第61話 最終話「心臓いっぱいの愛を」⒅


 深一郎の用意したワゴン車は、予想通り見咎められることもなくスムーズに敷地への侵入を終えた。


 建物から近い場所に車が停まると、俺たちは車内から周囲を見回した。見える範囲に特務課の姿はないようだったが、駐車場内に一人二人、いてもおかしくはない。


「ホールに無事入れたら、そこで二手に分かれよう。たぶん、俺たちの方がてこずると思う。最悪の場合は先に逃げてくれ」


「案外、私の方がてこずるかもしれません。……まあ、お互いそうならないよう、全力を尽くしましょう」


 なんとも心もとない会話だったが、この中に潜入のプロなどいないのだから仕方がない。


「しかし泉下さん、すごい変装技術ですね。わずか数分足らずでこれだけ顔の雰囲気を変えられるなんて」


 キエフが俺の横顔を見つめ、しみじみと漏らした。


「これでも控えめにしたつもりだがな。この程度の変装、どうせすぐ元に戻るさ」


 俺はあいまいな返答をした。実際、変身能力を大っぴらにしないよう、目の周りと頬のあたりだけの変形にとどめておいたのだ。


「よし、行くか」


 俺たちは車から降りると、キエフを背後に隠す形で歩き始めた。駐車場を横切る時、一瞬、建物の影に特務課の制服が見えた気がした。が、俺たちはあえて視線を動かさず、正面玄関を目指した。


 ホールに足を踏み入れると、利用者と思しき老人と、白衣に似た制服に身を包んだ職員が数名、行き来しているのが目に入った。俺と深一郎は目で合図を交わすと、二手に分かれた。


 俺とキエフはホールを斜めに横切ると、食堂に通ずる廊下に進んだ。作業員と警官と言う不思議な取り合わせが注意を引かないか不安だったが、俺たちに不審の目を向ける人物は皆無だった。


「キエフ、秋帆さんが食事を摂っていたのは、今くらいの時間でいいんだよな?」


「間違いないです。ただ、毎日そうしているのかどうかは確かめてないですけど……」


 俺は頷いた。日課であれば必ずいるはずだし、そうでないのなら少々、厄介だ。


 俺たちは長い廊下を、奥に覗いている「食堂」という案内板目指して進んでいった。……と、突然キエフが足を止め、小さく「あっ」と叫んだ。


「どうした?」


「泉下さん、あれっ」


 キエフが前を向いたまま、俺に何事かを目で示した。視線を追うと、向こう側から二つの人影がやってくるのが見えた。


「少し早かったか。……いや、待て。見方を変えれば好都合かもしれないぞ」


 二つの人影は、秋帆と白衣の男性だった。白衣の方はおそらく研究者だろう。


「キエフ、トイレの前で止まれ」


 俺は顔を動かさずに隣のキエフに囁いた。


「えっ?……あ、はい」


 俺たちがトイレの前で足を止めると、一呼吸遅れる形で二人と鉢合わせになった。


「すみません、ちょっといいですか」


 俺は毅然とした態度を装って、白衣の男を呼び止めた。白衣の男は面食らったような表情になると、しぶしぶ足を止めた。


「なんでしょう?」


「これから、そちらの女性のお食事の時間ですよね?」


「はあ、そうですが……」


「本部から先ほど、急な予定変更の連絡が入りました。日課を中断させる形になって申し訳ないのですが、そちらの女性を今から本部にお連れするよう、指示があったのです」


「えっ、それはまたひどく急な……まいったな。この後も実験……いや、診察があるというのに」


 白衣の男性は、迷惑気な態度を隠そうともせずに言った。


「お察しします。しかしこればかりは、私の一存でどうこうできることでもないので」


 俺は職務に忠実な警官を装い、慇懃に言った。


「……仕方ないな。行きなさい」


 男性は渋い表情を浮かべると、秋帆の背を押した。秋帆はよろけるように前に進み出た。俺は怯えたような表情の秋帆に、なるべく刺激を与えぬよう、そっと腕をつかんだ。


「あ……あっ」


 突然、秋帆が小さく声を上げた。表情を盗み見ると、秋帆の目は俺の傍らのキエフに向けられていた。


 ――まずい。


 白衣の男性は一瞬、怪訝そうな顔になると、俺とキエフの顔をかわるがわる見た。


「……あんたたち、ひょっとして」


 俺は腹をくくった。こうなったら計画変更だ。


「先生、すまない」


 俺は短く詫びると、白衣の男性の鳩尾に拳を叩き込んだ。男性ががくりと身体を二つに折ると、俺は後ろから素早く抱きかかえた。


「俺は今からトイレにこの人を隠してくる。お前は彼女とここで待っていてくれ」


 俺は男性の身体を引きずるようにして、トイレの中に運び込んだ。万が一のことを考えて、トイレの前で立ち止まったのは正解だったと俺は思った。


 俺は奥の個室に男性を引きずってゆくと、便座に座らせた。念のために白衣のポケットを探ると、金属の感触が指先に触れた。取りだすと、それは小型の「死亡銃ボウガン」だった。


「先生、悪いがしばらく借りておくぜ」


 俺は「死亡銃」を自分のポケットにしまうと、廊下に戻った。キエフはしきりに秋帆の顔を覗きこみ、何事か話しかけていた。


「秋帆……秋帆。どうした、俺がわからないのか?」


 秋帆は一瞬、キエフに何かを感じたらしいものの、その後はまるで人形のように無反応だった。


「何か薬を飲まされてるんだろう。今は期待しない方がいい」


 俺はキエフを宥めると「とにかく早く車に戻ろう」と言った。キエフが無念そうに首を振って秋帆から離れた、その時だった。


 けたたましい警報が建物全体に響きわたったかと思うと、複数の足音が近づいてくる気配があった。


「……まずい。気づかれたぞ。走るんだ!」


 俺たちが秋帆を伴って駆けだそうとした途端、前方から三人の警官が姿を現した。


「くそっ、思っていたより足並みが揃ってやがる」


 俺は思わず呪詛の言葉を吐いた。敵に見つからず脱出するという目論見は、ここへきて暗礁に乗り上げていた。


「泉下さん」


「なんだ?」


「……ここは俺に任せて、裏口から脱出してください」


「何を言ってるんだ、キエフ」


「俺、泉下さんに何度も助けてもらってます。なのにまだ一度も恩返しをしてないです。今日は俺が泉下さんと秋帆を守ります」


「そんなことを言っても、どうやって……」


 俺はキエフを宥めようとして、はっとした。キエフは己の命を武器に、身体を張って秋帆と俺を守ろうとしているのだ。


「……わかった。でもやばくなったらすぐ逃げるんだぞ、いいな」


 俺は白衣の男性から奪った「死亡銃」を、キエフの手に握らせた。


「これは麻酔弾を打つ銃だ。敵に当たっても死にはしない。……だが、もしこれを撃つようなことがあったら、その時は確実に当てるつもりで撃て」


 俺は後ろの安全装置の外し方を手つきで示すと「後は引鉄を引くだけでいい」と言った。


「まかせてください。あんな連中、全員、蹴散らしてやりますよ」


 キエフは「死亡銃」を握りしめると、俺の目を見返して力強く言った。


「たのむぞ、キエフ」


「はい。何か音が聞こえても振り返らないで下さいよ」


 俺は秋帆を促すと、廊下を逆戻りし始めた。背後でキエフが「止まれ、撃つぞ」と敵を威嚇する声が聞こえた。俺は振り返って確かめたい気持ちをこらえ、裏口を目指した。


             〈第十九話に続く〉

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