#5

 放課後になると、俺はカバンを手に取り、教室を後にした。

 向かった先は、図書室。放課後になったばかりだからであろうか、生徒は誰もおらず、閑散としていた。

 俺はカバンを机に置き、カバンから本日課された宿題を取り出す。

 図書室の外からは、楽器の音色や運動部の掛け声などが聞こえ始めてきた。

 そんな音色を聞きながら、俺は宿題に取り組んだ。何かに集中していないと、気が休まらないからだ。

 図書室にある時計の分針が刻々と時を刻み、数十分が経過しただろうか。そうした時に、図書室の扉を開ける音がした。

 俺はその音がした方向を見ると、そこには西尾が立っていた。

 西尾は俺を見つけると、机の前までやってきて、腰を下ろした。


「奇遇だね、こんなところで会えるなんて」


 西尾はにこやかに発言する。この場には俺と西尾しかおらず、図書室の司書さんは他の部屋で作業している姿が見受けられた。俺はここで発言していいのだろかと考え込むが、西尾のその不気味な笑顔には逆らえなかった。


「俺を探して、やっとここを見つけたくせに、よく白々しくそう言えるよな」

「ほんとだよ、私、結構キミのこと探したんだからね」


 西尾は俺の発言を否定せずに、愚痴をこぼす。


「俺になんか用があったのか?」


 単刀直入に要件だけを聞くと、西尾は困ったような顔をする。


「キミはせっかちなのかい? それだと寄ってくるかもしれないものも寄ってこなくなるよ」

「余計なお節介だ」

「まぁ、現状せっかちというよりは、気が動転していて、それどころじゃないっていうところなのかな」


 別に慌てているわけではない――他の事に心を奪われていることは確かだと思う。西尾が先程口にした言葉は、俺の質問に対する回答ではなかったので、再び尋ねた。


「で、何の用?」


 俺は西尾を睨みつける。すると、西尾は両手を上げて、


「そんな怖い顔をしないでよ。ちゃんと答えるからさ」


 俺は睨みつけることを止めた。西尾は肩を落とすと口を開いた。


「私はね、キミが危ういと思ったからフォローしに来たんだよ」

「危ういって、どういうことだ?」

「昼休みの教室での、あの子との行動を見ていたら、この後キミがキミではなくなりそうで、心配になったんだよ」


 俺は西尾が話す言葉の意味を理解しようと、そして、理解しまいとしていた。


「キミは自覚していて、自覚していない。だから危うい」


 板倉が俺に尋ねていた『答え』と、西尾が指している自覚は、同じものを指しているのだろう。


「キミは自分を構成している支えているものを失くしてしまったら――いや、キミの代わりに別の誰かがそれを奪ってしまっていったら、キミはキミでいられなくなると思ってね」

「俺は俺だろ、別に何者にもならない」

「本当にそうかい?」


 西尾が尋ねる。本当に今までの自分でいられるのかと。


「キミが支えていたものがなくなってしまったら、キミは変わらざるを得なくなる」

「前回言っている言葉が違うじゃないか。俺たちは変わらないものじゃなかったのか?」


 俺は小さく声を荒げ、西尾を問い詰める。

 西尾は至って動揺せずに、虎視眈々と答える。


「あぁ、前回は変わらない――そう言っていた。でも、今は違う。昼休みのキミを見て、私は確信した。キミは変わらざるを得ないものだ」


 つまり、俺が支えていた幼馴染がいなくなることで、これまでの俺ではなくなると、そう言っているのだ。

 そんな馬鹿なことがあるかと、声を荒げようと思ったが、言葉に出すことができなかった。それは、そうなることを否定する根拠がなかったからだ。

 そう、これまでの俺の人生は、幼馴染と一緒に過ごしてきた。幼馴染と登校して、くだらない会話をして、くだらない喧嘩をしていた。そうした日常が消え去ってしまうと、俺に何が残るのだろうか。


「そこでだ、私から一つ提案をしようと思うんだ。今日言っていたどうしてもっていうときの話だ」


 西尾は一呼吸置いて、俺の目と逸らさずに、こう告げた。


「私と付き合おう」


 その言葉は、今までの関係を終わらせる言葉であった。

 西尾は、顔を赤らめさせながら続ける。


「私があの子の代わりになろう。キミは私のためを思って支えてくれ。私はキミを一生支えて生きていくことを約束しよう」


 西尾は自分の胸に手を当てて、俺を説く。


「無論、冗談で言っているわけではない。――私は、キミのことを好いている。ライクのほうではなくラブのほう」


 俺は黙って聞くことしかできなかった。彼女の言葉の合間に口を挟むことは、彼女の姿勢が許さなかった。彼女の一途な思いが、それを妨げたのだ。


「なんでだよ……」

「というと?」


 俺は思ったことを素直に口にした。


「なんで、今、お前が俺に告白するんだよ」


 そう、今まさに、告白しているであろう幼馴染と同じタイミングで。

 西尾は考え込む素振りを見せ、


「一つ訂正する必要があるね」

「訂正?」

「あぁ、あの子が告白するから私も告白したのではなく、私がキミに告白することを知ったから、あの子も告白することにしたんだよ」


 俺は西尾の言っている意味をすぐに理解することができなかった。つまり、西尾が俺のことを好きであるという事実を知っていた幼馴染が、俺との曖昧な、歪な関係を断ち切るために、告白をすることにしたということなのか。

 そうすると、事の始まりの原因は、今目の前にいる人物ということになる。


「お前、悪魔か?」

「私は悪魔なんかじゃない。ただの恋する乙女だよ」


 彼女は悪魔のように微笑んだ。どこまでが彼女の策略であったのかはわからないが、俺たちはいいように踊らされていたわけなのか。

 だが、すぐに俺はその考えを否定した。

 西尾は、ただ純粋に告白したく、その旨を幼馴染に告げただけなのだ。もっと本質的な問題は、俺と幼馴染の関係だったに過ぎない。

 ――あぁ、そうか。そういうことだったのか。

 俺は気付いてしまった。何が歪であったのか。

 そして、近すぎていて、見えなくなってしまっていたものを気付いてしまった。

 俺は西尾を見据えた。彼女は待っている、告白の答えを。


「俺はお前の気持ちに、答えることはできない」


 西尾は、その答えを聞くと、表情を崩さすに、


「それは、キミが、自分の気持ちを自覚したっていうことでいいのかな」


 俺は、ただ頷いた。

 西尾はそれを見ると、表情を崩さす、そのままの笑みで、


「それは結構――でも、わかっているのかい? もう前みたいな関係には戻れない」

「あぁ、わかっている。この気持ちを知ってしまったからには、前みたいな関係にはならないことを」

「ならいい――さっさと行った、あの子の元へ」


 俺は机に広げたものをカバンにしまいこんで、図書室を後にした。俺は去るときに西尾のほうを見ることはしなかった。ただ、図書室から出ると、机に顔を伏せる影がそこにはあった。


 教室に向かう渡り廊下を進んでいると、廊下の先から板倉がこちらに向かっている姿を見つけた。

 板倉もこちらに気付き、近くに駆け寄る。


「すまん、後は頼んだ」

「あぁ、任せておけ」


 板倉が何について謝ったのか、なんとなく察することができた。しかしながら、板倉はせわしない様子で、あたりを見渡している。


「なぁ、西尾を見なかったか?」


 その言葉を聞いて、俺は彼女の居場所を板倉に伝えた。

 板倉は、俺を問い詰めることなく、感謝の言葉を言うと、その場を後にした。

 俺は板倉の後ろ姿が見えなくなる前に、声を掛けた。


「後悔だけは、するなよ」


 板倉は驚いた表情を見せるが、すぐに笑った様子で、


「お前もな」


 その言葉を聞くと、お互い背を向かい合わせ、それぞれ向かうべき場所へ足を進めた。

 空の青さは、温かいオレンジ色の夕焼けに染まっていた。

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