けて恐る恐る中を覗くと、友達はおろか、誰一人としていませんでした。講堂はまさにもぬけの殻。自転車を漕いでかいた汗に加えて、冷や汗が背中を伝っていくのを感じました。


やっぱり僕は夢を見ているようです。それもとても嫌な夢を。こんなときにはどうしたらいいのでしょうか。自分の頬にビンタをしましたが目は覚めません。大きな声で歌ってみましたが、ただただ自分の下手くそな歌声が講堂に響くだけです。


いよいよ僕は怖くてたまらなくなってきました。僕はいつも座っている定位置に陣取ると、机に突っ伏しました。どうしようもないなら寝てしまおうと思ったのです。目が覚めたらきっと自分の部屋のベッドにいることを信じて、眠ろうと思いました。


 もう少しで眠りに落ちようかというところでした。パァンと耳元で何かが破裂した音が聞こえて覚醒しました。すると誰かの(何か、かもしれません)手が自分の肩に置かれました。よくわからないけれど、ひとまず人生の終わりを覚悟しながら体を起こしました。

「良かった、生存者がいたみたいで。」

自分より少しだけ年上に見える、綺麗な女性が立っていました。


彼女は割れた風船と針を持っていました。先ほどの破裂音は風船が割れる音だったようです。しかし自分の中には驚きよりも安心の感情がふつふつと湧き上がってきました。少なくとも自分以外の人間がみんな滅びてしまったわけではないみたいです。


「どうしてこんな所で眠っていたの?とても危険な状況なのよ。」

どうやら安心するにはまだ早かったようです。しかし事態が掴めていない僕は口に出す言葉が浮かばず、ただただ固まってしまいました。


そんな僕を見て、何もわかっていないことを悟ったのか、彼女はいま世界で起こっている緊急事態の説明を始めます。

「突然だけど、世界はいま終わりかけているわ。私たちが、残された人類の希望よ。」

いつもと変わらない一日になるはずだった今日が、どうやら世界の終わりを迎える日になるようです。


「今私達以外の人間が姿を消したのはあるウイルスのせい。」彼女は説明を続けます。

「そのウイルスのせいでみんな眠ってしまっているの。早く目を覚ましてあげないと、そのまま永遠の眠りについてしまうのよ。」

僕はゴクリとつばを飲み込みました。


「このウイルスに感染するとね、脳の感情を司る部分が支配されてしまうの。そしてウイルスに支配された脳は、『布団から出たくない。まだ起きたくない。』って指令を出し続けるのよ。だからみんなずっと眠ったままなの。」

「要するにとてつもなく眠たくなってしまうウイルスってことですか?」

「まあ、そういう理解でいいと思うわ。」

いったいどうしてこんなウイルスが誕生したのでしょうか。働き過ぎな人間を休ませてくれるんだから、ちょっといいウイルスだ、なんて気もしてしまいます。


「ただ、眠ったままと言っても、意識がないままにさまよう感染者もいて、そいつらはより快適な寝場所を求めてさまようゾンビになるわ。」

「え、ゾンビですか?」思わず聞き返してしまいます。

「そうよ、ゾンビ。リッチー、アンデッドって呼んでもいいわ。」

「はぁ、、、。」

快適な寝場所を求めてさまようゾンビってなんなんだ、うーんと僕は首をかしげます。


「夏の暑い夜、自分の体温で布団があったまってしまうでしょう?で、君は布団の少しでも冷たい部分を求めて無意識に寝返りをうつはずよ。そして少し経ったら寝返りをうった場所もあったまってしまって、また寝返りをうつ。ゾンビがさまようのも多分そういうことよ。快適な寝場所を見つけたゾンビは、その場所を不快に思うまでは眠り続けて、不快で眠りが浅くなるとまた快適な寝場所を見つけにさまようのよ。」

わかったような、わからないような気がします。


「最後に大事な話をするわね。このウイルスは人から人に感染するわ。」

「まあこんなに一気にパンデミックを引き起こしたんだからそういうことでしょうね。」

「で、感染経路はあくびよ。」

「あくびですか、、、。」

知れば知るほどこのウイルス、クセ者過ぎやしませんか。


「あくびはうつるって言うでしょう?つまりそういうことよ。」

これはなんだかよくわかる気がします。そういえば昨日の講義で教授が大きなあくびをしていました。友達が(おそらく)感染したのもたぶん教授が原因です。おのれ、にっくき教授め、と心の中で毒づきます。


「だからさまよっているゾンビを見かけても、あくびをしている姿を見るのは絶対に避けることね。他に生存者がいるかはわからないけれど、最後の一人があくびをうつされたその瞬間にこの星は文字通り眠りについてしまうわ。」

まさか異常気象でも核戦争でもない、こんな終わり方で世界が終わってしまうなんて誰が考えたことでしょう。


事情はわかったわね、と言って彼女は立ち上がりました。さぁ行くわよ、とでもいうように僕に向かって手招きをします。

「あの、すみません。状況はだいたい掴みましたけど、これからどうするんですか。」

「そんなの決まっているじゃない。世界を叩き起こしに行くのよ。」

彼女の背中が急に格好良く見えました。


「そういえば、お名前を聞いていなかったですね。お聞きしてよろしいですか?」「無事に世界を救えたら教えてあげるわ。」

彼女はいちいち無駄に格好いいのです。

「じゃあとりあえず何とお呼びすればいいですか?」

「おねえさんとでも呼んでおきなさい。」

僕の中ではもう「姐さん!」という感じでもありましたが、外見は綺麗なお姉さんだったので、こう呼ぶことにしました。

「じゃあお姉さん、早速行きましょうか。」


 講堂を出て街へと捜索を行いましたが、ゾンビの姿はありませんでした。

「多分昼下がりの時間に現れるんじゃないかしら。暖かい日差しを浴びながら芝生の上でお昼寝、なんて最高に快適でしょ?」

「だったら、そこを一網打尽にしたいものですね。」

そういえば一網打尽にするといっても、どうやってゾンビの目を覚まさせるのでしょうか。


「お姉さん、どうやってゾンビの目を覚まさせるかについては何か考えがあるんですか?」

「はっきりとはわかっていないわ。でもこれを使おうと思うの。」

彼女が指さした先には選挙に使われる街宣カーが停まっていました。

ゾンビに『目を覚ませ』とでも演説するんだったら、口下手な僕は役には立てなさそうです。


「とりあえず、この街宣カーを使っていろいろな騒音を流してみようと思うわ。さっき君にやったみたいに、耳元で風船を割る方法を試してみたんだけどまだまだ音量が足りないみたいだからね。本当はスピーカーとかを使うのがいいんだと思うけど、それだと狭い範囲にしか効果がないから機動力のある街宣カーを使おうというわけ。」

選挙の時期のあの喧噪さを思い出して、何だか効果的な方法なように思えました。


それにしても、大音量で騒音を流してゾンビを目覚めさせるなんて、昔見たB級映画を思い出してしまいます。地球に火星人が侵略してきて、軍は壊滅、街は大混乱と、世界が終末を迎えたかというところまで地球人は追い詰められます。しかし、打つ手がなくなり絶望に暮れる中、一人のおばあちゃんが流していたウエスタンソングが火星人の弱点であることがわかります。ウエスタンソングの高周波を聞いた火星人は脳みそが破裂して、緑の血を噴出させるのです。放送やスピーカーでウエスタンソングを流し続けて、無事地球人は火星人を追い払うのでした。


まさにB級という感じの話ですが、これから同じことを現実でするのです。わくわくというか、自分でもよくわからないような気分になってしまいます。でも、あんな眠たくなるようなウエスタンソングを流したら、ゾンビたちが寄ってくるような気がするので、街宣カーからは流さないことにしました。


「君は何を流すつもり?」

「僕は自分の好きなヘヴィメタルの曲を流そうかと思ってます。あとは日曜夕方の国民的アニメのテーマソングです。この音楽を聞いたら眠っている方々も、月曜日の存在を思い出して悪夢で目を覚ますのではって思ったので。」

「君は面白い発想をするね。」

お姉さんは言いました。


「お姉さんは何を流すつもりですか?」

「私はサイレンの音とか、目覚ましの音とかを流そうと思うわ。」

なるほど、と思いました。自分も毎朝目覚ましの音で目を覚ましています。このアイディアなら大丈夫だと確信しました。


「そういえばですけど、なんで僕達だけは感染しなかったんですかね?僕、感染者があくびしてるのを見ちゃったと思うんですけど。」

「はっきりとはわからないけれど、たぶんたまたま免疫があったとかそんな感じじゃないかしら。でもスズメバチに刺されたときと同じで、一回目は大丈夫でも二回目はアウトってこともあるから気をつけてね。」

作戦自体はゆるく思えますが、一応危険はあるみたいです。


 腹ごしらえを済ませた後、お姉さんと僕は大学キャンパス内の丘の近くで待ち構えていました。

「本当にゾンビはやってくるんでしょうかね?」

「間違いなく来るわ。私を信じなさい。」

その言葉通り、太陽が少しだけ西に傾き始めると、来ました来ました!映画で見たようなゾンビたちがこちらへ大挙して向かってきます。

でもゾンビたちはみなパジャマ姿だったのであまり怖くはありませんでした。


「まず私が行くわ。」

颯爽と街宣カーに乗り込み、用意しておいた音源をセットします。まず最初に流すのはサイレンのようです。ゾンビたちはどんな反応をするのでしょうか。


ヴーッヴーッと耳障りな音が響きます。あたりはとても静かなので、サイレンの音は街中に響いています。肝心のゾンビたちはというと、大きな音に驚いたのか、慌てて逃げようとしています。しかし寝ぼけて判断が悪く、動きものろいのでお互いにぶつかったりしています。ちょっと笑ってしまうような光景です。にやにやしていたらお姉さんに軽く睨まれました。お姉さんはいたって本気なようです。


次は僕の番です。迷いましたが、国民的アニメのテーマソングを爆音で流すことにしました。耳栓をセットして、街宣カーのエンジンをかけます。2,3回、無駄にエンジンの空ぶかしをした後、爆走しだした街宣カーはゾンビたちに襲い掛かります。BGMがあの誰もが知るテーマソングだと思うとやっぱり笑けてしまいますが、今度は僕もいたって本気です。


ゾンビたちは苦悶の表情です。うあーっと断末魔をあげているものもいます。そんなに月曜日が嫌いなのでしょうか、彼らの苦痛が如何ほどのものかはわかりませんがいい調子です。さあ、早く悪夢から目覚めるのです、とハンドルを握る手に力が入りました。


10分ほど後、僕はお姉さんのもとに帰ってきました。ゾンビたちはただ苦しむばかりで、一向に目を覚ます気配がなかったのです。そのうちになんだかゾンビたちが可哀そうに見えてきてしまって、僕は失敗を悟ったのでした。続けてヘヴィメタルの曲も試してみたのですが、お姉さんが小さくヘッドバンキングをしてくれただけで、効果はなかったので省略します。


「じゃあ大本命、行ってくるわね。」

そういえば、目覚ましの鳴る音というのは世界で一番怖い音ではないでしょうか。健常人をしてそこまで思わせるのですから、ずっと眠っていたいなんていうゾンビたちにはどれほどの恐怖なのでしょうね。これはもう目覚めないなんてことはありませんね。早くも世界を救う未来が確約されているみたいです。


僕は耳をふさいでいましたが、それでもあの嫌な音が耳を刺しました。刺すといっても爆音ですので、「きーん」というより「ぐさぐさぐさ」という感じです。とにもかくにも耳と頭が痛くて、鼓膜が破れそうです。ゾンビたちはもっと苦しそうで、もう地獄が現出したかのような、そんな目を覆いたくなるほどの光景でした。しかもゾンビたちは苦しむだけで目を覚ますことはありませんでした。緊急事態です。


お姉さんはさすがに耐えられなくなったのか、諦めて帰ってきました。

「絶対目覚めるって思ったんですけどね。」

「あそこまで苦しんでも起きないなんて、よっぽど現実から逃げ出していたいみたいね。」

「それで、他に方法を考えているんですか。」

「ないわ。」

お姉さんは言いました。

「いい方法が思いつかなければ、世界はもう終わってしまうわね。」


僕とお姉さんは途方に暮れてしまいました。日差しは相変わらず暖かく僕たちを照らしていて、世界が終ろうとしているなんて微塵も思えません。しかし僕たち二人が感染してしまえば正真正銘、世界は永遠の眠りにつきます。そんな危機的状況でも、暖かさのせいか、頭が疲れたせいか、睡眠しろという指示が体中をめぐっているのを感じます。お姉さんも僕と同じようで、目が遠くを見てしまっています。


 そんな時、ふと後ろを振り返るとはぐれゾンビがお姉さんに襲い掛かろうとしているのが見えました。ぼーっとしているお姉さんはまったく気付いていません。

「お姉さん、危ない!!」

僕はお姉さんをはね飛ばしました。ゾンビは僕に押しかかってきて、とても大きなあくびをひとつしました。続けて僕もあくびをひとつしました。残念ながら感染確定です。


ゾンビを蹴っ飛ばして僕のもとへ駆け寄ってきてくれたお姉さんが、僕に向かって叫んでいるのがとても遠くに聞こえますが、何を言っているのかはわかりません。ああ、お姉さんを救って眠りに落ちるならまあ悪くない。お姉さん、無事に生き延びていつか僕を起こしてくださいね。そんな思考もつかの間、意識が急に遠くなり、瞼に強力な重力を感じて、僕の目は閉じられました。世界にさよならです。


その時、唇になにか柔らかい感触を感じました。これは、まさか!僕の意識は急激に引き戻されました。うっすらと目を開けると心配そうにこちらを見つめるお姉さんの顔が近くにありました。

「ごめんね、こんな方法しか思いつかなくて、、、。」

僕は恥ずかしくて何も言えませんでした。頬っぺたのあたりが急激に熱を帯びていくのを感じました。とりあえず、おはよう、世界。


「眠れる森の美女みたいですね。まあ寝てませんけど。」

もちろん自分は美女でも姫でもないし、白馬に乗った王子さまはお姉さんだったわけで。あっという間の出来事だったから、うまいことを言えなかったのは仕方ないということにしてしまいましょう。ふと傍らのお姉さんを見ると、なんだか少しだけ申し訳なさそうな表情をしていました。


「と、とりあえず応急処置の方法は見つかったわけだけど、感染者みんなに同じことをするわけにはいかないし、、、。」

「お姉さん、安心してください。このウイルスの治療法、わかったと思います。」転んでもただでは起きないことが大切だなって、僕は日頃から思っています。


「お姉さん、もしお姉さんが朝起きるときに、布団から誰かに叩き起こされて目が覚めるのと自分ですっきり目が覚めるのだったらどっちの目覚め方がいいですか?」

「まあ、あたりまえだけど後者よね。」

「僕たちはゾンビとかウイルスとか、そんな外見に騙されて大切なことを忘れてはいませんでしたか?たとえ辛くて苦しい一日が待っているとしても、朝気持ちよく目覚めるだけで、たったそれだけで僕たちは今日も一日頑張ろうって思えるんじゃないですか?」

お姉さんは一瞬考え込んだあと、まっすぐと僕の方を向きました。

「わかったわ。世界に“やさしく”朝の訪れを告げに行きましょう。」

僕たちはにやりと笑いました。


 日も暮れる頃、しんと静まった街に、心地よいクラシック音楽が爆音よりは少しだけ優しい音量で響きます。オレンジに染まる街を、美しい調べがいっぱいに満たして、心地よい目覚めを誘うのです。


そして、曲もクライマックスを迎えようかというところで、どこかから小さな小鳥のさえずりが聞こえ始めます。小鳥のさえずりは少しずつ大きくなっていって、クラシック音楽が終わると、たださえずりだけが残りました。深い闇を切り裂いて、明るく世界を照らすような、そんな優しい音色でした。


ゆっくりと走る街宣カーの補助席から、ゾンビたちが眠りから目覚めてうーんと気持ちよさそうに伸びをしているのが見えました。世界はゆっくりと目覚め始めたのです。



 街中に朝を届け終えたころには、いつの間にか空に星が輝いていました。僕とお姉さんは夜空を眺めています。夜風が吹いて、僕たちの足元の芝生を揺らしました。

「世界を救ってしまいましたね。」

「そうね。」

「けど、今世界がしゃんと目を覚まして活動してるのが僕たちのおかげだなんて誰も知らないんですよ。」

「私たちも眠っていて夢を見ているような、そんな出来事だったわね。」


「そういえばお姉さん、“応急処置”、ありがとうございました。」

僕はある意味夢のようだった出来事のお礼を言います。恥ずかしがるお姉さんの顔が見れるかな、なんて思っていました。

「、、、あのね、こぶしをぎゅっと握るでしょう?それで、親指と人差し指の間にできるふくらみがあるじゃない?そこって唇の感触に似ているらしいわよ。」

「えっ、、、。」


僕はへなへなと芝生に倒れこんでしまいました。お姉さんは申し訳なさそうに笑ってから、僕の横に寝転がりました。

「私たち、今日一日頑張ったわよね。そんな日にはしっかりと睡眠を取ることが大切よ。」

お姉さんはいたずらっぽくはにかむと、僕の頬にちょこんとキスをしました。


「そういえば、名前聞いてませんでしたね。」

横を振り向くとお姉さんはもう眠りに落ちようとしていました。

長い一日だったな、と思いました。とりあえず、明日の大学は休んでしまいましょう。

おやすみ、みなさん。おやすみ、世界。

僕は素敵な朝に、明日に、思いを馳せて目を閉じました。

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