銀のアンカー
バー・アンカー。西新橋の古びたビルの二階にあるこの店は、ビルの外からは一見しただけでは分からない隠れ家的な存在だ。
ビルの正面にある階段を上がると、一番奥、手前から三つ目のドアに、─Bar Anker─と書かれた木彫りの看板が下がっているのでそれと分かるが、ビルには看板がなく、並びのビルや、同じビル内にも飲食店などは無く、ここにバーを探して入って来る人など、まずいないだろう。
なぜこの店を見つけられたかというと、メグミとタクトと三人で三次会の店を探していた時、このビルから出て来たアンカーのマスターに声を掛けたからだ。
マスターは、白いシャツに黒のズボン、黒のベストに黒の腰エプロンで、いかにもバーのマスターという風情だった。年の頃は六十くらい。いや、六十五くらいか。グレーの短髪にグレーの口髭と顎髭、ロマンスグレーというやつだろうか。あまりにも彼の雰囲気が良かったので、マスターの店に寄らせてよ、と声を掛けたのだった。
俺たち三人は、それ以来、待ち合わせというとこの店を使っている。言わば常連だ。
店に入ると、カウンターの端に、高さ三十センチくらいの銀色の
店はクラシックなウッドテイストで、カウンターが五席だけの小さな店だ。それでもカウンター内の棚に置かれたセンスの良い酒類の並びと、絶妙な照明の加減で、狭さを感じない落ち着いた店だ。
カウンターには、一輪挿しが二つ置かれ、季節の花が日替わりで飾ってある。今日は紫色の小さな花が飾ってあった。
「今日はお一人かな」
優しく柔らかい雰囲気でマスターが声を掛けてくれた。ここはいつ来ても落ち着く。包まれるような温かい空気感がとても心地良い。カウンターの手前から二番目の席に座り、マスターが手渡してくれたおしぼりで手を拭く。
「メグミと待ち合わせなんです。ちょっと早く着いちゃいました」
「何か飲みますかな?それとも待ちますかな?」
スマートウォッチをタップして時間を見た。デジタルの表示が─18:50─を示していた。時間に正確なメグミのことだから、あと五分もすればやって来るだろう。彼女はマイペースだが、待ち合わせにはきちんとやって来るのだ。
俺はいつもはビールかハイボールなんだが、いつもと全く違うものを頼むのはどうだろうか。メグミはそれを見て「あら、今日はいつもと違うのね。何かあったの?」と聞いて来る。そしたら「仕事で問題があって、気持ちだけでも高めたいと思ってね」なんて感じで、愚痴を切り出していくのはどうだろう。
「マスター、マティーニとか?どうですかね」
「珍しいですな。何かありましたかな?」
「仕事で問題があって、気持ちだけでも高めようと思って」
思わず、さっき思いついたシナリオ通りに返してしまった。マスターに言ってどうする。これじゃあ、メグミに同じこと言ったら間抜けだ。しかし、こういう時に限って、マスターは得意の優しさで攻めて来る。
「私で良かったら、話を聞きますよ。年寄りはそういうの得意ですからな」
マスターのそういうところは大好きだ。でも今日はダメなのだ。
「いや、大丈夫大丈夫。今日は大丈夫です」
おかしいくらいに慌ててしまっている。
「そうですか?じゃあ、話したくなったらいつでも聞きますからな」
マスター、ありがとう。でもこれは後でメグミに話します。それを陰で笑って聞いていてください。
マスターは、逆三角形の足の長いグラスを冷蔵庫から取り出し、カウンターにそっと置いた。白く曇ったグラスは、程よく冷やされているのが分かる。ジンと、よく分からないお酒のビンを取り出し、さっと計量の器具で測り、氷の入った、ビーカーがおしゃれになったようなガラスの器に注ぎ入れた。それを優しく小気味良いテンポで柄の長いスプーンをくるくる回しながらかき混ぜ、銀の蓋のようなものをしてグラスにそっと注いだ。そしてオリーブを沈め、最後にレモンの皮を空中で霧のように絞って振り掛けた。
「マスター、カクテル作るのってカッコいいですね。もっと覚えてみようかな」
俺はカクテルなんて滅多に頼んだことなかった。いつも同じようにビールかハイボール。だから、マスターの後ろに並んでいる美しい酒瓶も、綺麗だと思うだけでほとんど分からない。それでも、マスターがカクテルを作る所作は美しく思えた。もっと色々試してみるべきなんだろうな。
「いいことです。人生は一度きりですからな。色々挑戦しないともったいない」
マスターは俺の気持ちをお見通しのようだ。
挑戦。考えてみると、俺は今まで何か挑戦したことがあっただろうか。大学の時だって、いろいろなビジネスのアイデアを考えていたけど、結局何も実行しなかった。世界一の普通がいいなんて言ってること自体、挑戦しないって言ってるようなものだ。
恋愛だってそうだ。俺が気に入ってた娘は、グズグズしているうちに、みんな誰かの彼女になってしまった。仲が良くなっても、俺が行動を起こさないから、もっと積極的な男のところに行ってしまう。
メグミ。焦りの気持ちとともに、メグミの顔が浮かんで来た。メグミはどうなんだ。胸が苦しい。お腹の奥がグルグルと気持ち悪い。俺は、メグミと仲がいいから、このままずっとこの関係が続くと思っているけど、このままでいいのか。誰かに取られて、また後悔するんじゃないか。
カウンターに置かれたマティーニに口をつけた。濃い。焦りの気持ち悪さを吹っ飛ばす強さだ。お腹中が熱くなる。
「ちょっときつくしておきました。悩みにはきついお酒が一番ですからな。飲み過ぎはダメですがな」
マスターはなんでも分かっている。こういうところがずっと通いたくなるところなのだ。
少し落ち着いて来た。そうだ。メグミに告白しよう。人生は一度きりなのだ。挑戦すべきなのだ。
時計を見ると、─19:10─になっていた。待ち合わせに遅れるなんて、メグミにしては珍しい。何かあったのだろうか。だったら告白するのは今日じゃない方がいいんじゃないだろうか。もしかしたら今日は来れないのかも知れないし。
急に弱気がお腹の中でグルグルと顔を出して来た。ダメだダメだ。
気がつくと、知らないうちにマティーニを飲み干していた。
カララン。
ドアが開いた音がした。ハッとしてドアを見た。半分開いたドアから、メグミが顔を覗かせていた。俺には、そこだけスポットライトが当たっているかのように光り輝いて見えた。
「遅くなっちゃった。ごめん」
メグミはすまなそうにしながらも、半分笑顔だった。その笑顔が見たかったのだ。お腹のグルグルは治まっていた。それがマティーニのせいなのか、メグミの笑顔のせいなのかは分からない。でも今の俺は無敵だと思えた。
「メグミにしては珍しいね。捕まっちゃったの?」
なるべく冷静に、普通に話し掛けた。
「ううん、捕まったのはタクトだよ。やっぱ開発部は、さっと定時に出る訳にはいかないみたい」
「タクト!?」
思わず聞き返した。
メグミがドアを開けると、後ろにタクトが立っていた。
何でタクト?聞いて無い。
いや、あの場で飲みに行こうってことは、三人でということだったか……
浮かれてて二人だと思い込んでた……
「何でそんなに驚いてるの?」
俺は今、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてるんだろうな、と思いながら返事を返した。
「いや、驚いてないよ」
メグミは「そう?」と言いながら、俺の隣、カウンターの真ん中の席に座り、タクトは「よ」と言いながらメグミの向こう側の席に座った。
メグミは、飲み干した逆三角形のグラスに気付いて無邪気にこう言った。
「あれ?今日はおしゃれなの飲んでるね。何かいいことあったんでしょ?」
いいことなんて何も無い。ちょっとムッとした。
「いや、ちょっと気分変えて、ぱーっとやるつもりだからさ」
「そっか。気分転換はいいことだよね。それでどう?吹っ切れた?」
メグミはいたずらそうないつもの調子だ。俺はメグミの笑顔を求めていたけど、そういうことじゃないんだよ。一気にテンションが下がってしまった。
「まぁ。そうだな。ちょっとほろ酔いでいい感じかも知れない」
わざとぶっきらぼうに怒ったように棒読みした。作戦とは全く違う展開になった。もう今日は諦めよう。
「良かった。じゃあ、私の話を聞いてくれる?」
「え?なんだっけ?」
すっかり忘れてた。そう言えば、話があるって言ってたっけ。
「聞いて。私たち付き合うことにしたの」
「は?」
私たち?付き合う?誰と誰が?まさか、メグミとタクトが?
「私とタクト、付き合うことになったの」
メグミは、いつもは見せたことの無いようなはにかんだ表情で、ニコっと笑った。
晴天の霹靂とはこのことだ。
俺たち三人はずっとこのままじゃなかったのか。いや、俺が告白するってことじゃなかったのか。また俺が遅かったということなのか。
もう何が何だか分からなくなっていた。それがマティーニのせいなのか、メグミの話のせいなのかも分からなかった。メグミは、タクトが告白してくれたとか、タクトの普通じゃ無いところがいいとか、三人は仲良しのままだよね、とかテンション高く話し続け、タクトは無言で水割りを飲んでいた。
でも俺の心はここに無かった。いや、ここにいたくない気持ちで心に壁を作って、二人の話が入って来ないようにガードしていた。
俺がタクトより早く告白していたら、こんなことにはなっていなかったのか。会社に入って最初にメグミに会って一目惚れした時、あの時に気持ちを伝えていたら良かったのか。それより前に、俺が普通なのがいけないのか。もっとバリバリと新しいことに挑戦するアキラ社長のようなビジネスマンだったら良かったのか。
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