第14話 真夜中のクローゼット

 僕は夜眠る時、いつもクローゼットの中が気になる。通気口を兼ねた羽板の隙間から、誰かがじっと覗いているような気がするから。大抵寝る前には、扉を開いて中に誰もいないことを確かめ、ほっとしながらベッドに潜り込むのだ。


 今日は夜九時から『呪恨』というホラー映画を見てしまった。つい怖いもの見たさで最後まで視聴し、主要キャラが全員死んだのを見届けた頃にはもう眠る時間だった。


 いつもより恐々とクローゼットの観音開きの扉を開く。そこには僕の服と、使わなくなった古い教科書や漫画、ゲーム類が入れてある。良かった、変なものはない。安心して扉を閉めてベッドに向かう。


──ミシッ


 不意に背後で鳴った音に、一瞬遅れて悪寒が走る。そっとクローゼットを振り返り、今さっき閉めた時から何の変化もないことを確かめる。大丈夫だ。置物のバランスが崩れて動くことくらいあるさ。


 そう自分に言い聞かせ、ベッドに腰を下ろしかけた時──


 何故だろう、クローゼットの羽板から、何かがこちらを覗いているような気がした。きっとホラー映画を見たりしたから、いつもより神経が過敏になっているんだ。改めてそう自分に言い聞かせ、布団に潜り込む。


 すると突然、パッ、と部屋の明かりが消え、周囲が闇に包まれる。まだ電灯のリモコンには手を伸ばしていない。こんなの、偶然だよ。きっと──。たまたまLEDの寿命が尽きただけさ。そう自分に言い聞かせ、掛け布団を頭からすっぽり被り、ひたすら耳を澄ませる。


………………


………………


………………


 やっぱり、何ともないじゃないか。部屋の中が静寂に満ちていることに安堵する。流石に息苦しくなっていたので僕は布団から顔を出した。


 そして何気なくクローゼットに視線を向ける。


「嘘だろ…………」


 乾いた声が漏れる。クローゼットの扉が、蝶番の限界ぎりぎりの所まで開いていた。中にあるはずの俺の服や本類は暗いせいかよく見えない。開き切った扉のその奥には、ただぽっかりと暗黒が口を開けているのだった。


「何だよ、これ…………」


 じっと見つめていると、その闇がどんどん広がってきそうな気がしてくる。


(そうだ、スマホのライトで照らしてみよう……)


 そう思い付いて枕元のスマホを取り出し、ライトを点けてクローゼットに向ける。そこには、いつも通りのクローゼットの内部が白い光に照らし出されていた。


 ふう、とため息を点いて、ベッドから出るとスマホの光を向けたままでクローゼットに近づく。


プルルルルルルルル!!


 突然の着信にびくっとする。見れば非通知設定だ。こんな夜中に誰だよ、全く……。どうせ悪徳業者か何かだろう。そう思いながらも、もしかしたら緊急の連絡が誰かから来たのかも知れないと思い、通話に出る。


「もしもし?」


「あ“あ”あ“あ”あ“ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ”~~~~~~~~~~」


 最初はくぐもっていた声が尻上がりに、何倍速かにしたような高い声になっていく。いたずら電話だ、そうに決まっている!! 震える指で急いで通話を切る。しかし、通話を切ったと思ったら今度はスマホが突然バイブし始める。


「何なんだよ……ひっ」


 どういう訳か、画面には僕の部屋のクローゼットが映し出されていた。カメラは起動していないはずなのに……。いやむしろ問題は、その中に見慣れぬものが映り込んでいることだ。


 少年、だろうか。ほとんど裸のまま蹲っている。白くやせ細った体には、無数の痣や切り傷が見られた。


 ぎょっとしてクローゼットに視線を移す。


──いない………誰もない、いないはずなのに……!!


 画面の中の少年が僕に向かって歩いてくる。……よた、よたと、両腕を突き出して。指は何かを探るようにわらわらと動いている。僕は足を震わせながら壁際にまで後退した。それでも少年は歩みを止めず、すぐ近くまで寄ってくる。今や頭頂部がアップで映し出されている。スマホを持つ手が震える。それでも目を離せない。視線を逸らそうとしても、両目は僕の意思を裏切って黒く短い髪の、渦を巻いているさまを凝視していた。


 突然、俯いていた顔が何かに引っ張られるように上を向いた。画面一杯に映し出された少年の真っ赤な瞳が青白い顔に浮かんでいた。大口を開けて、綺麗に並んだ白い歯を見せてにっかりと笑みを浮かべる。


「あ“あ”あ“あ”あ“ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ~~~~~~~」


 奇声を上げる少年の口から、目から、鼻から、耳から、真っ黒な泥がごぼり、ごぼりと吐き出された。


「うわああああ!!!!」


 恐怖のあまり、僕はスマホを投げつけた。それはクローゼットの奥にぶつかって、ゴツンと音を立てて転がった。視界の中に少年はいない。やっぱり、画面の中だけの存在だったんだ。大きくため息をつく。次の瞬間、


「ねえ」

 

 僕の袖が引っ張られた。全身がぴくりと動く。ゆっくりと視線を下ろすと、白く小さな指が僕の袖をしっかり掴んでいるのが見えた。更に首を回すと、肩越しに隠れていた少年の顔が、さっきと同じように喜悦の表情を浮かべ僕を見ていた。僕はこの時になって気付いてしまった。その両目に、深い恨みが込められていることに────。


§


 びくっ、と体が震える。その衝撃で目が覚めた。まだ部屋の中は暗い。クローゼットは……閉じている。


「ふう…………」


 乱れた呼吸を落ち着かせる。なんだ、夢か。変な夢を見たな。『呪恨』を見たせいかな? やっぱり止めておくんだった。



────プルルルルルル!!  プルルルルルル!! 


 静寂を破り、電話のベルが鳴った。僕のスマホの音だ。しかも、その音は締め切ったクローゼットの中から響いている。


「嘘だろ…………」


 掠れた声が漏れた。電話は鳴り止む気配がない。仕方なくベッドから出て、恐る恐るクローゼットに近づく。扉の取っ手に恐る恐る手を伸ばしかけ──


 バタアァンッッ!!!!


 突然に大きな音を立て、クローゼットの扉がこれでもかというくらいに開ききった。


「お“お”お“お”お“お”お“お”お“お”お“お”ぉ“ぉ“ぉ“ぉ“ぉ“ぉ“~~~~!!」


 中から、夢で見た少年が飛び出した。続いて少年とそっくりに、青白い半裸の大人達が飛び出してきた。何人も何人も後から湧くように現れた彼らは、僕の五体をみんなでがっちりと掴んで拘束した。僕は夢中で叫んで暴れたがどうしようもなかった。クローゼットの中に運ばれ、その奥に広がる泥沼の中に引きずり込まれた。鼻に臭い泥が詰まり、息ができずに口を開くと喉にまで入り込んできた。水面に顔を出そうとする度に、頭上から何本もの手が僕を沼に押し込んだ。全身が苦しさのあまり幾度もバウンドする。


(本気で殺す気だ!!)


 僕は涙を零し、しゃくりあげるように泣き喚いた。助けを呼ぼうと滅茶苦茶に叫び声を上げた僕の口内に、アンモニアの腐臭に満ちた泥が胃から内臓にまで容赦なく流れ込んで行った。例えようもない苦しさの中で、僕は遂に意識を失った。


§


 腐った泥沼の草葉の陰から、修学旅行の一団が見える。ここは日本有数の湿原地帯だ。観光で訪れる者も少なくない。僕もかつてはその一人だった。この湿原をみんなと歩いていただけなのに、なんでこんな目に遭うんだ…………。僕の体はこの泥沼の底に沈んだまま、ただ腐敗していくだけだった。僕のことは恐らく失踪事件として処理され、誰一人として行方を知ることはないだろう。まだ中学生なのに、やりたいことも色々あったのに、僕の人生は突然に閉ざされてしまった。


 行き場のない悲しみと怒りは、僕の苦しみを知りもせずに青春を謳歌する目の前の少年少女たちに向けられている。そうだ、僕がやられたみたいに、今度はこいつらをおなじ目に遭わせてやればいい。


 恐怖に歪むこいつらの顔を想像するうちに、僕の心は喜びに支配されていく。取り合えず目の前のカップルを引きずり込んでやろう。同じ年頃なのにいちゃいちゃ手なんか繋ぎやがって……。僕の周りにいる奴らも同じ考えに違いない。だって、みんな僕と同様に、獲物を狙う野獣のような目をぎらつかせ、唇を吊り上げてあの二人を凝視しているのだから────。

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