金の世界
金のアンカー
そうさ、俺は大学三年の時に、アキラ社長と同じことを考えていた。その時に、俺が今のビジネスを立ち上げていたら?そしたらその会社は、アキラ社長のコズミックファーストの最大のライバル企業に成長しているはずだ。そして、アキラ社長と意気投合して、俺たちの新しい市場を拡大するために協力するのだ。二つの会社は、業界のリーダーとして切磋琢磨し、業界を引っ張っていく存在になる。そして俺はコズミックファースト社を訪れるようになり、受付のメグミに一目惚れし、その場で交際を申し込むのだ。メグミは俺の積極さと、普通とは違う魅力に惹かれていく。俺は毎日のように彼女にアプローチし、ついに彼女を射止めるのだ。
俺の頭の中は、メグミを射止めた妄想でいっぱいになっていた。それはとてもリアルに描き出されていた。
俺たち二人は、行きつけのバー・アンカーで仲良くシャンパングラスを傾ける。付き合って三年目の記念に、二人で着飾って、いつものここを訪れていた。俺は今日、指輪を渡すつもりなのだ。
俺は二十五歳。彼女は二十三歳。まだ二人とも若いが、付き合って三年、そろそろいい頃だし、事業も順調に伸びている。より大きなチャレンジをしていくためにも、生活の基盤を安定させておきたいと思うのだ。それよりも何よりも、ライバル会社の受付にメグミを座らせ続けておくことが不安でたまらない。アキラ社長もいい男だし、業界にも魅力的な男がウジャウジャいて、日々コズミックファースト社を訪れている。これ以上、狼たちの視線にさらしておく訳には行かないのだ。
「メグミ、今日は渡したいものがあるんだ」
「何?あらたまって」
上着の右の外ポケットに手を入れる。よし大丈夫だ。指輪のケースはちゃんとある。
「メグミ」
取り出そうとしたが、ケースが引っ掛かって出て来ない。慌てた俺は、シャンパングラスに肘を当ててしまった。倒れるシャンパングラス。シャンパンが手に掛かる。冷たい。
ハッと我に返った。俺は何を妄想に浸ってるんだ。情けない。現実に戻るのだ。
心を落ち着かせ、一度目を閉じ、深呼吸する。そしてゆっくり目を開けた。
袖が濡れていた。現実でもグラスを倒してしまったのだろう。全く動揺し過ぎだ。自分に失望する。腕時計の針は十九時半を指そうとしていた。
腕時計の針?
腕時計が違う。俺のはスマートウオッチ。デジタル表示だ。でも今着けているのはゼニスのクロノグラフ。ずっと前から欲しかったやつだ。こんな高級時計、何で俺がしてるんだ。よく見ると、スーツも違う。身体を触って確認する。触り心地がまるで違う。これも高級だ。
「ショウ、どうしたの?大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。メグミも……」
メグミを見た。メグミの服が違う。妄想の中でメグミが着ていたドレスを着ている。まだ妄想の中なのか?いや違う。こんなリアルな妄想がある訳がない。これは現実だ。おかしい。何かおかしい。
「メグミ、もしかして着替えた?」
恐る恐る聞いてみる。
「何言ってるの。そんな訳無いでしょ」
そりゃそうだ。誰がバーに来るのに着替えを持って来るだろう。
もう一つ気付いた。メグミの向こうの席が空席になっている。タクトはどこへ行ったんだ。それから、さっきはいなかった短髪の細マッチョな男が、その向こう、一番奥の席に座っている。いつからあの男はあそこにいたんだ。
「メグミ、タクトは?」
「タクト?誰のこと?」
不思議そうな顔で聞き返すメグミ。
「開発部のタクトだよ。さっき一緒にここに来ただろ」
メグミはさらにびっくりした顔になる。
「え?開発部のタクトって、うちの開発部の諸星タクト?来る訳無いじゃない。それに、ショウは何でタクトを知ってるの?」
タクトは来ていない?そんな馬鹿な。しかも俺はタクトを知らないだって?
何が起きている。さっぱり分からない。店の中を見回す。マスターはさっきと同じようにカウンターの中にいる。カウンター、壁、並んでるお酒、何も変わってない。店の入り口のミニチュアの錨もちゃんと同じ場所にある。
いや、違う。目を疑った。色が違う。ミニチュアの錨の色が金色だ。俺の知っているのは銀色、これじゃない。照明のせいでもない。これは金色だ。
マスターは?マスターはこの異変に気付いてないのか?
「マスター、この錨、さっきまで銀色でしたよね。銀色でしたよね」
そうだと言って欲しい。そうだと言ってくれ。
俺はおかしくなってしまったのか。すがるような気持ちでマスターの答えを待つ。これはきっと何かのサプライズで、ここでマスターが種明かしをするのだ。いつものにこやかな調子で「ショウさん、騙されましたな」とか言うに決まってる。
しかし、マスターの言葉は、俺の期待とは全く違うものだった。
「ショウさん、あなた今、銀の
〝銀のアンカーから翔んで来た〟
何の話をしているんだ。銀のアンカー?じゃあ、ここは金のアンカーだとでも言うのか。俺は今、さっきとは違う場所にいるというのか?
マスターは何か知ってる。今、何が起きているか分かってるんだ。
メグミはおしぼりでテーブルを拭いていた。
「それで?渡したいものって何なの?」
いたずらそうないつもの顔で、上目遣いに俺を覗き込むメグミ。
そうだ。何かをポケットから取り出そうとしていた。上着の外ポケットを確認した。指輪のケースだ。変な汗が出た。これをどうすればいいんだ。渡していいのか。でも中に何が入ってるか知らないじゃないか。もしダイヤの指輪とか出て来たらどうするんだ。結婚してくださいとでも言うのか。ダメだ。渡せない。そうだ、家に忘れて来たことにするしかない。
「ご、ごめん、ポケットに入れて来たつもりだったんだけど、家に置いてきちゃったみたいなんだ。今度渡すよ。ホントごめん」
「何だ、つまらない。記念日のお祝い?それとも……」
メグミは、またいたずらそうな目をした。
〝それとも〟の意味が分からない。分からない。分からない。
「いや、今度ね。今度。その時に説明するから。ね」
ダメだ。これ以上は会話を続けられない。とにかく、事情を知ってるマスターと話をしなくては。そのためにはメグミに家に帰ってもらわないといけない。どうしたらいい。今日は記念日みたいだし、ただ帰れと言ったら理由を説明できない。
そうだ、仕事で部長に呼び出されたことにしよう。ケータイに電話が掛かって来たフリをすればいい。
スーツを弄ると、左の胸ポケットにスマホらしきものが手に当たった。よし、これでいこう。
「もしもし……はい……え?そうなんですか?……分かりました、すぐ戻ります」
俺は電話が掛かって来た振りをした。メグミが不安そうに覗き込んで来た。
「何かあったの?」
「江上部長が至急戻ってこいって言うんだよ。仕方ない。会社に戻るよ」
「江上部長?うちの?」
「そう、営業一部の江上部長」
メグミはまた不思議そうな顔をしている。
「何でうちの江上部長が、ユニバーサルビートの社長のあなたに直接電話掛けて来るの?」
理解の限界を超えていた。俺が社長?ユニバーサルビートなんて会社知らないぞ。
ダメだ。もうダメだ。何が何だか全く分からない。理由なんてどうでもいい。メグミには退場してもらおう……
「ごめん、メグミ、訳は言えないが緊急事態なんだ。何も言わず、今日は帰って欲しい。この穴埋めは必ずする」
俺は、手を合わせてメグミに頭を下げた。メグミは少し黙って、悲しそうな顔をしたが、すぐに口元だけ笑顔を作って口を開けた。
「ショウ、あなたがそんな風に言うなんてよっぽどのことなのね。分かりました。帰ります」
メグミはあっさりと腰を上げた。そしてこう言った。
「鍵は掛けちゃうけど大丈夫よね。自分の鍵、ちゃんと持ってるわよね」
身体中に変な汗が吹き出て来た。
俺はメグミと一緒に住んでいるのか!
両手が震えて来た。怖い。泣きそうだ。
メグミは寂しそうに小さく手を振って店を出て行った。俺は呆然としていた。しばらくしたら、メグミがまた戻ってきて、「ドッキリでしたー」なんて言うかも知れないと期待したが、どうやらそんなことにはならないらしい。
目を閉じ、大きく深呼吸して、そして急いで店を出てメグミを追った。
俺は諦めた。辻褄が合わなくなるが、メグミと一緒に帰ることにした。
一緒に住んでいるなら、結局後でそこに帰らないといけない。でも俺はどこに住んでいるか知らない。それどころか、きっと俺が知っていること、分かっていることは何も無いんだと思う。
ここは俺の住んでいた世界と違う。
マスターが言ってた「翔んで来た」というのはそういうことだ。
俺は違う世界からこの世界に翔んできてしまったのだ。
だったら、この世界の俺のことをきちんと知っておく必要がある。メグミとの関係のこと、社長であること。それには、この世界で俺の一番近くにいるのであろうメグミと一緒にいるのが一番いい。メグミと離れてしまったらもっと面倒なことが起こる。
俺はメグミと一緒にタクシーに乗り込んだ。
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