第13話 夜泣き沼

 今日、彼氏にドライブに誘われた。


 彼とは付き合い始めて半年になる。きっかけは──そう、彼のお姉さんだった。同じ大学に通っていた彼のお姉さんが、交通事故で即死。一つ違いだったこともあって、割とよく話す姉弟だったらしい。落ち込む彼を見るに見かねて励ましているうちに、いつの間にか情が移ってしまった。


「夜泣き沼って知ってるか?」


 私は首を振った。とても夜景が綺麗な所らしい。夕方に彼が車を出してくれるというので、予定のなかった私は彼の誘いに乗ることにした。


 夕暮れ時の市街地の混雑を抜け、閑散とした山道に入り込む。それからはラジオの音声もプツプツと途切れがちになり、行き交う車両も時が経つにつれ減っていった。


 日も暮れた頃には、ヘッドライトの明かりのみが唯一の光源といった有様で、時折思い出したように寂しく佇む外灯が不気味に周囲を照らし出していた。


「ねえ、本当にここで合ってるの?」


「ん…………」


 彼は終始無言で、何だか不機嫌にも見えたので、ここまで一緒に来たことを少し後悔し始めていた。


 車が止まったのは、ナビにも表示されない古い山道の入り口だった。


「降りろ」


 短く言った彼に付いて行くべきか迷いはしたが、しかしここでキレられても嫌だな、と思い大人しく従った。


 懐中電灯が照らす山道を彼のすぐ後ろにくっつくように歩く。時折すぐ近くの茂みからざわ、と何かが動く音が聞こえる度に、びくっと反応してしまうのを止められなかった。


 


 何でこんな山奥を歩いているんだろう。寒さが押し寄せてくると、私はさっさと車に戻りたくてうずうずし始めてしまっていた。


「ここだ」


 突如樹々の枝が覆う暗闇から抜け、曇り空が広がる開けた場所に出た。彼が懐中電灯を向けた先には、確かに沼らしき黒々とした水面が広がっていた。見るからに腐臭が漂ってきそうだ。そこから何か得体の知れないものが飛び出してきそうで、私は厭な気分になった。ここのどこが素敵だというのか。


「ねえ、もう帰ろうよ」


「ここではね、昔──」


 私の抗議を無視して、彼はしょうもない蘊蓄を語り始めた。何でもその沼は、元は溜池として作られたが少しずつ忘れられていき、いつからか死体を沈める風習ができてしまったのだという。猫、犬、鶏、牛などの家畜だけじゃない。そこに、人を沈めた事例もあるのだという。


「問題は、ここからだ」


 うんざりしていた私は、そこに蹲って沼をぼんやり眺めつつ、彼の話を聞くともなしに聞き流す。


「夜、泣き声が聞こえると言うんだ。沈められた死体が、そこから這い上がろうとして泣き叫ぶらしい。だが、実際にそこから上がってきた者はいない。当たり前だ。もう死んでいるんだから…………でもね、声が聞こえるということは、ひょっとしたら…………ひょっとしたらだよ? 少し手伝ってあげさえすれば、這い上がって来るかもしれないだろ?」


 はあ? そう思って私は彼の顔を見る。何というか、正気じゃない。ギラギラした目で、沼を見つめている。


「だからさ、家族みんなで、ここに姉さんを沈めたんだ。だって、ここでなら死んだ者だって、生き返るかもしれないじゃないか!!」


「し、沈めた? お姉さんを? え、マジで言ってるの?」


「だって、ほら、耳を澄ませてごらん!! ほら!!」


 私はぎょっとしつつも、彼の言葉に従って耳をそばだててみる。彼とは対極的に、何も聞こえませんように、と祈りながら…………。


 ひゅうううううう~~~~ひゅぅうぅ~~~~


 ううううううううううううううううううううう~~~~


「!!」


 風の音に混じり、人の声のようなものが聞こえてくる。


「さ、錯覚よ!! 風の音だわ!! きっとそうよ!! ねえ、もういいでしょう、早く帰りましょう!!」


 彼の腕を揺さぶり、震える声で訴える。だが、彼は目を丸く見開いたまま不思議そうに言った。


「え? 帰る? 何を言ってるんだい? 姉さんに君を紹介しようとしたのに」


 そして、彼はほら、姉さんだ、と沼の一点に懐中電灯を向けた。そこに視線を向けた私はぎょっとして固まる。


 白いものが、どろどろした黒い液体から突き出して、闇を掻き分けるように蠢いている。それが人間の手だと理解した時、私はひっと声を漏らし、一目散に来た道をダッシュした。


 後ろで彼が何か叫んでいたが、もはや聞く耳など持たなかった。


 あれは何?


 死体、じゃないよね、動いていたし。じゃあ、生きてる人? なんであんな場所に? 誰かがあそこに突き落とした? 殺人未遂? まさか、悪戯、じゃないよね…………。


 徐々に冷静になり、やはりあれはどっきりだったのではないかと思い始めた。いくら何でも、彼が人を突き落としたりはしないよね。それに、死体が蘇るだなんて…………。


 その場の雰囲気に当てられて、客観的になれてなかったんだわ。落ち着いて、私。


 歩きながらそこまで考えて、しかし再び山道を登る気にもなれず、車に戻って休むことにした。あ、そう言えば、車の鍵彼が持ってるんだっけ。


 色々思案しながら山道を降りた。闇の中を歩くのがやはり怖い。やがて見覚えのある車にたどり着き、ドアを開くとロックされていなかったのでシートに滑り込んだ。


 そのまま心を落ち着かせようと目を閉じた。


§


 ブオン、という振動に目を覚ます。彼が運転席でエンジンを掛けたのだ。良かった。帰るんだ。


 しかし、彼はにこりともせず、ハンドルを回し、アクセルを踏み込んだ。


「え?」


 これ、さっきの山道を登ってない? どういうこと?


「ちょっと、ねえ、どうしたの?」


 私の言葉には耳も貸さず、彼はひたすらアクセルを踏み続ける。舗装されていない山道だ。車が何度もバウンドし、私は頭を天井や窓ガラスにぶつけ、おまけに舌まで噛んだ。


 うううううううううううぅぅぅ~~~~~~~


 どこからか、さっきの声が聞こえてくる。


 うううううううううううううううううううううううううううう~~~~~


 カーステレオから、大音量であの声が流れていた。


「ちょっと止めてよ!! ねえ、止めてってば!! 何なの、これ!!」


 ううううおおおおおおおおおおおおああああああああ~~~~~~~~~


 車は頂上に達した。


 まさか、まさかだよね……


 信じられない思いで彼を見る。


「今わかった!! 僕が姉さんの所にいけばいいんだよ!!」


 そして彼は、全力でアクセルを踏み抜いた。


§


 病院のベッドの上で、私はぼんやりと天井を見上げていた。


 沼に突っ込む直前で、辛うじてドアを開いて脱出した私は何とか巻き込まれずに済んだ。後はどこをどう進んだのか、山道を歩いている所をトラックに拾われた。そのまま運び込まれた病院で心神喪失状態と判断され、足首を怪我していたこともあって、治療のために入院することになった。


 あの後、彼がどうなったのか知らない。知りたくもない。あれは一体何だったのか。


 ごぼり、と窓際から水の溢れる音が聞こえた。


 テーブルの上に置いてあったコップから、黒い水が溢れていた。ゴボリ、ゴボリ、ゴボッ…………。


 ううううううううううううううううあああああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおお~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 あの声が、部屋中に響いている。


 コップの中から白い腕が伸びて、私を求めるかのように当たりを探り始めた。私の喉を掴んだそれは、鋼鉄のような力で締め上げてきて────


§


 若い男女がじゃれあう声が聞こえる。何で私がこんな沼の底に────嘆きはいつしか恨みとなり、そのどす黒い感情が奴らを殺せと囁く。そうだ、せめてこちら側に引きずり込んでやる!! 私は他のみんなと一緒に怨嗟の声を上げながら、若いカップルに腕を伸ばした。

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