第16話 月夜の桜の満開の下

 とある春の夜のことだ。会社の同僚と居酒屋で騒いだ後、俺は酔った足取りで薄暗い商店街を歩いていた。いつもなら何気なく通り過ぎてしまうその場所で、占い師がぽつんと腰を下ろしているのが目に入った。俺は占いなど信じてはいないし、普段なら素通りしていただろう。


 しかし酒の勢いもあって、一生に一度くらいはと占い師の前に腰を降ろしたのだ。


 占い師は真っ黒のスーツを着こんでいた。ちょび髭を指でいじくりまわしながら、やけにネチネチした話し方で俺の手相を見て分かったような分からないようなことを話し続けた。そして、おもむろにタブレットを操作し、ある画像を俺に見せたのだ。


 そこには、満月が輝く藍色の夜空の下でぽつんと立つ満開の枝垂れ桜が映っていた。やや濃い目の色合の花弁が、微風に吹かれて乱れ散っているのだった。


『桜の木の下には……』


 そんな有名な文句が自然に思い起こされる程、その桜は妖美な佇まいを見せていた。


 それを見た瞬間、俺の背筋を電流が駆け抜けた。樹齢は数百年ありそうな枝垂桜の夜風に吹かれる様が、目の前にありありと浮かんだ。


 ここには行ったことがある……いや、はっきり記憶に残っているわけではないが、ここには俺に関わる何かがある―───。

 

 どういう訳かそう強く感じた俺に、ちょび髭の占い師は駄目押しのように告げた。


「ここには、あなたの命運を左右するものがあります」


 その画像の場所を聞いてみると、男はにたにた笑いながらあっさりとその場所を告げた。薄気味の悪さを感じながら占い師に金を払い、そこを後にした。酔いは既に吹き飛んでいた。

 

§


 あの場所には是非行かねばならない。そして自分の目で確かめてみたい。そう思った俺は、妻子に出張だと偽って、週末の三日をそこで過ごすことにした。五時間もかけて電車を乗り継ぎ、バスで山の麓まで来て、さらに石階段を上った。そこは隠れた名所とやらで、アクセスの悪さから地元の人でもめったに訪れない場所だった。

 

 辿り着いた時には既に日も暮れていたが、今宵は雨も降りそうにないし、野宿でも構わないだろう。


 その桜の前に立った時、胸の奥からじんわりと熱い思いが込み上げてきた。その桜の美しさは想像以上だった。何本もの優美に垂れ下がる枝からは、流れるように広がる花弁が幾重にも重なって味わいのある淡紅色の色相の勾配を生み出している。それが風に揺られながら、薄紅色の花びらを月明かりの中に散らしているのだ。


「なんて綺麗な…………」


 思わずそう呟いた時、


「黒井様」


 人の声が聞こえた。その方向を振り向くと、若い女が茣蓙の上にちょこんと正座をして、俺を見上げて微笑んでいた。さっきまで誰もいなかったはずなのに、いつの間に現れたのだろう……? 見れば、酒の準備までしている。


 一体どこの誰だろう。背は低めの様だが、涼し気な目元にほっそりした唇、それにすっと流れる様な鼻梁-美貌と言っていい面立ちだ。


 服装は着物……着物と言っても、室町時代風だ。


 茜色を基調とした柄の小袖に、細めの朱帯、その締める位置も低めである。そして髪もまた、真ん中で綺麗に分け、耳の辺りから一部を前に垂らし、残りは後ろで結ってる。大河ドラマにでも出てきそうな雰囲気だった。

 

 いや、じっくり観察している場合ではない。第一、俺は黒井ではない。


「あの……人違いではないですか? 私は黒井ではありません」


「はあ……左様でございますか? では、お名前を伺っても宜しいでしょうか?」


 少し迷ったが、そう珍しい苗字でもないし、構わないかな、と軽く考えた。


「鈴木と言います」


「鈴木様……今はそうなのですね」


 女はそう答えて目を伏せた。女の反応がいまいちよく分からないが、聞き流すことにした。


「では鈴木様。どうぞお座りになって。お酒の用意が出来ておりますから…………」


 彼女の言葉は、どこの訛りともつかない、聞き慣れぬ、しかしどこか懐かしい、そんなイントネーションだった。

 

 普段の俺なら、新手の詐欺やぼったくりかと疑う所だった。だが、不思議とそんな当たり前の警戒心は湧かなかった。女の態度が、余りにも自然だったからだろうか。


「それなら……頂きます」


 女の前に座って、朱塗りの盃を受け取った。透明な液体が白いとっくりから流れ落ちる。注がれた酒は、ゆらゆらと小さく波打ちながら月と桜を映し出していた。


 そっと口を付けると、甘みと辛みを併せ持った芳醇な味わいが広がっていった。こんな上物は滅多に口には出来まい。


「美味い」


 思わずに声に出すと、女はふふふ、と口元を袖で隠しながら笑い声を立て、更に酒を注いだ。


 空を見上げれば、銀色の小さな星々の中に、一際明るい満月が黄金色の柔らかな光を放っていた。そして、その空を彩るような花弁の舞────。


「今夜はこんなにも……」


「月が美しい、でございましょう?」


 女が目を細めて、言いかけた言葉を繋いだ。


「どうして、分かったんです?」


「あの時も、そう仰ったじゃありませんか」


「あの時……?」


 あの時とは一体…………。


 この山、桜、そしてこの女性―───


 目がちかちかする。頭の中がぐわんぐわんと鳴っている。幾つもの、見た筈のない情景…………。


 今と変わらぬ姿の女……甲冑を身に着けた自分……かつてない激しい合戦──。斬って斬られ、最後に力尽き、もはやこれまでと覚悟し、敵の槍に身体を貫かれて、最後に思い起こしたのは……そうだった……君の……。


 何だこの記憶は? おかしい。こんなのはただの妄想だ。酔っているからこんな!!

 

「違う!!……これは幻だ!! 妄想だ!!」


「いいえ、幻なものですか。やはり貴方は、帰って来て下さいました。あの時の約束通り」


 あの時? そうだった、あの時、この桜の満開の下で、俺はこの娘と酒を呑み、情を交わし、そして────。


「きっと帰ってくる、貴方はそう言って笑って出陣されました。しかし、戻ってきたのは遺髪のみ……私は……私の嘆きがいか程であったか、お分かりいただけますか……?」


 女は目頭を押さえ、涙を拭きとった。


「そうか……それで、君は……」


「私は……この桜の下で、自害して果てたのでございます」


 女が真っ直ぐに俺の目を覗き込んだ。見つめあう女の瞳の中に、女が死ぬ間際の情景が映し出された。


 この桜の木の下で、女が短刀を自ら喉元に突き刺している。うぐっ、という短い悲鳴が上がり、止めどなくごぼりごぼりと血が溢れ、流れ出した鮮血が淡い色の着物を赤く染め上げていく。


 女は苦しそうに横たえた身を震わせ、血に生えた草を固く握りしめていたが、やがて動かなくなった。


「どれだけ辛かったか……痛かったか……でも、貴方も同じ思いをされたのですね……おいたわしや」


 女は俺に取りすがって咽び泣く。


「茜……済まなかった」


「いいえ……良いのです。これからは、ずっとお側にいて下さいますでしょう?」


 女の問いかけに、急速に思考が現実に戻る。


「それは……その……今は、仕事があるし……それに家族も……」


 俺がしどろもどろに言い繕おうとすると、女は怒るどころか、うふふふ、と玉を転がす様な笑い声を立てる。


「無駄でございますよ。もう、黄泉のお酒をお召しになったのですから」


「よみ……黄泉の国……の酒?」


 す、と顔が青ざめるのが分かった。がし、と女に肩を掴まれる。小袖から伸びたその指先は、肉が完全に溶け落ち白骨化していた。


 ず、ず、ず…………


 女に掴まれたまま、体が地中に引き摺りこまれて行く。足腰まではすぐだった。蟻地獄に嵌ってしまったかのようだ。精一杯、両手で地面を押し返そうとする。だが突っ張った両手までもが、ずずず、と地中にめり込んでいく。


「や、やめて……くれ……」


「黒井様、お侍様らしくござりませぬよ」


 骨だけの腕を男に絡めながら、女は顔半分が髑髏と化したままうっとりとした表情で月を見上げた。


「幾百年も待ち侘びて……ようやっと、願いが叶いまする」


 柔らかな黄金色の光が照らす中、舞い踊る桜の花びらに紛れて二人の姿はついに見なくなった。


§

 

 それから暫く時が経ち────。


 花弁も散った桜の木の根元には、僅かに何者かの指先が地中から生えていた。だがそれは誰に気付かれることも無く、夏に入る頃には雑草にすっぽりと覆い尽くされていった。

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