第15話 蝶舞う丘で

 フロントガラスの向こうには柔らかな春の日差しが降り注いでいた。舗装もされていない山道はやはり振動が大きい。小型車ともなればなおのことだ。それでも助手席の美紀は楽しそうに旅の思い出を語っている。週末二泊だけの、とある山岳地帯への旅だった。一時期観光が盛んだった田舎の、どこかノスタルジックな雰囲気が却って気に入ったらしい。山からの風は爽やかだったし、春の七草や付近で獲れた鹿肉も美味しかった。登山まではしなかったが、山間の沢を散策するだけでもいい息抜きになったと思う。最後に僕は、小さな丘に登ることを提案した。地元の人に「不戻(もどらず)の丘」と呼ばれるあの場所に。


「それでさ、あの小川で────」


 美紀の明るい横顔は眩しい春の陽光にも似て、かつてその場所にいた別の女性の面影に重なっていく。知らず彼女に手を伸ばし、その栗色に染めた髪を撫でるとくすぐったそうに甘えるような視線を送ってきた。そんな仕草まで“彼女”に似ているものだから、つい過去に戻ってきたと錯覚しそうになる。


 道の両脇には見渡す限り草原が広がり、色とりどりの花々が咲いている。


「菜花、アネモネ、スイートアリッサム…………」


植物に詳しい美紀がそれらの名前を教えてくれるが、車で走りながらでは無論どれがどれだか分かりはしない。それでも窓から流れ込む爽やかな風は、懐かしい香りに満ちていた。やがて、目的地である丘の頂上が見えてくる。そこには一本の広葉樹が立ち、そして───。


「蝶?」


 美紀が声を上げた。山道の両脇には山草が生い茂っていて、無数の蝶が舞い飛んでいる。不思議なのは、頂上付近の山道にも蝶が集まっていることだった。そこには花など一つもないというのに──。最初は四、五頭くらいしかいなかったそれらが、一気に数を増やしていく。


 密集する蝶の群れ、その中に現れた一人の人物───。


「ああ…………」


 胸の内に湧き上がる喜び。抑えられない熱い思いが溢れてくる。君はあの時と全く変わらない。白く整った相貌に、硝子玉のような澄み切った瞳。漆黒の髪がさらりと風に流れて────。ああ、涼子、なぜ君はそんなにも美しいんだ…………。いつだって君は僕の胸の中に、そのままの姿であり続ける。


「と、止めてよ貴志!! 誰かいる!!」


 美紀の叫びが聞こえる。僕は車を停止させ、ドアを開いた。涼子────。君こそ僕が愛したただ一人の女性。世界にたった一人の、巡り合うべき人────。


 君を好きになったのは、大学に入ったばかりの春だった。君はいつも大人しめに振舞っていながら、惜しげもなく明るい笑顔を振りまいていた。その眩しいまでの輝きに、僕ならずとも多くの男子学生が魅了されていたものさ。内気な僕は周囲に悟られないように、こっそりとそんな君を見つめていた。でも聡い君のことだ、とっくに気が付いていただろうね。もしかしたらふられるかも知れない、そんな恐れを抱きながらも、震える声で告白した僕を君は真っ直ぐに見つめていた。僕の中にある何かを確かめようとするかのように。あの時君に断られていたら、僕は自殺さえ厭わなかったろう。それほどに君を求めていた。


 付き合ってみると、君は思った通りの人だった。目立つことを嫌い、ストレートで実直な生き方を選ぶ人だった。こんな素敵な女性と生涯を共にしたいと思うのは自然の成り行きだった。君のお父さんに初めて会った時に思わず結婚を申し込んだのは、単に勢いだけではなかった。僕なりに真剣に考えてのことだったんだ。ところが、エリート街道には縁遠い僕に激怒した君のお父さんは、君のアパートを解約して実家に押し込めてしまった。結局、負け犬は負け犬の人生しか歩めないのかも知れない。どんなに懇願しても、君と連絡が取りたいと頼んでも、君のお父さんは許してくれなかった。それどころか、僕を不審者扱いして警察に通報する始末だ。


 あの雨の夜、こっそり家を抜け出した君を連れて、僕はただひたすら遠くに逃げた。君のお父さんの追求が及ばない遥かな場所に逃げさえすれば、万事上手くいくと思っていた。今思えば、それもただ都合のいい妄想に縋りたかっただけなのかも知れない。あれから半年、僕らはそれなりには頑張ったんだと思う。二人して働きに出て、慣れない労働に明け暮れた。それでも、時間とお金さえ掛ければ、人を見つけ出すなんて訳はないのだ。君のお父さんは僕らを見つけ出し、君を強引に連れ帰ってしまった。


 君が命を絶ったのはそれから間もなくだった。お腹にいた赤ん坊も道連れにして、君は首を吊って死んだ。別の縁談が持ち上がっていたらしいと僕は後になって知ったよ。僕は葬儀の席に乱入して君のお父さんを罵ってしまった。思い余って胸倉を掴んで詰め寄ったけれど、君のお父さんは泣きはらした目を伏せたまま抵抗しなかった。遺体は僕が引き取って埋葬する、そう言った時、君のお父さんは僕に土下座して謝ってくれたよ。


 それでね、僕は決めたんだ。君を埋めるのはあそこしかないって。冷たくなった君をこの丘に埋葬した時、僕はまた泣きに泣いた。それから一年、僕は大学に戻り、何とか以前の生活に戻った。君という存在が欠落した毎日を元通りだなんて言えないけれど、少なくとも傍目にはそう映ったことだろう。美紀とはね、茫然自失状態の僕を心配して付き添ってくれているうちに、いつしか恋仲になってしまったんだ。美紀と君は仲が良かったから、きっと分かってくれるよね。


 でも、僕の本心は決して君を忘れたわけじゃなかったんだ。美紀と暮らす中にも、君との思い出がいつもちらつくんだ。美紀がコーヒーカップを手に笑いかけてきたり、手料理を作ってテーブルに運んできたり、あるいは髪を結い上げるときの何気ない仕草まで、君と過ごした日々を思い起こさずにはいなかった。だから…………。


 今この時だけの、例え束の間の邂逅でもいい。君の存在を、この目に焼き付けていたい────。こうしている間にも、君との思い出が次から次へと溢れてくる。駆け落ちの時に二人で歩いたこの草原を、無数の蝶が舞う、あの穏やかな日の午後を。蝶たちは、今も変わらずに僕を迎えてくれている。「不戻(もどらず)の丘」──地元の人はそう呼ぶけれど、君は戻って来てくれたんだね。あの時のままで。


 蝶に囲まれる君は幻なのか。夢見心地のまま足が勝手に歩みを進める。美紀の制止が聞こえたような気がしたが、構ってはいられない。生前と同じ姿の君が、そこにいるのだから。暖かな微笑を湛えて僕を見つめる。無言でも彼女の思いが伝わってくる。ああ、君はずっとここで待っていてくれたんだね────。蝶の群れが僕らを取り囲み、白く輝く理想郷へと誘うのがわかる。僕の心の中の呟きは、君の心に届いたのだろうか。きっと伝わったに違いない。君はそのしなやかな両腕で僕を抱擁してくれたのだから。


 君の腕に抱かれながら、僕の魂が肉体を離れていくのが分かる。僕の身体がそこに倒れ伏した後も、僕らはしっかり抱き合って、久しぶりのキスを交わした。肉体を伴わないキスの感触はとても不思議だ。ほんわかと暖かくて、でも互いの存在はどこか朧気で頼りなく、それだからこそ君もしっかり僕を掴んで離さずにいるのだね。


 倒れた僕の側まで走り寄った美紀が、泣きながら僕を起こそうとしている。ごめんね、美紀。僕はやっぱり涼子が忘れられない。どうかこんな僕のことは忘れて、新しい恋を見つけて欲しい。もし会いたくなったら、僕はいつでもここにいるから────。


 無数の蝶と戯れながら、僕は涼子と草原を歩き始めた。


§


 柔らかな春の日差しが降り注いでいた。楽しそうに旅の思い出を語る運転席の幸雄とは、付き合い始めてまだ間もない。街角で声を掛けられて──要するにナンパされたのが馴れ初めではあるが、私には心の隙間を埋める誰かが必要だった。どこかちゃらい印象はあったものの、真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれる姿に心動かされた私は、彼を受け入れることにしたのだ。


 折も折、私は週末二泊だけの、とある山岳地帯への旅を提案した。期待通り山からの風は爽やかで、山間の沢で釣った魚も美味しかった。幸雄の横顔は優しい春の風にも似て、かつてその場所にいた別の男性の面影に重なっていく。


 貴志────。


 折角涼子の父親に二人の居場所を密告し、二人の恋を終わらせたというのにあの顛末。私を親友だと信じて疑わぬ、世間知らずのお嬢様を陥れるくらいどうということは無かったけれど、原因不明の心停止で彼は戻らぬ人となった。寄りにも寄って、涼子の名を呼びながら…………。


 いつしか丘の頂が迫っていた。両脇には菜花、アネモネ、スイートアリッサム、その他様々な花々が咲き誇り、幸雄の運転する外車の窓からその香りが流れ込んでくる。丁度一年前のように。


「蝶?」


幸雄が首を傾げる。坂の頂、広葉樹の手前で、無数の蝶が宙を舞っている。その中心に、誰かの姿が見えた気がした。


「停めて」


私の言葉に幸雄は不審な顔をして見せるが、停車するや私は人影に向かい飛び出した。幸雄が何か言ったようだが耳に入らない。ああ、やっぱり───。


「貴志──!!」


 駆け寄る私を彼が抱きすくめる。愛おしいその腕に抱かれながら彼を見上げた私はようやく気が付く。彼の瞳が憤怒に満ちていることに。背筋にゾワリと悪寒が走る。なぜ────?。彼の両腕が背筋に食い込み、脊髄がミシミシと音を立てる。


「止め…………て…………」


もがきながらも、私はもう一人の姿を認める。貴志の背後から、氷のような眼差しを向ける一人の女。貴志を奪った憎むべき敵。呼吸もできぬ苦しみの中で、私は彼女を睨み返す。お前さえいなければ!! そう叫ぼうとした私の口から大量の血がこぼれ、同時に背骨の折れる衝撃が襲った。


§


「やれやれ」


 俺は独りごちた。折角涼子姉の仇を討とうとしたのに、どういうわけか勝手に血反吐撒き散らしておっ死にやがった。妾腹の俺を弟として可愛がってくれた涼子姉。彼女の幸せを誰よりも願っていた俺は、自殺に追い詰めた奴をどうしても許せなかった。口の堅い親父からその経緯を聞き出すのに何か月もかかり、偽名を使ってまでようやくこいつに近づくことができたのに。


 それにしても、自分から因縁の場所に誘い出すとはなあ。だが、こいつだけはここには埋めてやらねえ。こんなアバズレは涼子姉や貴兄が眠るこの丘には似つかわしくねえ。とは言っても、その辺の麓にポイだがな。


 煙草に火をつけた俺は、血まみれの美紀の死体を踏みにじり、思い切り蹴飛ばした。

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