第75話 最終話「心臓いっぱいの愛を」(31)


 「はい、どちらさまでしょうか」


 呼び鈴を鳴らし、少し待つと女性の声が応じた。小さなガラス玉がぶつかるような、硬質で控えめな声だった。


「八十頭署の青山です。また少し、お話を伺いたくて来ました」


「あ……どうぞ、鍵は開いてます。そのままリビングまでお入りください」


 若い女性なのに、こんなに不用心でよいのだろうか。そんな懸念を抱きつつ、俺は言われたとおり、施錠されていないドアをくぐった。


 沓脱から奥をうかがうと、リビングの一角にソファに座っている女性の姿が見えた。


「お邪魔します」


 俺は靴を脱ぐと、そのままリビングに進んだ。女性はパジャマ姿で、傍らには毛布がたたんであった。俺が現在、殺人事件の容疑者として追っている六道智之の妹、紫蘭だった。


「休まれてたんですよね?私に構わず、どうぞ横になってください」


 俺は両膝の上で手をそろえ、こちらを見ている紫蘭に言った。


「……すみません、玄関にも出て行けなくて」


 紫蘭は素直に横になると、喉で咳を押し殺しながら詫びた。


「いえ、突然、迷惑も考えずに訪問したのはこちらです。どうぞお構いなく。……体調の方はいかがですか」


「そうですね、あまり変わりないです……というか、子供のころからこんな感じなので、いいのかよくないのか、自分でもわからなくなってしまって。……今日も兄のことを聞きにいらっしゃったんですよね?」


「ええ、まあそんなところです。……それより、ちょっとお願いがあるんですが」


「なんです?」


 紫蘭がソファの上で目を丸くした。痩せてはいるが目の輝きは生き生きとしていた。


「コーヒーを持ってきたんですが、淹れさせていただいて構いませんか?この間は、お具合がよくないのにわざわざ淹れていただきました。お返しをさせてください」


「あら、お客様にコーヒーを淹れさせるなんて、なんだか申し訳ないわ。……でも、青山さんがそうなさりたいのなら、どうぞ。薬缶でもカップでもお好きにお使いください」


 紫蘭は眉を寄せながらも、笑顔をこしらえた。最初にこの部屋を訪れた時、俺に淹れてくれたコーヒーの味は、忘れることができないほど奥が深いものだった。


 おかしな話だが、その一杯のコーヒーで、容疑者の妹であるにも関わらず、俺は紫蘭という人物に興味を抱いたのだった。


「外はいいお天気ですよ」


 俺は借りたドリッパーに粉をセットしながら言った。ほぼ寝たきりの人物に天気の話は酷かなとも思ったが、変に気を遣うよりはましだとも思った。


「そのようですね。……このところ暖かかったから、そろそろお花もあちこちで咲いてるでしょうね」


 紫蘭はテーブルの上の花瓶に目を向けながら言った。花瓶には淡いブルーの野草が生けてあった。兄の智之が持ってきたのだろうか。


「最近は、絵は描かれないのですか」


 薬缶をコンロにかけながら訊くと、紫蘭は黙って目を伏せた。


「描かなくもないですけど、ほら……手がすぐ言うことをきかなくなっちゃうんで、怖いんです。描き始めるのが」


 紫蘭は毛布から手を出すと、ぎこちなく指を動かして見せた。


 間もなく二十一歳になる彼女は、幼少の時に原因不明の難病であることが判明し、ほぼ寝たきりの人生を余儀なくされていた。

 難病は身体全体の免疫力にも影響を及ぼし、医者からは遠からず多臓器不全で命を落とすと言われたらしい。


「描きながら、いつも思うんです。この絵が遺作になっちゃうのかなって。……そのくせ、お医者様に言われた寿命をもう、何回も超えちゃってるんだから、おかしいですよね」


 薬缶がかたかた鳴り始め、やがてピーという笛の音がリビングに響き渡った。


「コーヒーのおいしさがわかるのは、まだまだ健康な証拠ですよ。……調子の良い日もあるのでしょう?」


「……ええ、たまに。兄がよくアクセサリーを作ってくれるので、外に出たい気持ちもあるんですけど……なにせ、学校もほとんど行ってないような人生ですから、自然と太陽の光に臆病になっちゃって」


 俺はドリッパーの粉に、沸騰した湯を注ぎ始めた。粉が泡立ち、ふわりとコーヒーの匂いが立ちのぼった。


「刑事なんて歓迎できないでしょうけど、少しでも気が紛れるのなら来たかいがあります」


 俺はコーヒーをカップに注ぐと、ソファの脇のテーブルに運んだ。


「兄のことでいらっしゃったのに、何もお聞きにならなくていいんですか」


 カップから立ち上る湯気に鼻先を近づけながら、紫蘭が言った。


「そうですね。……子供の頃は、どんなお兄さんでした?」


「私がこんな身体だったから、ずっと私を守ってくれました。恩着せがましいことは一切、口にしませんが、私は兄の自由を相当、奪ってきたに違いありません」


「それは今でも?」


 今でも、と紫蘭は言った。俺はどこかで納得している自分を意識した。

 すでに捜査で何度か会っている限りでは、六道智之と言う人物には「殺し屋」の雰囲気はなかった。むしろ話していると、求道者のような禁欲的なたたずまいさえ感じられるのだった。


「兄を皆「殺し屋」だと思っていますが、私に言わせれば世界で一番、優しい人です。兄が本当に皆さんがおっしゃるような仕事をしているのかどうか、私にはわかりません。でも兄がそうすると決めた時には何か必ず、理由があるはずなんです」


「理由ですか……それがわかれば、私もお兄さんを説得しやすいのですが」


「自首を勧めるという事ですか?」


「はっきり言ってしまえば、そうです。仮にお兄さんが「殺し屋」だとしても、あまりに手際が鮮やかすぎて正直、私たちとしても手詰まりなんです。

 私も色々悪い人間を見てきましたが、お兄さんはどう見ても「殺し屋」になるタイプじゃない。だからこそ、余計に知りたんです。妹さん中心で生きてきた優しいお兄さんがなぜ「殺し屋」になったのかを」


 俺は紫蘭を見つめた。カップに口をつけている紫蘭は、やはりどこか智之に似ていた。


「……おいしい。青山さん、コーヒー淹れるの、お上手ですね」


「そうですか。それはよかった。きっとこの部屋の空気がおいしくしているんでしょう」


「青山さん」


「はい」


「私たちの両親……というか一族は、ちょっと変わったところがあって、あまり外の人たちと交わりませんでした。私もこんな身体なので、兄以外とはあまり思い出を共有したことがありません。

 両親もいない今、ふと思うんです。このまま死んだら、私がこの世に生きていたことを誰が覚えているんだろうって」


「…………」


「青山さん、私は確かに容疑者の妹かもしれません。でも正直、こうして私の元を同じ方が何度も訪ねて来て下さるってことが、うれしくて仕方ないんです」


「まあ、仕事ですから……でもおかしな話ですが、私も今日はこうやってコーヒーをご一緒するのを楽しみにしていました」


「お仕事でもなんでも、私がコーヒー好きだってことを覚えてくれていただけでうれしいんです。世の中の誰も、私がどんな人間で、どんな生活をしているか知らないんですもの」


「紫蘭さん、少し外に出てみませんか」


「えっ」


 俺はふと思いついたことを口にしかけていた。それは、捜査中の刑事としては不適切と言ってもいい提案だった。


「私がよく散歩する場所の近くに果樹園があるんです。ここからもそれほど遠くないし、ちょうどこの時期なら花が楽しめると思うんです。行ってみませんか」


「あの、それは……調子の良い日だったら行けるかもしれませんが、私は自分の発作がいつ起こるか把握できないんです。もし外出中に具合が悪くなったらきっと、ご迷惑をおかけすることになると思います」


「そんなことを気にしていたら何もできませんよ。具合が悪くなることも可能性の中に織り込んでいけばいいんです。目的は外に出ること、楽しめるかどうかはそれからです」


「そうですね。……わかりました。じゃあ、ご都合がついたら教えてください」


 俺はほっとした気分になった。容疑者の妹と遊ぶなんてどうかしているかもしれない。しかし俺の中では、紫蘭を知ることと智之を知ることとは、同じひと続きの作業であるように思えたのだった。


「青山さん。……もし私が死んでも、私のことを覚えていてくれますか」


「なに、不吉なこと言ってるんですか。もちろん、忘れませんよ。それより縁起でもないことを考えるのはやめませんか」


 俺が宥めると、紫蘭は無言でかぶりを振った。


「私にとっては大事なことなんです。もし青山さんが自然に私のことを忘れたら、それはそれで構いません。でももし、少しでも覚えていてくださるのなら、私は青山さんの記憶の中で生き続けることができるんです。もし、誰にも知られず死を迎えたとしたら、私には兄以外、私がこの世に生きていた事を知っている人がいないことになってしまう」


「……大丈夫です。私があなたのことを忘れることはありません。だから、生きてもっと多くの人にあなたの存在を知ってもらいましょう。そのためにできることがあれば、協力します」


「ありがとうございます。……すみません、お仕事に役立つようなことを何も言えなくて」


「とんでもない。充分に役立っていますよ」


 俺は紫蘭の表情が柔らかさを取り戻したのを見届けると、コーヒーを一口、啜った。


             〈第三十二話に続く〉

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