黄の世界
救出作戦決行
鬼塚はしびれを切らしていた。あれから一ヶ月。リキは、レンとユキノの訓練が終わっていないからと言って、一向に新しいパラレルワールドを探しに行こうとしなかった。
鬼塚は、この一ヶ月で新しいパートナーを見つけていた。これまでの企業よりずっと金払いが良く、儲かるビジネスをしていた。その代わり、要求はずっと厳しく、新しいパラレルワールドが見つけられなければ要求を満たせなくなっていた。
「鬼塚所長、外線からお電話です」
所長室で高階が電話を取った。座標を測定に来ていた高階は、鬼塚に呼ばれ所長室に来ていたのだ。リキたちの部屋に入る前に鬼塚に声をかけられ、そのまま所長室に来てしまっていた。リキたちに作戦を伝えることも、座標を測定することもできていなかった。
「誰からです?」
「ミルキーウェイのキムさんという方です」
鬼塚の顔が曇った。
「分かりました。すみませんが、席を外してください」
高階は、失礼します、と言って部屋を出た。部屋を出る寸前、粉の件ですね、と聞こえて来た。
粉?いったい何だろう。高階は、ドアに聞き耳を立てることにした。良く聞き取れないが、新しいパートナーのようだ。積荷の運搬の予定を確認しているように聞こえた。
「……ドラッグ……トリップ……」
ドラッグ?今、ドラッグと聞こえたような。高階はドアにぴったりと耳を当てて神経を集中した。その瞬間、ドアが軽くなり、鬼塚が部屋から出て来た。
「高階君、ここで何を」
高階は焦った。電話の内容はほとんど何も聞き取れてなかったが、電話の内容に触れてはいけないと本能的に思った。
「わ、忘れ物を取りに……」
余りに芸のない答えだった。しかし、言ってしまったらしょうがない。ケータイ、ケータイ、と言いながら部屋に入り、ポケットにありました、と言って部屋を出て来た。鬼塚の顔を見る余裕など無かった。そそくさと早足で廊下を歩き、女子トイレに逃げ込んだ。鬼塚は会話を聞かれたと思っただろう。そして、それはとてもまずいことだろうと思えた。
鬼塚所長は違法ドラッグに手を出しているのか。パラレルワールドにドラッグをばらまこうとしているのか。高階は、スマホから所内のデータベースにアクセスした。ミルキーウェイなんて会社は登録されてなかった。情報が無さ過ぎだ。しかし、このことを仙道に伝えなくてはいけない。きっと何か良くないことが起きているのだ。
高階はここをすぐに離れるべきだと思った。しかし、廊下に出て鬼塚がいたらと思うとトイレから出て行けなかった。出て行けないなら誰かに連絡すべきだと思った。リキたちの部屋の座標は計測できていないが、何も無いよりはましだと、トイレの座標を測定し、それを黄色のバー・アンカーのシゲさんに送り、すぐさま電話を掛けた。
「シゲさん、まずいことになりました。鬼塚所長がどうやら違法ドラッグの密売をしているようなんです。それを立ち聞きしてしまって」
高階は焦っていた。こんなところで電話をしたのはまずかったかも知れない。声を聞かれて誰かが気づいてしまったかも知れない。と、そのときドアが開き、鬼塚が入って来た。高階の腕に小さな痛みが走った。
「いけませんねぇ。それはトップシークレットなんですよ。内部からの情報漏洩は厳しく罰しなければなりませんね」
高階は痛みの走った腕を見た。鬼塚が注射器で何かを注入していた。そして、高階はそのまま意識を失い倒れてしまった。
鬼塚は、高階のスマホを拾い電話の相手を確認した。
「アンカー、シゲ。漏洩先はここですね」
鬼塚はくっくっと笑い、トイレから高階を引きずり出し、所長室に運び込んだ。そして、荷物搬出用のブルーシートを被せて、デスクの陰に隠した。
────────────────────
黄色のバー・アンカーで、シゲとショウはかなり状況が悪いと想像していた。会話の内容と電話の切れ方、そして聞こえて来た男の声から察するに、高階は捕まったか殺されたかに違いなかった。そしてここもすぐに危険な状態になるだろう。すぐにでも、高階が送って来た座標データを白の世界に持っていかなければならなかった。元々の作戦では、高階がデータを持ち帰り、ショウが高階を連れて白の世界に戻る予定だった。しかし、高階はきっと戻って来れない。
「シゲさん、高階さんがやばいって?」
「多分捕まってしまったのでしょうな。ここもすぐに危なくなりますな。私も連れて翔んでください」
「了解。じゃあ、行きましょう」
カララン。
ショウが言い終わるや否や、ドアが開いて黒服の男が三人入って来た。素早い動きでシゲに襲い掛かって来た。
「翔んで!」
シゲさんが叫んだ。ショウはシゲの腕を掴み、こめかみに指を当ててトリップを発動した。間一髪だった。
黒服の男は、すぐさま耳に仕込んだイヤホンマイクで鬼塚に報告をした。
「鬼塚さん、逃げられました。……ええ、知らないトリッパーがシゲを連れて翔びました」
鬼塚は笑っていた。
「そうですか、トリッパーですか。それはいいお話ですね」
鬼塚はくっくっと笑ってリキたちの部屋に向かった。
────────────────────
「リキ君」
鬼塚がリキたちの部屋に入って来た。リキたちはイメージトレーニングの最中だった。
「調子はどうですか?」
鬼塚の問いに、リキはまだまだです、と答えた。だが、リキたちはかなりいい状態になっていた。リキはレンとユキノを連れて、時空間研究所が把握している赤、青の世界の時空間研究所に何度も翔び、能力を高めていた。翔ぶと言っても自由はなく、事前に申請した場所──つまりは時空間研究所内だけ──に翔ぶだけで外出も許されなかった。神経毒の入ったブレスレットと、そこに仕込まれたセンサーは、リキたちに恐怖を与え、行動を制限するのに絶大な力を発揮していた。
それでもトレーニングは順調だった。ユキノは相変わらず力が弱かったが、レンはもう自在に翔べると言っても良いほどだった。しかし、新しいパラレルワールドに翔びたくないリキは、それを鬼塚には言わなかった。
「そうですか。翔べませんか。では、そろそろ用無しですかね」
鬼塚はドアの方を向いて小さくそう言い、部屋を出て行った。
リキにもそれは聞こえていた。そろそろまずいかも知れない。新しいパラレルワールドを見つけるか、それとも逃げ出すか、行動に移さないといけないと思った。しかし、逃げ出すには方策が無さ過ぎた。レンは翔べるようになっていたが、このまま翔んでも、ブレスレットのセンサーで捕捉されて、殺されてしまうだろう。なんとかブレスレットを外すか、センサーが働かないところに逃げるかしかない。しかし、いい考えは浮かばなかった。
────────────────────
仙道が所長室をノックした。返事は無かった。仙道は鬼塚を引きつけておかなければならなかった。所長室に鬼塚がいないなら、見つけなければならない。
「仙道さん、どうしました」
鬼塚が背後から声を掛けて来た。振り向くと、鬼塚は全身からぞっとする空気をまとい冷たい顔をしていた。こういうのを殺気と言うのだろうか。前とは完全に別人になっているように思えた。どうしたらこんなに変わってしまうのだろうか。こいつは本当に鬼塚なんだろうか。
「どうしました。話があるなら部屋に入りましょう」
仙道は躊躇した。鬼塚を引きつけておかなければならないが、鬼塚の側にいるのが怖かった。
「入ってください」
仙道は部屋に入った。作戦は進行している。自分の役目を遂行しなければならなかった。
「仙道さん、その紙袋は何です?」
鬼塚は、仙道の持っている紙袋を見ていった。ここには黒い錨のミニチュアが入っていた。ショウがここへ翔んで来るためのアンカーである。これをこの部屋のどこかに置き、そのイメージ、つまり写真を白の世界に送らなければならなかった。
「鬼塚、お土産だ」
仙道は袋から黒のアンカーを取り出し、応接テーブルに置いた。鬼塚のデスクにはリキの部屋を見るためのモニターがある。鬼塚をモニターが見えないところに引き止める必要があった。
「仙道さん、ちょこちょこ休んでましたからね。海にでも行ってたのですか。それにしてもアンカーとは面白い」
「そうだろう。トリップの研究所の所長室にピッタリだろう。こっちに来て見てみろよ」
鬼塚は面倒そうな顔をしながら、こちらにやって来た。ここまでは成功だ。後はデスクに戻らないように話を続けなければならない。
「鬼塚、写真取ろうぜ。このアンカーを囲んでさ」
鬼塚は怪訝そうな顔になった。怪しまれてもしょうがない。作戦を遂行するためには多少強引でも仕方がないのだ。
「ほら、こっちに座って」
仙道は鬼塚を無理やりソファに座らせ、スマホを向かいのソファに置いてタイマーをセットした。あの角度から取れば、部屋の全景にアンカーが写り込んだ写真になるはずだ。それを白の世界に送れば良い。仙道のスマホはパラレルワールド間のデータ転送ができる特別製だ。
「鬼塚、いい写真が撮れたよ。送るからアドレス教えてくれ」
本当は鬼塚のプライベートのメールアドレスは知っていた。写真を白の世界に送っても怪しまれないために、スマホを操作する動作をしたかっただけだった。
「仙道さん、我々はお互いメールアドレスを知らない仲なんですか?」
鬼塚が不思議な聞き方をした。ここは、メールアドレス知ってるだろ、と聞いて来るのが自然だった。二人の関係を確かめるような聞き方は違和感があった。
「あ、ああ、ごめん、知ってるよ。写真送るな」
仙道は白の世界と鬼塚にメールを送った。これで準備は完了だ。後は鬼塚と何か話をしてデスクに戻らせなければいいのだ。
そのとき、鬼塚が仙道の手首を両手で握って来た。カチッと音がした。
「仙道さん、あなた怪し過ぎます。何か企んでますね」
仙道の手首にあのブレスレットが着いていた。仙道は青ざめた。声も出なかった。
「さあ、話してください。そうしないと死んじゃいますよ」
鬼塚はまたいつものようにくっくっと笑っていた。仙道は動けなかった。かと言って作戦を教える訳にもいかない。自分の荒い息と早鐘のような心臓の音が部屋中に響いているかのようだった。
そのとき、仙道のスマホがブーンと鳴った。目を落とすと、「まずいことになりました。高階さんが鬼塚に捕まりました。鬼塚は違法ドラッグの密売をしています」と書いてあった。
違法ドラッグ?トリップマシンを使って密売をしているということか?怒りが沸き上がって来た。そんなことのために俺はトリップマシンを開発したんじゃない。鬼塚の考えた素晴らしいビジネスをサポートしたかったからだ。そして行方不明になっているトリッパーたちを見つけ出して、ビジネスを盛り上げたかったからだ。それが違法ドラッグ?どういうことだ!
「鬼塚!お前、何をしている。ドラッグに手を出しているのか!高階はどうした!」
叫んでいた。怒りで涙が出そうだった。鬼塚の顔から笑みが消え、目を細めて言った。
「仙道さん、やっぱりそういうことでしたか。それは知ってはいけないことなのですよ。残念ですね」
鬼塚は胸ポケットに手を入れ、ブレスレットのコントローラーを取り出した。仙道は血の気が引くのを感じた。あれを押されたら終わりだ。
「さようなら、仙道さん」
ドカーン。
鬼塚がコントローラーのスイッチに指を掛けた瞬間、地響きとともに爆発音がした。部屋の外からだった。鬼塚は一瞬爆発に気を取られた。その隙を逃さず、仙道は鬼塚のコントローラーに向かって体当たりをした。二人はもつれてデスクに倒れこんだ。鬼塚は倒れた拍子に頭をデスクに打ち付け、コントローラーが床に転がった。
「う……ううん……」
鬼塚は気を失っていた。仙道は、その隙にコントローラーを拾い上げた。デスクの後ろにブルーシートが見えた。誰かの足が見えていた。
ガチャ。
ドアが開いて、誰か入って来た。シゲだ。
「白の……シゲさん?」
「そうだ。助けに来た。逃げますぞ」
ドアの向こう、トイレの壁が壊れてトリップマシンが見えていた。
「トリップマシン?なぜトイレに?」
「高階さんが送って来た座標に翔んだだけですな。高階さんが追い詰められてトイレの座標を送ったんでしょうな」
「高階は?」
「それが……どこにも……」
「高階……」
廊下から人の声がした。足音も聞こえてきた。さっきの爆発音でスタッフが集まって来る。
「残念ですが、ここは一旦逃げますよ。リキたちを救出しませんとな」
「……分かりました……」
「トリップマシンは四人乗りですから、私がリキたち三人を回収しますからな。仙道さんはショウさんが来るのを待ってください」
「もう来てます」
所長室にショウが立っていた。
「仙道さん、逃げますよ。翔びます」
ショウは、仙道の腕を掴んでトリップを発動した。仙道は、翔ぶ直前にブルーシートから女性の足が出ているのを見た。
「ショウ、待て……」
仙道が声を上げた時には、すでに二人は翔んでいた。
脱出は成功した。しかし、高階は戻って来なかった。仙道は、ブルーシートの下を確認できなかったことを悔やんでいた。
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