第50話 最終話「心臓いっぱいの愛を」⑺
カフェを出た俺は数メートル先の銀行に入ると、そのままカウンターの前を通り過ぎて奥のATMコーナーへと向かった。
ATMコーナーの奥には専用の出入口があり、俺は建物を通り抜ける形で裏通りへと出た。裏通りには地下鉄に続く入り口があり、俺は階段を下りて地下へと移動した。
――地下に降りたら改札はくぐらず、近くの大型薬局チェーンに入ってください。そこはいつもアジア系の外国人客でごった返してるんで、連中の間を潜り抜けて裏の出入り口から出るんです。こいつはなかなか、追っ手さんも骨が折れますぜ。くくく。
「ビーグル」はゲームでも楽しむかのように指示をよこした。俺は言われるままに薬局へと足を踏み入れた。「ビーグル」の言葉通り、店内はアジア系の外国人でごったがえしていた。
――俺の店も、これくらい繁盛すればいうことないんだが。
俺はあらぬ願望を抱きつつ、売り場にひしめく客の身体を押しのけ、店の奥へと進んだ。
ようやく人波を抜け、肩越しに振り返ると、風邪薬の棚の前で必死にもがいている人物の姿があった。おそらくあれが追っ手だろう。俺は階段を駆け上がると、携帯に向かって指示を仰いだ。
――近くにバスセンター方面に続く長い通路があるはずです。出口の手前にトイレがあるので、一番奥の個室に入って施錠してください。
俺はあたりを見回した。通路はすぐに見つかった。バスセンターに続く出口に向かって歩き始めると、ほどなくして音楽のような物が俺の耳を捉えた。
――なんだろう。
追われていることを忘れ、つい立ち止まって目を向けると、通路の途中、壁際に陣取って楽器を演奏している三人組がいた。ウッドベース、サックス、アコーディオンという編成で、曲の種類はジャズ風にアレンジしたポピュラーだった。
――伴ちゃん、聞こえるか。面白い物をやってるぜ。
俺はマイク越しに「ビーグル」に尋ねた。「ビーグル」は過去に十年近くフリーのミュージシャンだったことがあるのだ。
その腕前は確かで、仕事を離れて一緒にやったセッションでは、ドラムとピアノ、サックスをギターリフの間に次々と持ち替えて観客を魅了させたこともあった。
――うん、まあまあだな。もうちょっと聞いていたいが、そろそろ行っとくれ。
俺は「わかった、すまん」というと、再び出口を目指した。トイレを見つけると俺はまっすぐに奥の個室を目指した。言われたとおりに施錠し、到着したことを告げると「ビーグル」から思いもよらぬ指示が返ってきた。
――まず、ドアについているフックを右に二回、左に三回してください。それが終わったらトイレットペーパーのホルダーを手前に引いてください。扉が開くはずです。
――扉だって?
俺は訝りつつ、言われたとおりにした。トイレットペーパーのホルダーを引いた瞬間、カチンという音が個室内に響き渡った。すると次の瞬間、便器の後ろの壁が開き、地下に続く階段らしきものが出現した。
――その壁は通った後、自動で閉じるからとにかく、急いで下に降りること。いいですか?
俺は「ああ」応じると、言われたとおり、階段を早足で降りた。降り切ったところに金属製の扉があり、俺は取っ手に手をかけると「ビーグル」に呼びかけた。
――ドアがあったぜ。開けていいのかい。
――もちろん。その向こうが終点でさあ。
俺は思い切ってドアを押し開けた。中へ足を踏み入れた俺は、思わず声を上げていた。
――いったい、なんなんだ、ここは。
俺が出た場所は、前後に延々と伸びている長い通路の一角だった。
「どうやらうまく追っ手を捲けたようですな、旦那」
ふいに横合いから声が飛んできた。見ると、頭頂部が禿げ上がった初老男性がこちらを見てにやにやと薄笑いを浮かべていた。
「ヌケサク鳥か。久しぶりだな」
「そうですな、十年ぶりくらいですか。旦那、何でも死んでたって話じゃないですか」
男性は「ビーグル」の子分の通称「ヌケサク鳥」だった。
「ここはいったい、どこなんだ」
「ここはですな、今から四十年ほど前に、このあたりに地下鉄を作るっていう計画があったらしいんですな。で、それに先立つ形で作業用の通路が作られたんですが、なんでも政治的な理由って奴で、計画が変更になっちまったんです。それでまあ、通路だけがこうして残されたってわけですな」
「それをどうしてお前たちが知っているんだ」
「それは、今回の依頼主……フェニックス・ビルのお偉い方が教えてくれたんでさあ。秘密のお客……つまり旦那を無事に連れてくるために、VIP専用のアクセスルートを教えるからってね」
「という事は、この通路の奥がそのままフェニックス・ビルの地下につながっているってわけか」
「さようで。……行ってみますかい」
「ヌケサク鳥」は、ハンドライトを片手にひょこひょこと先に立って歩き出した。
俺は仕方なく後をついて歩き始めた。何が何だか、いまだに良くわからなかった。
「なあ、ヌケサク」
「へえ」
「またお前たち……「ビーグル」も含めて、一緒にセッションしたいもんだな」
「ああ、いいですねえ。でも、楽器がどうなってるか、怪しいもんですがね」
ヌケサクは腕利きのギタリストでもあった。その昔、とあるフェスで数万人を前に超絶技巧的なソロプレイを利かせたという逸話が残っている。
十分ほど歩くと、俺たちの前にコンクリ―トの壁が現れた。ヌケサク鳥は壁のわきにある鉄梯子を器用によじ登ると、天井の金網でふさがれている箇所を、慣れた手つきで外して見せた。
「ここから上るんでさ」
俺は天井にぽっかりと空いた穴を見上げ、やれやれと太い息を吐いた。
前回は 堂々と玄関から入れたというのに、今回はビル荒らしの真似事か。
するすると穴に入ってゆく「ヌケサク鳥」の後に続き、鉄梯子に足をかけようとした、その時だった。
「おっと、そこを上る前に、こっちを向いた方がいいですぜ、旦那」
俺は手足の動きを止めると再び床に降り、振り返った。十メートルほどの距離を挟んで、ずんぐりした人物の姿が見えた。
「お前……」
俺は絶句した。立っていたのは、やはり「ビーグル」や「ヌケサク鳥」同様、俺が警察官時代によく関わったごろつきの一人、「暗闇の虎」こと
〈第八回に続く〉
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