黄の世界、交錯する世界
二人の鬼塚
目を開けると、そこは時空間研究所の所長室だった。鬼塚はデスクの横に倒れていた。重い頭痛がしていた。
戻って来た?鬼塚は顔を上げ部屋を見回した。部屋の中は乱れ、何か争ったような形跡があった。開いているドアの向こうを見ると、トイレの壁にドアよりも大きな穴が開いていた。後ろを振り向くと、デスクの陰にブルーシートで何かを覆っていた。人の足が見えていた。
何があった?頭を押さえてゆっくり起き上がると、スタッフが数人、ドヤドヤと所長室に入って来た。
「鬼塚所長、大丈夫ですか。お怪我は」
「何があった」
「リキ、レン、ユキノが脱走したようです」
「脱走?……そこの穴は?」
「よく分からないのですが、どうやらトリップマシンがここにやってきて、リキたちを連れ去ったようなのです」
トリップマシン?人が乗れるトリップマシンがここにもあると言うのか。それに、リキ、レン、ユキノが脱走?三人はいつの間にここに戻って来たのだ。どうなっている。状況がまるで分からない。
「そうだ。仙道さんはどこに?ここに呼んできてくれないか」
「それが……仙道さんは、知らないトリッパーと消えてしまいました……」
知らないトリッパー?ますます訳が分からなかった。
「鬼塚所長、大変です!」
「どうした」
「高階さんが……」
ブルーシートで覆われていたのは高階だった。高階は意識が無かったが、かすかに息をしていた。スタッフが大急ぎで救急車を呼び、そのまま病院に搬送された。
鬼塚は嫌な気分だった。これらは全てもう一人の自分が引き起こしたことに違いない。もう一人の自分がここで何かをした。そのせいでこんなことになっているのだ。それらを紐解いていく必要がある。高階はきっと何かを知っているだろう。高階が意識を取り戻したら何が起きたのか分かるはずだ。
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目を開けると、そこは病室だった。鬼塚はすぐに状況を理解した。元の世界に戻ったのだ。刑務所の独房から病室に移されている。これはもう一人の自分がこっちに来たことが影響している。そう考えるのが自然だった。だとすると、この状況に乗ってしばらく大人しくしているのがいい。そして、もう一度向こうの世界に行くチャンスを伺う。チャンスは必ず来る。鬼塚はそれを確信していた。
鬼塚のチャンジャー発動のトリガーは強いストレスである。それは自分のではなく、別の世界にいる別の自分のストレスだ。時空を超えて強いストレスを感じ取り、その世界の自分とシンクロし、パラレルチェンジを発動する。もう一度向こうに行くには、向こうの自分が強いストレスにさらされればいい。鬼塚は向こうの世界にストレスの種を置いてきていた。元の世界に戻ったもう一人の自分は、今の状況を紐解く過程で前回よりもさらに強いストレスを感じることになる。そうすれば、もう一度向こうの世界に行くことができる。それを待てばいい。
鬼塚のチェンジャー能力には、少しやっかいな特性があった。大きな肉体的苦痛を感じると、元の世界に戻ってきてしまうのだ。次のチャンスでは、そこを十分に注意しなければならない。
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『ミルキーウェイのキムだが』
鬼塚に電話が掛かって来た。部下が言っていた、新しい取引先だろう。大きな取引をしていると聞いている。
「ミルキーウェイのキム様、いつもお世話になっております」
鬼塚はミルキーウェイのことは何も分かっていなかったが、話を合わせて応対することにした。
『堅苦しい挨拶は抜きだ。例の件、三日後だが大丈夫かね』
「例の件、とおっしゃいますと?」
鬼塚は戻ってからの数日、空白だった一ヶ月間を埋めるため、恥を承知で分からないことは全て聞き返すことにしていた。おかげで色々なことが分かって来たが、まだ取引先の一つ一つ全てを把握している訳ではなかった。
『例の件は例の件だよ。粉の件だ。他に何があると言うのかね』
「粉?粉を運ぶということですね。承知いたしました」
『鬼塚君?今日はいつもと様子が違うが。何かあったのかね?』
「……いえ、何も……」
『まあいい。三日後、よろしく頼むよ』
「かしこまりました」
ここに戻ってきてまだ数日。こういうやり取りは多々あった。しかし、部下たちに取り次いで何とかなっている。この電話の件も部下に取り次いでうまくやってもらおう。鬼塚はすぐに部下に電話を掛けた。
「鬼塚だが。ミルキーウェイという会社から、三日後にお願いしたいと電話が来た。対応してくれるかな」
『鬼塚所長、ミルキーウェイの件は、いつも所長が直接対応されていたので、我々では分からないのですが……』
「直接?トリップマシンを私が操作していたと」
『ええ、そうですが』
そんなことがあるだろうか。自分が直接トリップマシンを操作する理由がない。大きな取引先なら尚のこと、万全を期して部下たちに任せるのが筋だろう。何か裏がある。パソコンのデータに何か無いだろうか。鬼塚は、パソコンの中を調べてみたがそれらしいものは見つからなかった。
そこへ、電話が掛かって来た。高階が意識を取り戻したという連絡だった。高階はもしかしたら何か知っているかも知れない。それに、事件のことも気になる。鬼塚は高階が入院している病院に向かった。
鬼塚が病室を訪れると、高階は明らかに怯えていた。
「高階君、無事で良かった。早速で悪いが、何があったか話してくれないか」
高階は怯えた顔で黙っていた。鬼塚は察した。高階は殺人犯の鬼塚が来たと思っているのだ。
「そうか。私は元の鬼塚だよ。実は、この一ヶ月間、別の自分と入れ替わっていたのだ。それで、この一ヶ月で何が起きたのかをみんなに聞いて回っているところなのだよ」
高階は驚いた。しかし、そうかも知れない。それならば合点が行く、という表情で口を開いた。
「入れ替わっていた?……それは、どういうこと?」
「この一ヶ月間、私は別の世界に行っていた。そこでは、私は殺人犯だった。つまり、殺人犯の私がこっちに来ていたのだよ」
高階は、この一ヶ月、鬼塚は急に様子がおかしくなり、狂気的な行動をするようになっていたことを思い出していた。それはプレッシャーがもたらした精神的なものだと思っていた。でも違ったのだ。そもそも別の鬼塚だったとしたら、それは納得のいくものだった。プロを雇ってのトリッパー捕獲、毒入りブレスレット、違法ドラッグの密売、自分を殺そうとしたこと。あれは全て別人の仕業なのだ。
「じゃあ……所長は、私に何をしたかを知らないのですね?……」
「やっぱり何かあったのだね。教えて欲しい。重要なことなのだ」
高階は言うべきかどうか迷っているようだった。しばらく沈黙していたが、意を決して話し始めた。
「鬼塚所長、もう一人のあなたは私を殺そうとしたのです」
やっぱり。鬼塚は驚かなかった。もう一人の自分は連続殺人犯だ。やはりそういうことだったのだ。
「なぜ、君を殺そうとしたのだろうか?」
「それは……私が立聞きをしてしまったからです」
「何を」
「ミルキーウェイのキムさんとの会話です」
ミルキーウェイだ。つながった。
「所長は、ミルキーウェイが違法ドラッグの密売を……パラレルワールドにばらまこうとしているのを手伝っていたのです」
「違法ドラッグを?」
そうだったのか。さっきの電話は違法ドラッグを運ぶという話だったのか。それで、スタッフの誰にも伝えず、自分でトリップマシンを操作していたのだ。鬼塚は最悪の事態では無いと思った。スタッフも巻き込んで時空間研究所全体で違法ドラッグ密売に関わっていたら大変なことだった。これは不幸中の幸いなのだろう。それにしても、もう一人の自分はとても危険だ。
鬼塚は、高階からこの一ヶ月に起きた出来事を詳しく聞き出した。三人のトリッパーが戻って来たこと。仙道は鬼塚に造反して、別のパラレルワールドでトリップマシンを開発したこと。仙道はそれを使って三人のトリッパーを脱出させようとしていたこと。そして、高階は殺されかけたこと。
鬼塚は、白のアンカーにいるという鬼塚造反組と連絡を取ることにした。殺人犯の鬼塚のことを伝える必要があると思ったからだ。
そして、やっかいなのは違法ドラッグの密売の後始末をどうつけるかだった。何もしなければ、三日後にはドラッグがパラレルワールドにばらまかれる。まずはこれを解決するのが優先だ。
翌日、高階を通じて鬼塚造反組に連絡を取り、病院に来てもらった。
「高階さん、無事だったんですね」
ショウが高階のベッドに駆け寄った。白のシゲ、仙道、リキ、レン、ユキノも来ていた。
「ええ、なんとか。所長……いえ、悪い方の鬼塚に毒を注射された後、気を失ったんですけど、ブルーシートを被せられた時に意識が戻って、解毒剤を打ったんです。ギリギリだったみたいです。怖かった……」
高階は涙ぐんで震えていた。無理もない。一瞬、死の淵を彷徨ったのだ。
「本当に良かった。あの時、ブルーシートに隠れていた君を助けられなくて、あれが高階君だったらどうしようと、ずっと胸が苦しかった。助かって良かった」
仙道は高階の肩に手を置いた。高階は泣きながら嬉しそうだった。
「みんな、聞いてくれないか」
鬼塚が話し出した。
「私はこの一ヶ月、もう一人の自分と入れ替わって違う世界に行っていた。もう一人の自分は、連続殺人犯だった。私は刑務所にいたのだ」
「連続殺人犯?」
「そうだ。この一ヶ月、殺人犯の私がこの研究所の指揮を執っていたことになる」
皆がそれぞれに顔を見合わせた。仙道が真剣な顔で切り出した。
「それなら理解できる。ここ一ヶ月近く、確かにお前はおかしかった。行動や言動が狂気じみていた。じゃあ、もう一人のお前はチェンジャーなのか」
「そのようだ。それに、ミルキーウェイという企業と組んで、パラレルワールドへの違法ドラッグの密売を計画しているらしいのだ」
「違法ドラッグ?」
「そうだ。高階君は、それを聞いてしまったために殺され掛けたのだ」
「ひでえ奴だ」
リキが手の平に拳を打ち付けて怒りを顕にした。鬼塚は話を続けた。
「とにかく、ドラッグの密売は阻止する。問題はミルキーウェイがどんな奴らか分からないことだ。下手をすると、我々はもうここで研究ができなくなるかも知れない」
「確かに。こんなことが公になったら、研究所は潰される。何か上手い方法は無いだろうか」
仙道の言葉に、皆口々に意見を述べ始めた。
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長峰は時空間研究所が違法ドラッグの密売をしているという情報を掴んでいた。しかも、パラレルワールドへの密売だ。証拠は何も無い。見つけることも難しい。しかし、これは鬼塚に会うための口実になる。そう思っていた。
長峰はあの日以来、鬼塚に心惹かれていた。生まれて初めて、自分に強引に接する男が現れた。悔しい思いでいっぱいになり、その感情が鬼塚を毎日意識することになっていた。そしてそれが心地よく、苦しく、複雑な感情に変化していった。理由は何でもいい。会いに行きたいと思っていた。
長峰は、重要な情報を手に入れたと、時空間研究所を訪れていた。
「長峰さん、お久しぶりですね」
鬼塚の反応は拍子抜けだった。あのときの感情の無い表情とは全く違って、逆に好意を感じさせる表情だった。長峰はどう切り出したらいいか分からなかった。
「もしかすると、久しぶりでは無かった……でしたか」
鬼塚のセリフは意味不明だったが、そんなことを気にしていてもしょうがなかった。
「鬼塚さんは、私のことをどう思っているんですか」
長峰は、しまった、と思った。これでは優位に立てない。冷静でいたつもりでも、心は焦っていたのだと思った。
「どう?と言いますと?」
鬼塚は訳が分からないという顔をしている。一瞬間が開いて、ああそうか、という顔になった。鬼塚のその反応で、長峰は自分の心臓が大きくなったような気がして胸を押さえた。胸が痛かった。鬼塚が少しすまなそうな表情で言った。
「あなたは、私に好意があるのでしょうか」
違う。長峰の中で何かが弾けた。唇を奪ったのは鬼塚だ。それなのに「好意があるのでしょうか」とはいったい何だ。しかもこの弱腰な物言いは何なのだろう。あの強引でクールな鬼塚はどこに消えてしまったのだ。この話はもう終りだ。
「鬼塚所長、ミルキーウェイとの関係について話を伺いに来ました」
急な展開に鬼塚は目を丸くした。
「どこでその話を……」
「どこでもいいでしょう。これを読んでください」
長峰は、A4で十枚程度の原稿をデスクに放り投げた。
「これは……」
そこには、時空間研究所とミルキーウェイの関係が詳細に書かれていた。鬼塚が知りたかった情報が全て詰まっていた。
「これはすごい」
「何を他人事のように。私はこれを発表するつもりです。どうしてこんなことをしたんですか。パラレルワールドの実験は素晴らしいものです。どうしてこんなことに使ったんですか。がっかりですよ。私はこれを世に出そうと考えています。そうしたら、あなたはもう終りです」
長峰は、裁判で罪を追求するかのような態度を取った。鬼塚は焦った。この情報は鬼塚が知りたかったことだが、これを世に出させたらまずい。そもそもこれは自分が起こしたことでは無いのだ。それを長峰に理解させなければならなかった。
「長峰君、聞いてくれ。違うのだ」
「何がですか?これは綿密な調査の上の記事なんです。間違いなんて無いんです」
「そういうことでは無いのだ。信じられないかも知れないが、ミルキーウェイとの関係を作ったのは私では無い。違う私なのだ」
長峰には、鬼塚がでたらめに言い逃れをしているかのように見えていた。長峰の中で怒りの感情が大きく膨らんでいた。
「はあ?何それ。意味分かんない。違う私?何それ」
「とにかく冷静になってくれないか」
「私は冷静です!」
「私では無いのだよ。パラレルワールドの別の自分の仕業なのだ」
鬼塚の言葉は、長峰の感情をいちいち刺激した。こいつは逃げようとしている。逃がさない。
「何を言ってるの?そうなの、じゃあ、私にキスしたのも別の自分って言うのね。だからさっきから訳が分かりませんみたいな顔してるのね。最低だわ」
「キス?私が?」
「もういいわ。とにかく、この記事はすぐにでも世に出します。覚悟しなさい」
長峰はバタンと強くドアを閉めて所長室を出て行った。
ダメだ。記事を発表されるのはまずい。いや、その前に三日後に違法ドラッグの密売がある。それを止めなければ。いや、密売を止められても記事が出ては終りだ。もう研究を進めることができなくなる。長峰を止めなければ。長峰にキスした?どうしてそうなる。余計なことをしてくれる。あんな感情的になっている長峰をどうやって止める。ああ、何とかしなければ。
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病室で鬼塚はくっくっと笑った。
「来た。捕まえましたよ」
次の瞬間、鬼塚は時空間研究所の所長室にいた。
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「鬼塚です。キムさんですね」
鬼塚はキムに電話を掛けた。
「……さきほど?ああ、失礼しました。あれは私の影武者みたいなもので、私では無いのです。……ええ、問題ありません……三日後。承知しました……それと、向こうの世界の組織化ですが。今回のトリップを機にキックオフします……ええ、面白くなりますよ。それでは」
鬼塚は電話を切り、くっくっと笑った。
「さて、これからが本番です」
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