蛍の池

穂積 秋

蛍の池

 一年で最も陽射しの強い季節にさしかかり、ぼくはかなり舞い上がっていたようだ。その日は気温の上昇とともに気分も高揚し、朝から雲ひとつない空を見上げて歌ったり踊ったり、そんなことをしてもおかしくないくらいハイテンションだった。実際には歌っても踊ってもいない。人生我慢が肝心だ。

 登校の途上は少し治まった。走っても文句は言われないからだ。思う存分自転車を走らせた。他校の生徒も自校の生徒も何人も追い抜いた。不思議なもので、走っている最中にどの信号で止まって、この路地を行けば信号を躱せるということまでわかった。何時何分にどこに着くかということも。そしてその通りになった。

 校門から駐輪場の間では知ってる顔に出くわした。校門から中に入ったら自転車から降りる決まりだ。自転車を押しながら朝の挨拶をする、それだけにとどめておいた。抑えようとしないと踊り出しそうだったのは言うまでもない。階段を駆け上がって教室に入り、内心の衝動をひた隠しに隠した。授業が始まってしまうと、おかしな精神状態であることを隠すのに苦労した。ノートに板書をひたすら写し、写し終わってもさらに写し、次第に字を写しているのではなく字が書かれた白板を中心とした風景をスケッチするようになった。小さいころに絵画教室に通ったことがある。長続きしなかったが素描はできる。とにかく字も絵も書いて描いた。窓から射し込む強烈な陽射しを写しとろうとしていくつかの手法を試し、うまく描けたと自賛するころにはフィンセント・ファンゴッホのようになっていた。自分の耳を切り取らなかったのは運がよかっただけかもしれない。

 お昼になったがこのおかしな状態のせいで空腹感を全く覚えなかった。久野と宮井が学食に誘いにくるだろう、と思った。今、無理して昼を食べたら、たぶん眠くなる。眠いのを我慢してると今度は気分が悪くなる。それがわかっていた。

 学食の誘いを断って一人で校庭の片隅のベンチでコーヒー牛乳を飲んでいると、向こうから女子生徒が二人で歩いている話し声が聞こえてきた。声を聞く限り知らない生徒だ。

「あの、林の奥にさあ」

「どっちの?」

「右」

「右ってどっちよ」

 きゃらきゃらと笑い声。

「林の奥に池があるでしょ」

「池のあるほうね」

「あの池、じつは、境川に繋がってるって知ってる?」

「そうなの?」

「確かめた子がいるんだって」

「どうやって?潜ったの?」

「まさか。でも、どうやったんだろうね」

「聞いてないんだ」

「聞かなかった。疑問にも思わなかったよ」

 だんだんと声が遠のき、どんどん聞き取りづらくなっていく。

「…こ…ちの…ずは…」

「…まい…」

 ぼくは二人が傍らを通り過ぎるのをコーヒー牛乳を片手に聞いていて、とはいえじっと聞き耳をたてていたわけではなくて、もう一方の手でスマートフォンをいろいろ弄んでいた。他人の話に聞き耳を立てながら調べたのは境川と池の位置関係だ。ついでに池の正式な名称も知った。足穂池というらしい。水源が繋がっているのなら二キロメートルほど地図にはない水路が必要になる。境川と足穂池がつながっているなんて、本当だろうか。

 二人組の女生徒は去っていき、ぼくもコーヒー牛乳を飲み終わり、ちょっと前に温めておいたある考えが頭に浮かんだ。実行に移すべきは今日だという気がした。そのためにいろいろと調べものをした。だいたい考えがまとまると、脳裏にイメージが湧いてきた。脳内に湧き出たイメージではぼくの他に三人いる。一人は女の子。大野公美。こいつを誘わなければ始まらない。

 予鈴が鳴る時間になった。出歩いている生徒も少なくなっていた。昼休みが終わってしまう。移動している最中に予鈴が鳴り、ぼくは教室へと急いだ。授業が始まる前にやるべきことがあるのだ。

 教室の中は半分くらいの生徒が既に席に着いていて、目指す相手は席が近くのクラスメイトとしゃべっていた。ぼくは自席に着席するとスマートフォンを取り出してメッセージを打った。

「生きたがってたところ、寿命がくる前に。今夜」

 誤字はわざとだ。「行きたがって」が正しい。

 打ち終わって送信してすぐに教科の担当教師が入ってきて、数秒して本鈴が鳴った。送信した相手の反応を見ることはできなかった。メッセージを見ていないだろうからだ。

 午後の一つめの授業も午前と同じように板書ならぬスケッチを取って終わった。次の授業の前に返信がきた。読む前から内容の想像がついていた。今日はそういう日だ。「こんや、生きるー」と書いてある。想像したとおり。続いてもう一通きた。「ちぃちゃんを誘っていい?」どうぞどうぞ。「仲間ふえる歓迎」そう返信。「それじゃ、五時にMで落ち合おう。遠藤にも伝えて」そう書いてもう一通送信。

 大野は席に座ったまま振り返ってぼくを見た。口で言えばいいのにと言いたげだ。笑顔を返した。

 終業。ぼくは久野を誘ってみたが、案の定断られた。部活があると。まあ、誘う前から断られることはわかっていた。続いて宮井に声をかけた。宮井には断られることはないと思ったし、その通りになった。

「じゃあ五時にMに」

 Mというのは商店街のはずれにある喫茶店で、大野も宮井もよく利用する。正確には、大野や宮井と待ち合わせするときにぼくがよく利用する。彼らがぼくといないときに利用しているのかどうかは知らない。

 ぼくは先に商店街を回って必要なものを揃えた。五時十分前にMに入る。

 店には誰もいなかった。貸切状態だ。こんな状態で店をやっていけるのかどうか、少し心配になる。

 そうしているうちに大野公美と遠藤千紗が連れ立ってやってきた。大野は太ってはいないと思うが遠藤がひどく細いせいで太めに見えてしまうことがある。遠藤は細いというよりも薄いというほうがいい。横幅は人並みにあるのだが、横から見るとびっくりするほど薄いのだ。背は遠藤のほうが少しだけ高い。

「や。待った?」

 まだ五時前だよ。ぼくはそう言った。

「今夜は、よろしくお願いします」

 遠藤が挨拶した。礼儀正しい子だ。こちらこそよろしく。そう言った。四人がけのテーブルに着席する。ぼくの前に大野が座った。店主が注文を取りに来て、大野はレモネード、遠藤はコーヒーフロート、ぼくはウィンナコーヒーを頼んだ。

 しばらく雑談。ちぃちゃんこと遠藤とはあまり話した記憶がない。大野とは家が近所なので、予期せぬ時によく出会う。家の最寄りのスーパーマーケットやコンビニエンスストアや郵便局やゴミ捨て場で。同じ学校の生徒、生活時間帯が同じだから不思議なことではない。そして、同い年の子を持つ近所同士、両家族の親が友人だ。これは大きい。ぼくは大野と呼んでいるがぼくの親はくみちゃんと呼ぶし、ぼくも大野の親からはりょーくんと呼ばれている。親が同席している場に限定すれば大野とぼくはくみちゃんりょーくんの仲である。そういう仲で十数年育ってきて、とくに不仲になる理由もなかった。ごく親しい交友関係はお互い知っている。大野は、ぼくの友人である久野や宮井のことは知っている。今年は同じクラスだから当然だがその前から知っている。ぼくも大野の友人の遠藤のことは知っているわけだ。少なくとも、ちぃちゃんが誰のことかわかる程度には。

 そろそろ来るなと思ったちょうどそのとき入口の扉がからんからんと音を立てて開き、宮井竣が入ってきた。時計を見た。あと数秒で五時だ。こいつのことだから計算し尽くしてこの時間に扉を開けたのだろう。待ち合わせの場合は決められた時間の一分以上前にいると礼儀知らずであるというポリシーの持ち主だ。ぼくにはよくわからないが、そういう考えもあるらしい。

「みんな揃ってるね」

 宮井がぼくの横に座りながら言った。

「調べたんだけど、今日の日の入りが六時四十二分だから、日没直前のまだ明るいうちに移動して、目的地に着いたらちょうど暗くなって、少し待ってたらなったら飛び始めるんじゃないかな」

 ぼくのプランとまったく同じだ。思わず口を出す。

「宮井の言う通りだ。だから六時半にこの辺りに集まって、移動していけばいい感じの時間になると思う」

 ぼくは買ってきたものをテーブルに置いた。虫除けと虫刺されの薬。

「虫除け虫刺されはだけは買った。帰り道に懐中電灯がほしいな。光が強いやつ、持ってる?」

 宮井は家を探してみると言い、大野と遠藤はわからないと言った。ぼくは自転車についている電灯を取り外して使うつもりだ。

「あとは何か要るものがあるかな?」

 特に意見が出なかったが、宮井が補足してくれた。

「飲み物は各自用意しておくこと、必ず長袖長ズボンを用意すること。虫に刺されないようにね。それから、本当は虫除けは使いたくないな。虫を見に行くんだから」

 正論だ。大野はいちいち頷いていた。

「じゃあ、虫除けは使わない。各自虫刺され覚悟で来ること」

 とぼくがまとめて、散会した。と、その前に各自飲み物を飲んで会計してからだ。宮井は結局何も頼まなかった。


***


 六時二十分に商店街のはずれに着く。朝からの妙なテンションはまだ続いていた。ぼくがちょうど二十分に商店街の入り口に着くことはわかっていたし、そのときに遠藤が先に来ていることもわかっていた。なぜだと言われてもわかっていたんだ。大野が来るまで十分弱の時間があることも。

「日根くん」

 小さな声で呼び止められた。実はぼくのほうが遠藤を先に見つけていたのだが、わざと遠藤に見つけさせた。

「やあ、待った?」

「今来たところ」

 嘘だ。たぶんもっと前に来て時間を潰していたんだ。ちょっと辺りを見渡して、ちょうど店じまいが終わってシャッターを下ろそうとしている本屋が目に入った。本屋で時間を潰したんだね。

「蛍って、七時半くらいに飛ぶんですってね」

 遠藤と二人きりなのは初めてかもしれない。今まで遠藤と会った時には必ず大野がいた。大野と比べて遠藤の声は小さいと思っていたが、実はそこまで小さくもないようだ。黒いズボンと黒いシャツで、シルエットやポケットの位置を見ると男物のように思った。ボタンも全部はめていて、袖のボタンも閉めている。痩せているからか全く暑そうには見えない。細い子なので男物がものすごく似合っていた。かっこいい。遠藤の私服を見るのは初めてだと思うけど、普段こういう格好をしているのかもしれない。髪型がショートカットなのもこういう格好に合わせているのかもしれない。あまり表情を崩さずきりっとした目鼻立ちを印象付けているのもこういうキャラクターに合わせているのかもしれない。ぼくはというと長ズボンとTシャツで、上に黒っぽい大きめのシャツを羽織って、いつもの格好だ。

「ぼくはそこで飲み物を買うけど、遠藤はどうする?」

 商店街入り口の脇にあるコンビニを指差しながら言った。

「わたしも買う」

 連れ立ってコンビニに入った。甘くない飲み物を探す。遠藤は炭酸飲料の前に立っていた。

「炭酸はやめたほうがいい。甘いのは却って喉が乾くし、温くなるととものすごく甘くなるよ」

「うん、そうね」

 遠藤は素直にそう言って、ぼくと同じものを手に取った。偶然ではない。甘くないもののの選択肢があまりない。

「日根くんはくーちゃんと家が近いって聞いたけど」

「うん。通り一本向こう」

「いっしょに来なかったの?」

「えっと」

 実は呼びにいった。大野のお母さんに先に出たと言われた。どこかに寄ってから来るのだろう。その行動は宮井と関係があるかもしれない。なぜなら、なんとなくだが、待ち合わせ時間ぴったりに宮井と大野が連れ立って現れる気がしていたからだ。今日のぼくはなぜだかそういうことがわかる。わかってしまう。

「まあ、大野にもいろいろ事情があるんだよ」

 説明になっているのかなっていないのかわからない言葉でごまかした。

「懐中電灯は?」

「あるよ」

 遠藤は尻のポケットに刺した懐中電灯を出した。棒状の十五センチメートルくらいのものだった。

「点く?」

 遠藤は空に向かってスイッチを入れてみせた。光の筋がさあっと天に伸びていった。日没前の強烈な西陽の中でも光の筋が見えるほど強力だった。ぼくの持っている懐中電灯は自転車についていたものを取り外したので、もっと小さいし光量も少ない。遠藤の懐中電灯はいざというとき頼りになりそうだ。そのときぼくは急に遠藤の懐中電灯が大活躍する予感がした。この懐中電灯の光で何か探すものがありそうな。ぼくは思わずポケットの上から財布を確かめた。

 時計を見ると六時二十八分だった。顔を上げると向こうから宮井と大野がやってくるのが見えた。予感したとおりだ。宮井は若草色の麻のジャケット。大野は茶系の薄手のカーディガン。ぴったり六時半十秒前に宮井と大野がぼくと遠藤の前に着いた。

「お待たせ。行こうか」

 宮井が先導する。蛍狩りを計画したのはぼくで、宮井は最後に誘ったのに、もうぼくよりもこの計画を熟知している。それも期待して宮井を誘った面があるのは否定しない。

 四人とも歩きだ。そう決めたのだ。商店街から十五分くらいで神社に着く。神社を山側に突っ切ると池がある。昼に調べて知った名前は足穂池。この池には蛍の幼虫がいる。だから蛍の成虫もいる。地元では、少なくともぼくたちの世代には、あまり知られていない。夜に神社に行こうという高校生は少ないからだろう。しかし、ぼくは鳥居の横の看板に六月の例大祭として、なんと読むのかわからないが蛍の字が入った祭があることを知っている。

 町と農村地の境界にある神社だが、鳥居をくぐって杜の半ばでもはや町の喧騒は全くなくなる。拝殿まで十数メートル、本殿の脇を回って、裏口を通り、軽トラが通るのがやっとの狭い農道を横断して林に入り、数分歩く。山や森の歩きに慣れた人なら道を見つけることは容易い。見つけてしまえば歩くことは難しくない。下生えは刈られていて、数メートルおきに打たれた細い杭に紐が通されており、上を見上げると木の幹にひらひらとした白い紙が下がっている。ところどころ榊も飾ってある。この林は神社が管理していると主張している。

 日没後の急速に暗くなりゆく中、紐を左手に一列になって歩いた。宮井、大野、ぼく、遠藤の順だ。引っ張るなよと宮井が言った。紐のことだ。紐は体を支えるためのものではなく、道を示すものだから、引っ張ったら簡単に杭ごと抜けてしまいそうだ。空は木々に覆われてまったく見えず、照明のない道は一歩ずつ歩みが難しくなっていった。しかし誰もそんなことを口にせず、垂れ込めた闇に口を塗り込められたかのように黙々と歩いた。懐中電灯を点けようとも思わなかった。遠くでるるるるると微かな虫の鳴く声を聞いたが、静寂に耐えられない耳が聞かせた幻聴かもしれない。

 ぼくの前を歩く大野の足の運びがだんだんと遅くなっているのは気づいていたが、とうとう足で地面を探るような仕草を見せ始めた。ぼくはぎりぎりで地面が見えるが、大野はもう見えていないのだ。大野の頭越しに宮井を探したが、彼の姿は闇に閉ざされて全く見えなかった。そしてそのことが致命的だった。再び地面に視線を落とした時にはもう全く地面が見えなくなっていた。

 左手の、引っ張ってはいけない紐だけを頼りに、しずしずと歩いた。何度か大野にぶつかったし、遠藤にもぶつかられた。ぶつかっても誰も声ひとつあげなかった。微かな男女四人の足音だけが、視認できないお互いの存在を主張していた。

 どんどんと道が狭くなって、通れるかどうか不安になるようなところをおっかなびっくり通ったあと、急に林を抜けた。

 この時の風景といったら!

 林が終わったせいで空が見える。夏の夜空に特有の、透明なブルーブラック。街の灯りはここまで届かない。細い月が出ている。月の周りに散りばめられた星が小さく見えた。星が連なり、なだらかな束を作って、畝って、そのまま空と同色の池に流れ込んでいた。

 星空が池の水面に映っているのである。池には漣ひとつない。実は対岸の木々で空から降りる星の束は途切れているのだが、人の目の観るものは勝手なもので、天の星と池の星を繋げて見せていた。

 そう、ぼくの脳内で作り出した光景だ。

 だから、いっしょにいる宮井も大野も遠藤も、同じ光景は見ていない。事実、ほんのすこしだけ頭を動かしただけで、もはや天から降る星は消え、か細い光で水面に映る鏡像でしかなくなったし、そうなればもう先ほど見た風景には戻れなかった。しかしいかに幻であろうとも、幽玄の星が空から連なって池に降り込む様子は時が止まるほど衝撃的だったことはぼくにとっては事実だ。

 そのままじっと見ていたかったが、宮井も大野も先に進んでしまい、遠藤が何してるのと言わんばかりにぼくを見ていたので、行かなくてはいけなくなった。月や星のおかげで道が見えるようになったのでさっきより歩きやすいし、蛍のポイントはまだ先だ。ゆっくりと歩き出した。しかし背中にはまだ遠藤の視線を感じた。

 歩いている道は池の脇に伸びていて、杭に通した紐は健在だった。とはいえこの時期あっという間に草が伸びるので、叢の中を通っているようなものである。手を切らないよう気をつけながら池を四分の一周ほどしたところで、道は池の上を通る。木を伐って板にしただけの三メートルくらいの簡単な橋がかかっている。右側に入江が、左側に池本体があって、橋の前後が蛍のビューポイントだ。

 橋の両岸どちらにも四人もいられるスペースはない。二人ならなんとか。特に示し合わせたわけでもなく宮井と大野は橋を渡り、ぼくと遠藤は橋の手前に佇んだ。図らずも男女のペア二つになったわけだ。

「ここなの?」

 大野が小声で宮井に聞いた。小声なのに、虫がいろいろな音程で鳴いているのに、風で木々がさわさわしているのに、橋の向こうまで三メートルくらいあるのに、大野の声はぼくの耳にはっきり聞こえた。

 宮井が答えた言葉は聞き取れない。

「そうなんだ。それで」

「うん、そうよね」

「楽しみ」

「だって」

「あはは」

「平気」

「ん」

 静かになった。ぼくが首をあげて天を仰ぎ、それから地面に視線を落とすところを遠藤が見ていて、小声で囁いた。

「くーちゃんのこと、気になる?」

「ん?ああ。別に」

「うふふ」

 遠藤は意味深に笑って、ぼくの左腕を取った。そのまま右手がぼくの左手首を握った。そして腕を持ち上げられた。遠藤が何をしたいのかはすぐにわかった。

 ぼくの左手と遠藤の右手が指す方向に、点滅する黄緑の光があった。ちょっと目を動かすとそこにも黄緑の点滅があった。視界の片隅に他にも光るものがあった。見つけ出したらどんどん見つかった。

「あ、あれ」

 橋の向こうで大野の声。小さいのにはっきり聞こえる。

「しゅんくん、蛍見ようよ」

 向こうも蛍を見つけたらしい。…しゅんくん?

 しかし、ぼくは、蛍を見るのに忙しくしていた。いくつかの黄緑の蛍光色の点は音もなく空中を移動し始めたし、新しく光りはじめる点も。数はどんどん増えていって。

 そのときの遠藤はぼくの左腕をとってぴったりと寄り添っていた。胸がないので気づかなかった。ごめん。

「りょーくんって、呼んであげましょうか」

 囁くように遠藤が言う。

「…どうでも」

 それよりせっかくだから蛍を見よう…よ。

「わたしの名前は、言える?」

 その言葉で思わずぼくは遠藤を見た。暗がりの中で表情は見えない。しかし、ぼくの持つ遠藤の印象らしからぬ、妙に悪戯っぽい声で。

「…ちさ」

「よくできました、りょーくん」

 そりゃ、大野の友達だし。ちぃちゃんと呼んでるのを何度も聞いてるし。

「あっちのほうがいっぱい飛んでるね」橋の向こうで大野の小声が聞こえる。「行ってみよっか」

 そのとき、ものすごく悪い予感がした。今日のぼくの予感は妙にあたる。それはたいてい、起こる場面のイメージを伴っている。例えば、ぼくが商店街に着いた時にアーケードの始点で遠藤が先に待ってる風景とか、ちょうど待ち合わせ時間に大野と宮井が並んでやってくる風景とか。だがこの時は風景が見えなかった。なにも見えないのではない。星の光と思われる弱い灯りは視界に降っていた。蛍の光と思われる蛍光色の点はいくつか見えた。しかし他のものは見えない。ただ、良くないことが起きることはわかった。なにがどう良くないのか、イメージする場面が見えないのでわからない。

 現実に戻るために強く目をつぶってからぼくは目を凝らして橋の向こうを見たが、蠢く影すら見えなかった。星あかりはシルエットを映し出すほど強くない。

「遠藤。ちょっと離れて」

 ぼくはそう短く言い、腕を振りほどこうとした。同時に橋に向かって二、三歩進む。しかしぼくは遠藤をふりほどくことに失敗した。遠藤はぼくの腕にしがみついていて、離れなかった。

「そっとしておいてあげようよ」

「そういうのじゃない」

 言いながら、じゃあどういうのだろうという疑問。悪い予感は消えない。いや増す。この予感のことを遠藤に説明するにはどうしたらいいだろう。今日のぼくは予感がえらく当たって、いま行かないと悪い予感が現実のものになるんだ。何を言っているのかわからないだろう。ぼくは遠藤に説明することを諦め、強引に腕をふりほどいた。

 急ぎ足で橋を渡る。

「ああっ」

 男声か女声かわからない叫び声が聞こえ、そのあとすぐに、どぷん、と水音が聞こえた。なんだ。なにが落ちた。かなり大きな、重いものが落ちたような水音。蛙飛び込む水のおとではない。蛙の水音なら何も心配することはない。

 最も悲観的に考えると人が落ちた音だ。でもそうじゃないかもしれない。大きく熟れた木の実が落ちた音かもしれない。落ちるか落ちないか絶妙なバランスで平衡を取っていた石がついに力尽きて池に転がった音かもしれない。と、無理に楽観的な結論を探しながらぼくは急いだ。

 目の前の水面がごぼごぼと泡立つのが見えた。水中から上がってきたのか。大野か。宮井か。無事か。

 ところが泡はそのまま消えゆき、泡の弾ける音も同時に消えていった。泡の音が消えて、静寂が包んだ。

 さっきまで聞こえていた虫の音も、蛙の鳴き声も、聞こえなくなった。そして、池に人の姿を見た。


***


 それは宮井ではなかった。長い髪をしていた。そして大野でもなかった。白いワンピースを着ていた。ノースリーブで、スカート丈は踝まで隠れるほど。沓は履かず裸足。その女性は、そのまま池の水面に仰向けになって浮き上がってきた。

 水死体。シチュエーションから考えてそうとしか見えなかった。池の底に沈んでいた水死体が何かの拍子に浮き上がってきたと。しかし水死体は水を吸ってぶよぶよに膨れ上がり、人の体とは思えないほど醜くなると聞く。いま目の前の水死体にそのような醜さはない。寧ろ美しい。白い衣服は水に濡れて透きとおり、光っていた。

 水死体ではない。生きているのか。

 この人が宮井でも大野でもないことを確信したので少し心の余裕ができていた。つまり宮井も大野も落ちていないと思ったのだ。また、水死体でもなさそうなこともほぼ確信していた。これも今日の妙なテンションのおかげだろうか、観察する余裕があった。生きているのかあるいは少し前まで生きていたのかのどちらかだ。だが、生きているに違いない、と思った。

 そういう、心の準備ができていたので、その人物が眼を開けた時も冷静だった。その女性は翠の眼をしていた。髪も、よく見れば黒髪ではなく、褐色だ。鼻は高く、二十代の女性に見えた。そして、日本語で消え入るような声でこう言った。

「こんばんは」

 玉を転がすような声というのはこういう声質のことをいうのか。小声ではあるがひどく美しい声だ。

「わたしは池の精です」

 池の精?思わず声に出る。あまり池の精って感じじゃないな。西欧風で。

 その女性は、ぼくを見据えた。

「この国の人には池の精と言ったほうが通りがいいと思ったのですよ」

「そうですか」ぼくも返した。「でもそれは名前じゃない」そう言ってからぼくは名乗ろうとした。「ぼくはー」

「知っています。日根凌くん」

 知っている?なぜ。

「わたしはモーガンといいます」

「なぜ、ぼくの名を?」

「それはですね」モーガンは上半身を起こしながら言った。下半身は水面にぴったり座っている。さすがはモーガン、湖の貴婦人だ。水面に座れるのだ。

「あなたを、追いかけてきたのです」

 そういうモーガンの顔からひとしずくの水が流れ落ちて、胸のあたりに落ちていった。彼女の白い服は濡れて透き通って肌の色まで見えるのに、それ以上は見えなかった。そういうものか?うん、そういうものだ。

「ぼくを追いかけてきた?」

「はい」

 それはまたどういう。

「それはなぜ」

 モーガンは、立ち上がってぼくに向き直った。目の高さが同じ位置になった。

「この世は、いろいろな要素が噛み合って回っています」

 モーガンの翠の眼がぐりんと光った。

「うまく回すためには中継点が必要です」

 中継点?なんだ。

「こういう言い方ならわかりますか。発電所で発電した電力は送電の際に減衰するので、必要な電力を供給するためには中継点で増幅しなければなりません」

 わからない。首を振った。

「仕方ない。言い方を変えましょう。ドミノ倒しでドミノを並べるとき、アクシデントがあっても被害が少なくなるように板を立てますね。それです」

 ちょっとわかってきた。そう言った。

「わたしたちはその板のことを、世界の中心と呼びます。再構築の際には世界の中心が基準になります」

 わからなくなってきたがそのまま聞いた。

「世界の中心は、ある一定の規則に従って選定されます。いつも世界の中心があるわけではありません。特定の条件に当てはまると、世界の中心になります」

 ぼくはわかったともわからないとも合図を出さなかった。モーガンはとにかく説明をしてしまうつもりらしかった。ぼくの反応を気にせずに言葉を続けた。

「逆に言えば、世界の中心が出現するときというのは、世界が少し歪になっているのです」

「わたしは、歪になった世界を保全する役目を仰せつかっています」

「世界の中心に選ばれる人の予兆として、ごく近い未来が視えたりすることがあるようです」

「さて」

「ちょうどいま、このとき、この場所に日根凌という人物がいれば」

「その人物が、世界の中心です」

 そう言われて、そうなのかと思った。ぼくが世界の中心。何の実感もない。

「世界の中心で願ったことはかないます」

 ぼくの願いがかなう、のか。

「いまこのときがいくつかの世界が交錯する交点なのです。いくつもの未来の可能性があります。そのどれもが蓋然性を持ちます。どの未来もありうるということです。わたしたちはそのうちどの世界を選択するのか、世界の中心に委ねます。それが、願いがかなうということです」

「ただし、荒唐無稽な未来は選べません。連続した未来である必要がある。つまり、あなた、日根凌は、次の選択肢から選ぶということ」

 ぼくは生唾を飲み込んだ。次の言葉は、衝撃的だった。

「あなたが落としたのは、宮井俊ですか、それとも大野公美ですか、あるいは、遠藤千紗ですか」

 しばらく、言葉が出なかった。長い時間が過ぎたように感じた。

 この暗闇の池に落ちた場合、無事では済まない。見つけ出すことも難しい。

 ひどい罰ゲームだ。ぼくが選んだ友人が死ぬかもしれない。そして、その対象を選ぶのはぼくだ。そんなことはしたくないのに。

「落ちたやつは、どうなりますか」

 ぼくは恐る恐る聞いた。

「無事では済まないでしょうね。わたしは再構築するだけですので、未来が見えるわけではありませんが、助かる可能性はかなり低そうです」

 その言葉を聞いて、ぼくはずっと固まっていた。

「この時点を軸に、世界を再構築します。そうすることで誤差がなくなるのですよ。日根凌くん、あなたが選んだ未来が現実になります」

「どうせ再構築するのです。ゆっくり時間を使ってもかまいません」

「あなたが、最も納得する選択肢を選んでください」

 そのようなことを、ぽつりぽつりとモーガンが言っていたが、聞いていなかった。ぼくは考えることに忙しかった。あるいは考えることに忙しくしていたかった。

 そのうち、悪魔のような案が思い浮かんだ。

 思い浮かばなかった方が幸せだった。しかし思い浮かんでしまったのだ。

 この選択肢が選べるのであれば、三人とも欠けることなく助かる可能性がある。

 まずはその選択肢を選べるかどうか、聞いてみた。モーガンはちょっと考えていたが、可能だと言った。

 答えを聞いた後も、ぼくは悩んだ。

 まさに、悪魔のような案だったのだ。

 空を見た。蛍が浮んでいた。遠藤千紗の持つ十五センチの懐中時計を思った。きっと強力な光を発することだろう。

 ぼくは大きく深呼吸して。

「では、決めます」

「落ちるのは」

「日根凌」

 自分の声ではないように聞こえたぼくの声は聞いていられないくらい震えていた。


***


 ごぼごぼと体にまとわりついた空気の泡が破裂する音を聞きながら、ぼくは後ろ向きに頭から沈んでいった。落ちる寸前に、りょーくん、とぼくを呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 実は、その時にもまだ、ぼくは助かるのではないかという漠然な思いがあったのだ。一つには、初めにモーガンの出した選択肢にはなかったこと。それから、モーガンが未来を司っているわけではないこと。

 水中から見る水面には、水上の光が揺らいでいて、黄色いのがたぶん月で、黄緑がたぶん蛍だ。しかし沈むにつれてどんどん光が薄まっていき、暗闇が色を濃くしていった。体がどんどん重くなるのを感じた。

 そのとき、白い光がぼくの目に差し込んだ。

 ああ、あの、十五センチの懐中電灯で探してくれているんだ。

 早く、浮き上がって、千紗を安心させてあげなきゃ。

 ぼくの目の前に、光の道が見えた。それは星空のように細かい光の点でできていて、それを頼りに進めば上に抜けられそうだ。

 星影が連なり、なだらかな束を作って、畝って、そのまま池の水と同色に見える空に続いていた。

 ぼくはその景色と全く同じ景色を見たことがあった。さっき足穂池にたどり着いたとき、空と池が繋がって、星がそれを結んでいて。ということはこの道は地上ではなく天上に続いているんだ。

 ああ、あのとき見たのは、この景色だったのだな。

 



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蛍の池 穂積 秋 @min2hod

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