第74話 最終話「心臓いっぱいの愛を」(30)


「じゃ、行くぞ。三、二、一……」


「だっだっだー……あっ、間違えた」


 涼歌のギターが演奏をやめても、俺のベースはしばらくオーバーラン状態だった。


「おい、そもそも俺のリハビリなのに、ギターが間違えてどうするんだ」


「ごめーん。もう一回やろ?……それとももっと簡単なのやろうか。「きらきら星」とか」


「そんなブリティッシュロック、聞いたことないぞ」


 俺の右手のリハビリと、涼歌のギター練習を兼ねたセッションに選んだのは「スモーク・オン・ザ・ウォーター」だった。


 せっかく俺が最後まで弾く気満々でいたのに、出だしから躓いたのでは、どちらがリハビリだかわからないではないか。


「これより簡単なやつとなると……あっ、ちょっと待て」


 カウンターの上の携帯が鳴った。手を伸ばし、出てみると隼人だった。


「よう、仕事中か?忙しかったらまた後でかけるが」


「いや、いい。用件は何だ?」


「実は突然ですまないが、見て欲しい物があるんだ。十年前、六道智之が死んだときに残した遺品に指輪があってな。それがお前に関係ありそうなんだ」



 ――六道。しかも指輪だって?


 俺は胸の奥から不穏な黒い塊がこみ上げてくるのを感じた。


「ああ。銀製の手作りの指輪で、一つには「P」、もう一つには「B]と彫られているんだが、見た覚えはあるか?」


 俺は一瞬、返答に躊躇した。覚えがないからではない。むしろ逆だった。六道との関係は定かではないが、「P」と「B」の文字が彫られたリングには見覚えがあった。


「言われてみれば、見たような気もするな。……で、どこに行けばいいんだ?」


「八十頭署に来てくれ。今のお前にはもしかしたら敷居が高いかもしれないから、俺が正面玄関で待っててやる」


「わかった。一時間以内に行く」


 俺が通話を終え、振り返ると涼歌が不安を湛えた目でこちらを見ていた。


「出かけるんだ」


「ああ。悪いが今日の練習はここまでだ。また今度、時間のある時にじっくりやろうぜ」


「今度って、いつ?」


「いつって、そうだな……」


「もし「今度」がなかったら?……私、怖い。ゾンディー、さっきの電話で変わったもの」


「変わった?」


「私の嫌いな目、してる。……私の知らない、過去を見てる目」


 俺は肩をすくめた。誰でも親しい人間が謎めいた過去を持っていたら、気になるだろう。それを気づかぬふりをしてやり過ごせないほど、彼女はまだ子供なのだ。


「……なあ、俺や君にだって、ゾンディーやファンディになる前の時代がある。それはわかるだろう?」


「うん」


「過去は消すことができないし、誰だって多かれ少なかれ、過去にとらわれてる。これは生きている以上、どうしようもないことなんだ」


「でも……ゾンディーを縛ってる過去はなんだか重すぎて、一度とらわれたら、もう二度と帰ってこないような気がする。私の手の届かないところへ行ってしまうんじゃないかって」


「ファンディ、どんなに重い過去だったとしても、これだけは約束できる。現在が過去を上書きすることはあっても、過去が現在を上書きすることはない」


「本当?」


「ああ。どうせすぐ戻る。それまでに出だしの所だけでもきっちり練習しといてくれ」


「うん。……わかった。待ってる」


 俺はいくばくかのうしろめたさを覚えつつ、身支度を始めた。


 指輪の記憶というのが、仮に牧原幸三が言っていた「知らない方がよかったと思うような過去」に繋がるとしても、避けて通ることはできなかった。


 ――俺はもしかしたら、開けてはいけない箱を開けようとしているのかもしれないな。


                  ※


 八十頭署の正面玄関に着くと、隼人が人懐っこい顔で「よう」と言った。


 俺はかすかに記憶に焼き付いている、かつての職場を新鮮な気持ちで眺めた。


「相変わらず、重苦しい建物だな」


「まあ、そういうな。見るからに楽しそうな建物よりは、いいだろ」


 俺たちは建物の中に足を踏み入れた。六道の遺品が置いてあるという部屋は、地下にあった。人気の少ない廊下を進み、倉庫のようなそっけないドアを開けると、戸棚とテーブルがあるだけの狭い部屋が現れた。


「これがそうだ。よく見てくれ」


 隼人がテーブルの上の、ビニール袋に入った物品を示した。俺は渡された手袋をつけると、ビニール袋の中をあらためた。中には確かに「P」と刻まれた指輪が入っていた。


「うん。見たような記憶がある。……でも、これがどうして俺と関係があると思った?」


「これは六道の自作で、おそらくはプレゼントするための物だ。「P」はパープルで紫、「B」はブルーで青。どうだ、わからないか」


「まさか、俺と紫蘭という女性に……」


「そう考えて間違いない。もっとも、ここにあるということは、何らかの理由で渡しそびれたのかもしれないがな」


 俺はもう一つの指輪も見た。こちらは「B」、つまり俺の指輪という事か。俺は六道智之と、妹の紫蘭の顔を思い浮かべようとした。が、あと少しの所で霞んでしまうのだった。


「そうそう、こっちの箱の中も見てくれ。縦長の奴だ」


 俺は言われたとおりに、縦長の箱を覗きこんだ。


「暗いな。本当に中身が入ってるのか?」


「底の方だ。よく見てくれ」


 俺が箱の奥を覗きこもうとした、その時だった。カチリと言う小さな音が聞こえたかと思うと、箱の底から霧状の何かが顔面に噴き付けられた。


 ――しまった、またしても「ミスト」か。まさか警察内でやられるとは……


 俺は項垂れたまま、ずるずるとテーブルの前に崩れた。床に倒れこむ直前、視界の端に隼人の顔が見えた。その目を見た瞬間、俺は想定外の事態が起きていることを悟った。


                   ※


 不快な眠りから浮かび上がると、そこは病院の処置室を思わせる小部屋だった。


 俺は両手両足をストレッチャーのような台に固定され、おまけに頭部に得体の知れないヘルメット型の装置を被せられていた。


「ここは……どこだ?」


 俺が身じろぎをすると、近くでコンピューターの操作をしていた男性が振り返った。


「おお、気分はどうですか、青山先輩」


 先輩だと?こいつは一体、誰だ。


「私は最近、特務課勤務になった者です。青山先輩の十年ほど後輩に当たります。今、署長が参りますから、お待ちください」


 俺が事態を把握しかね、戒めを解こうともがいていると、ドアが開いて二つの人影が中に入ってきた。


「三谷さん……」


 現れたのは、三谷署長と藤尾課長だった。


「やあ、また会ったね、青山君。こんな扱いをして申し訳ないが、我々としては一日も早く君を我が「ゾンビ課」にお迎えしたかったのでね。少々、乱暴な方法を取らせて貰った」


「隼人は……俺を裏切ったのか」


「それは正確な表現ではないな、青山君。彼はもう、ずっと昔からある暗示の影響下で動いているのだよ」


「暗示?」


「そう。十年も前にかけた暗示だ。そして、本来なら君もその影響下にあるのだ」


「俺が?」


「記憶を失ったことで、待機状態になってはいるがね。特定の刺激を与えることで、記憶ともども暗示も働き出すというわけだ」


「一体、なにをする気です?」


「君に我々の仲間になってもらいたいだけだよ。暗示が蘇れば、君は十年前と同様にゾンビを追い、捕える腕利きの署員となる。いやむしろゾンビになった今の方が優秀なはずだ」


 俺は混乱した。俺は十年前、防犯課の仕事と並行して、ゾンビを捕まえるゾンビ課の署員を兼務していたのか。


「さあ、これでわかったろう。おとなしくしていれば、君は君の知りたかったすべてを知ることができるはずだ」


 三谷署長が背後に目で何か合図を送った。コンピューターを操作していた署員が立て続けにキーを叩くと、次の瞬間、頭の中にうねるようなノイズ音が流れ込んできた。


 ――なんだこれは……いけない、過去に戻ってしまってはだめだ。今はまだ、すべてを思い出す時じゃない……


 俺は意識を飲み込もうとする黒い渦に必死で抗おうとした。……が、必死の抵抗もむなしく、やがて俺の意識は過去へと続く暗い穴の中へと飲み込まれていった。


            〈第三十一回に続く〉

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