第4話 霧の夜
霧の深い夜だった。
私は一人帰路を急いでいた。外灯の明かりがボワンと宙に浮かぶ中、すれ違う者もなく、私一人の足音が響いていた。
どれくらい歩いただろう。コツ、コツという足音が前方から聞こえて来た
「こんばんは」
二十歳前後の女だ。見知らぬ相手から、こんな夜に挨拶をされるのは初めてで面食らった。
しかしこの女性、どこかで見たような記憶はあるのだが。もしかしてどこかで会ったことがあるのではないか。さて、誰だっけか……。
「こんばんは」
取りあえず私も挨拶を返した。
「私を家まで送って頂けますか?」
「え?」
「私を家まで送って頂けますか?」
繰り返される質問に戸惑う。
「ええと、宜しいのですか?見も知らぬ私なんかに……」
「送って頂けますよね?」
突然出合い頭にこんなことを頼むのはどうかと思う。
夜更けに女一人で歩くことが怖いのかも知れない。もしかして、美人局だろうか。あるいは少し頭が弱いのだろうか……。女は潤んだ大きな黒目で私を真っ直ぐに見つめている。何の屈託もなくこんなに真っ直ぐに見つめられるのは随分と久しいきがする。最後にこんな目で私を見つめたのは……。
彼女の目を見つめ返している内に、断ってはいけない気がしてきた。
「分かりました。家はどの辺ですか?」
「こちらです」
女は脇道に逸れていく。
コツ、コツ、コツ、コツ……。
名前を聞いてみたが、よく聞こえなかった。何度か聞き直したのだが、その度に雑音がどこからか鳴り響くのだ。仕方がない。家まで行けば、表札で確認できるかも知れない。
折しも霧の向こうに、屋敷が見えて来た。大きな和風の門だ。だが、表札はない。
「こちらです」
「では、私はこれで」
立ち去ろうとする私を、女が引き留める。
「このような霧ですし、今夜はこちらにお泊り下さい」
「いや、そんな訳には」
「わざわざ送って頂いて、お礼もしてさし上げないのは失礼に当たります。どうか、
私の為にお泊りになって下さい」
「……では、屋敷の主人にご挨拶を」
「はい」
女は私を招き入れた。勧められるままに座敷に上がる。座敷は四十畳はあるだろうか……。庭も手入れが行き届いている。鹿脅しの音が一定の間隔で聞こえてくる。
「お客様」
「え? あ、はい!!」
いつの間に来ていたのだろう。目の前に、先刻の女が座っていた。目を奪われる程の見事な振袖姿だ。
「私が、この屋敷の主でございます。今夜は私の我儘に付き合って頂き、心より感謝申し上げます」
そんなに畏まられるとやりにくい。
「いいえ、その、お茶も頂きましたし、これで……」
「夜も遅いですし、今日はお泊り下さい」
「しかし、明日は仕事が……」
「明日、お目覚めになられましたらお送り致します。湯の用意も出来ております。今夜は当家にてごゆっくりお寛ぎください」
丁寧に頭を下げられた。これは、断れない。元々押しの弱い私は、彼女の申し出を受けることにした。
檜風呂に入って、用意された浴衣を着て、ふかふかの布団にくるまる。私の意識は、闇に溶けていった。
§
翌朝。
「お早うございます。お目覚めで御座いましょうか?」
「ああ、よく眠れた」
朝日が差し込む中で、私は大きく伸びをした。漆喰の塀の向こうには豊かな森が広がっている。
「ふむ……?」
どこかに行かなくてはならなかった気がする。だが頭がぼんやりとして思い出せない。
「お父様、朝食を用意して御座います」
そうか、朝食をとって、その後は……。十数人の娘たちが、わらわらと私の周りに群がって来た。
「ごはんの後は、私と遊んで下さる約束でしょう?」
「違うわ。私とお散歩するのよ」
「いいえ、この後は私の琴を聞いてくださいまし。お父様、昨晩約束したではありませんか」
振り袖姿の長女が少し拗ねたような目で訴える。
「そうだった。琴を聞くんだったな」
ぶーぶー文句を言う他の娘達。私の、大事な娘達……。
§
「岸田さん、亡くなったってよ」
「聞いた。心不全だって。奥さんと離婚されてから、一人で闘病生活だったそうだね」
「そう言えば、娘さんいなかった?」
「娘さんはね、五歳くらいの時に亡くなったんだよ。生きていれば二十歳くらいだろうな」
「なんだか、可哀想ですね。娘さんのこと、時々話して居られたから」
「噂では、娘さんに似せた人形も毎年作らせたらしいですよ。それも年齢に合わせて……今年で十五体になるんじゃないですか」
「うわあ……そりゃ奥さんも流石に離婚するわ」
§
彼の最も大事にしていた遺品。ガラス戸の棚に、それらは並んでいた。
黒い艶やかな髪。
白い肌。
なだらかで蠱惑的な曲線を描く肢体。
艶やかな衣装。
動くはずのないその人形たちが、人知れず、音もなく、一斉に微笑を浮かべた。
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