第40話 第三話「イッツ・ノット・トゥー・レイト」⒀


「あらごめんなさい、お茶がないわ」


 冷蔵庫の中をあらためていた千草が声を上げた。


 俺は亜木がこしらえた、とっつきにくいマニュアルを精読するのに必死で、つい「どうぞおかまいなく」と気のない返答をした。


「泉下さん、お客様にお留守をお願いするのはなんなんですけど、コーヒーを買ってくるので十五分くらい、この部屋で待っていてもらえますか」


「構いませんよ。こっちも少しばかり時間がかかりそうなんで」


 俺は短く返した。要するに留守番だ。


「じゃあちょっと、行ってきますね」


 千草は小ぶりのバッグを携えると、部屋を出て行った。俺はマニュアルを読む作業を続けつつ時折、窓の外の大男に目を向けた。


 ステンレスの手すりに跨って外壁に充電器を据え付けているさまは、エアコンの室外機を取りつけに来た業者を思わせた。


 千草が出かけて十分ほど経ったころ、俺はマニュアルを読むのを中断し、廊下に出た。


 目が疲れたので、廊下の窓から外を眺めようと思ったのだ。廊下の壁は今どき珍しい木目調の化粧板で、窓も古めかしい木枠が使われていた。外を覗くと、隣家との間に私道と思しき小道があった。


 しばらく眺めていると、抜け道のようなその小道をやってくる人影があった。千草だ。


 意外に早いな。そう思った時だった。行く手を遮るかのように突然、千草の前に複数の人影が立ちはだかった。


 一瞬、俺の背に緊張が走った。……が、よく見ると男性の風貌には見覚えがあった。


 深夜の病院で「プラント」のキャリアと一戦を交えた時、最後に寄生された人物、樫山だった。どうやら寄生の後遺症らしきものもなく、樫山は普通の外見に戻っていた。


 樫山は何かを千草にしきりに話しかけながら時折、背後に目をやった。何かを指で示しているところを見ると、どうも千草にどこかへ同伴してほしいと懇願しているようだった。


 当たり前だが千草は首を強く振ると、樫山を振り切って歩き出そうとした。俺はほっと胸をなでおろすと、部屋に戻った。


 窓の外では相変わらず大男がヤモリかクモのようにへばりつき、黙々作業を続けていた。

 俺が冷やかし半分にその様子を眺めていると、ふと大男の動きが止まった。


「なんだあ?」


 大男――柳原は唐突に声を上げると、首をねじ曲げて斜め下を見遣った。


 次の瞬間、柳原はやおら身体の向きを変えると、手すりを足掛かりに空中に飛びだした。


 俺は反射的に窓に駆け寄った。大きな音が響き、見ると柳原が物置の屋根の上で立ち上がろうとしていた。


「その人を、どうするつもりだあっ」


 叫んだ柳原の視線の先に、見覚えのあるミニバンと複数の男たちの姿があった。

ミニバンの窓からは、これまた見覚えのある人物――植草咲夜が顔を覗かせていた。


 ――あいつらか!


 俺も柳原に続く形で、窓から飛び出した。うまく物置の屋根に着地したつもりが、勢い余った俺の身体はみっともなく屋根から転げ落ちた。


 腰をしたたかに打ち、呻きながら起き上がった俺は、騒然としているバンの周辺を見た。すでに柳原は二、三人の男たちと派手な立ち回りを繰り広げていた。

 

 驚いたことに千草もまた、腕を捉えようとして近づいてきた賊の一人を、手首をつかんで器用に投げ飛ばしていた。

 格闘技の有段者という言葉はどうやら本物らしく、力を込めずに敵の攻撃を受け流す無駄のない体さばきは、なるほど経験者のそれだった。


「くそっ、埒があかない」


 賊の一人がポケットから小型の拳銃を取りだした。別の一人が「やめろ」と叫んだが、銃口はすでに柳原の眉間を捉えていた。賊の指が引鉄にかかり、柳原の目が大きく見開かれた。


「やあっ」


 次の瞬間、小気味よい掛け声とともに賊の身体が吹っ飛んでいた。千草の回し蹴りが見事に決まったのだった。柳原は一瞬、唖然とした後「やるじゃねえか」とほくそ笑んだ。


 だが、空気が和んだのは、ほんの一瞬だった。柳原が「ぐっ」と呻いたかと思うと、その場に崩れたのだった。地面に突っ伏した大男の背後から姿を現したのは、咲夜だった。


「どうしてこう、お馬鹿さんたちにてこずらされるのかしらね」


 咲夜は電撃系の武器らしい棒をくるくると回しながら、あきれたように言った。


 背後から千草の「柳原さん!」という叫びが飛んできた。俺は咄嗟に鞭を取りだすと、咲夜の両脚めがけて放った。油断していたのか、鞭はあっさりと咲夜のくるぶしを捉えていた。


「失敬、お嬢さん」


 俺は鞭を引いた。咲夜は「きゃっ」と悲鳴を上げ、後ろざまにひっくり返った。俺は咲夜に駆け寄ると、右手で首を絞め上げた。


「貴様っ」


 賊のリーダーらしき男が、忌々し気に俺を睨み付けた。俺は右手の「爪」を尖らせると、咲夜の頸動脈に押し当てた。こういうやり方は好みではないが、この際、致し方ない。


「おっと、おかしな動きをすると、姐さんがあの世に行くぜ。彼女を離すのと、お前たちのボスを離すのと、交換と行こうじゃないか」


 賊の動きが止まり、膠着状態となった。持久戦を覚悟したが、ほどなくどこかでパトカーのサイレンが鳴った。同時に咲夜が部下に目で何かを告げ、千草があっさりと解放された。千草は迷うことなく柳原の元に駆けた。さすがは看護師だと俺は思った。


「ようし、いい子たちだ。寄り道せずにおとなしく家に帰るんだぜ」


 俺は咲夜を解放した。義手に少しばかり力が入ったのか、咲夜はむせながらミニバンに乗り込んだ。アイドリングを始めた車内から、咲夜の捨て台詞が聞こえてきた。


「今日のことを必ず後悔させてやる、泉下」


「もう後悔してるさ。あんたたち「姉弟」に関わってしまったことをね」


 咲夜の目が糸のように細くなった。虚飾が剥がれ落ち、プライドがむき出しになったその顔を、俺は怖いとは思わなくなっていた。


 ミニバンは恨みがましい目線だけを残し、俺たちの前から去っていた。俺は柳原を介抱している千草に歩み寄った。柳原は千草の呼びかけにわずかに反応しているように見えた。


「何者なんです、あの人たち」


 千草の問いに俺は「悪の秘密組織さ」と短く答えた。それ以上のことは知らない。だが、命を弄ぶ奴らに対する俺の気持ちは、気が付くと「嫌悪」から「憎悪」へと変わっていた。


             〈第十四話に続く〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る