099 この世界で殺虫剤は使えますか?

 手をひさしにして、アメリアが頭上の魔光を薄目で見る。


「実験が失敗した理由は大きく二つ。吸い上げた魔素は際限無く増え続けて、最後は制御できなくなるのが目に見えてた」

「もう一つの理由は?」


 涼一も、空中を一定方向に流れ始めた魔素を観察した。


「あの渦よ。ゾーンが螺旋に分布してるのはご存じかしら。あれは他所のエネルギーを呼び込む流れ。報告書で読んだけど、あなたは転移の術式の経験者よね?」

「ええ、一通りやったよ」


 最近は数えるのも面倒なほどだと、彼は苦笑いする。


「あの反時計回りの渦は、ゾーン転移と同じです。あなたが地点間のゲートを開いたことがあるなら、逆回りだったはずよ。そこまで分析できても、私たちにはそれが実現できなかった」


 鳥居に生まれる転移陣を、涼一は記憶から探る。

 右端から時計回りに展開する魔法陣は、確かにゾーンの螺旋とは逆巻きだ。


「じゃあ、逆向けに流れを捩曲ねじまげればいいんだな?」

「確証は無い。でも、おそらくは」


 転移現象を考察する二人に、焦った神崎が懇願する。


「何でもいいけど、早くしてくれよ。どんどん魔素が増えてるぞ!」


 涼一は皆に向き直り、考えた方策を説明した。


「まず、からの形代を全部俺に預けてくれ。エネルギーを吸収して、少しでも噴出を抑える。その上で、石盤の術式を発動させる」


 できるのか? そんな疑問が全員の顔に浮かんだ。

 だが、行動は早い。力を吸い尽くしたお守りやアクセサリーが、涼一の横に積み上げられて行く。

 魔光が輝く石盤の前で膝を折ると、涼一は手を差し出した。

 さすがに凄い魔素量だ。


「……だけど、これくらいなら行ける」


 魔素操作は、もう何度も繰り返してきた作業であり、彼は一瞬で自分を流れに同期させた。

 右手を円盤に、左手には形代を握る。


 ――これは、若葉の形代か……。


 兄とよく似たお守りは、魔素の許容量が大きい。

 地下から吸い上げられたエネルギーは、順調にお守りに移動していった。今の勢いなら、まだ涼一の吸うスピードが上回っている。


 問題なのは、この状態で術式が発動できるか、だ。

 上空の光が陰ると、一同がホッと胸を撫で下ろす。

 魔光の柱が細くなったタイミングで、彼は一度、形代を手放した。


「若葉、俺のリュックを寄越せ!」


 兄の荷物持ちをしていた若葉が駆け寄り、彼の横でリュックの口を開いた。

 涼一はその中をまさぐって、目的の遺物を探す。

 渦を加速させるのではなく、地球へのゲートを発動させるなら、まだすべきことがある。


「敵だ、リョウイチの前に出て守れ!」


 残存部隊が、中央にまで進出して来た。

 ヒューが戦輪を振るい、レーンが魔弾で先制する。最も射程の長いロドたち特務部隊が、敵を寄せ付けまいと前方を一斉射撃した。

 次弾を装填しつつ、レーンは敵部隊の動きを捉える。


「左右に回り込む気だわ! みんな、リョウイチを囲んで!」


 住民組が涼一の盾になるように二手に分かれ、持てる術式を乱射した。

 火力は圧倒的だが、遮蔽物の無い平面で、中央を守りながらというのは戦いづらい。


「がっ!」

「涼一くん!」


 彼らの防衛陣をすり抜けた矢が、身動きの取れない涼一の肩に突き刺さった。中島がすぐに矢を抜き、裂かれた傷に回復の術式を施す。

 射程範囲のギリギリで、守備兵は彼らを嘲笑うかのように走り回った。


「くそっ、鬱陶しい!」


 狙いをつけようとエアガンを構える花岡へ、ヒューが叫ぶ。


「後ろに回られた、気をつけろ!」


 振り返った花岡が見たのは、自分を狙って正に矢を射ようとする弓兵だった。

 次の瞬間、その兵の左手が身体から切り離され吹き飛ぶ。


「なん……!?」


 兵が倒れたその先に、リゼルの走り寄る姿があった。

 そのさらに後方から、ガルドが声を張り上げる。


「加勢する! アサミは所長の置き土産を何とかしろ!」


 ロド隊に並ぶ射程距離と、涼一たちよりも多い部隊人数。これで戦況は、一気に仲間側へ傾いた。

 味方が少しずつ戦線を押し上げると、中央にいる涼一にも余裕が出来る。

 彼は目的の遺物を、目の前の石盤にセットした。

 緑の殺虫剤、蚊取り線香が、場違いな滑稽さをものともせず鎮座する。


 ――まさか今になって、これを使うとはな。


 使い道の無い遺物だと、リュックの底に仕舞われたまま、アレグザからここまで放置していた。

 毒霧の術式は効果が弱く、蜂にすら効きそうになかった。煙幕に使えそうな量の煙も出ない。

 しかし、毒の遺物としては微妙でも、こいつには多重術式が組み込まれていた。

 螺旋の術式、ただ魔素を渦巻き状に流す効果は、今はこれ以上ない最適解だ。


 再び左手に形代を握り、右手で術式を発動させる。

 起動魔素にありたけの力を加えると、光の螺旋が空中に浮かび上がった。


 右回りの魔光が、少しずつ、これまで漂っていた流れを押し止める。ゆっくりと、だが着実に渦は静止に向かい、やがて完全に動きが鎮まった。

 涼一が期待を持って見守る中、下から押し寄せる魔素が、今度はじわじわと右に巻き始める。

 時計回りの渦を確かめると、彼は手をずらし、石盤に直接触れた。


「行くぞ……」


 転移の術式、今度こそ、目的地は日本だ。

 大学キャンパスを想い、彼に残る魔素を全て注ぎ込む。足りない分は、自分の体を媒体に、地下から上がる力を追加する。

 遠く離れてしまった故郷で微笑む愛海を、矢野を、帰還組の面々をイメージした。

 自分が帰りたいと願う気持ちは薄くとも、仲間を返したいという思いは本物だ。


 石盤の文字が光り、辺りが青一色に照らされた瞬間、新たに小さな魔法陣が彼の前に現れた。

 拳ほどの転移陣は徐々に拡大し、人がやっと通れるほどの大きさになると、そこで成長が止まる。

 小さくとも、これは世界間の転移陣だ。

 仲間に伝えようと涼一が叫ぶ間も無く、アメリアから歓声が上がった。


「開いた! ゲートが開いたわ!」


 敵の掃討に移っていた仲間も、一斉に声の方へ振り向いた。


「できたのね、お兄ちゃん!」


 ヒューとレーンが、無言で拳を挙げて成功を祝福する。山田も神崎も、花岡も小関も、持ち場を離れはしないが満面の笑みだ。

 ゲートが通じれば、やることは一つ。


「葛西、鳥居で街の人を連れて来てくれ!」


 涼一は特務部隊の三人にも叫ぶ。


「ロド、葛西の護衛を頼む」


 そして最後が若葉とアカリだ。


「形代の交換を手伝って欲しい、足元へ転がしてくれ。このゲートを維持するぞ!」


 指示を聞いたそれぞれが、即座に動き出した。

 美月がアレグザに戻り、住民を引率してくるには、下手をしたら半時間以上掛かる。

 ファイバー線を発動した時以上の長丁場が、この後の涼一を待っていた。





 これまでの生涯で、ここまで一所懸命走ったのは、美月には初めての経験だった。

 図書館の階段では膝が笑い、足を踏み外しそうになる。

 ミニ鳥居を前に、ぜーはーと吐きそうな息を吐く彼女を、ツカハが心配した。


「大丈夫か、カサイ。少し休もう」

「心配しないで……ハァ……ヘイダさん、肩を貸して……」


 ヘイダに支えられ、彼女は鳥居に手をつく。

 この疲労状態でも、転移陣はすぐに開いた。


「行ってきます……」


 ゲートを通った先は、噴水前だ。待機中の特務部隊兵に頼み、アレグザ全域に、帰還可能の通達を出してもらう。

 彼女自身は馬の後ろに乗せられ、嘔吐を堪えながら中央本部へ運ばれた。

 本部には、既に一報を耳にした矢野が待つ。


「矢野さん、みんなに知らせて。地球へ戻れるの!」

「聞いたよ、全員に伝達中だ!」


 時間との勝負と聞かされ、彼の動きも素早い。リディアとマリダも、この通達に走り回ってくれた。

 矢野は愛海と協力し、皆を鳥居前を集合させ、漏れが無いかチェックする。

 この間、美月は必死に回復に努めた。

 涼一の作業の困難さは彼女もよく理解しており、少しでも彼の負担を減らすためには、無理をしてでも魔素を吸収しなければならない。

 結局、壁に向かって吐き始めた美月の背を、マリダがさすってやった。


「頑張るのね、ミツキ」

「ありがとう……」


 こうしている間も、美月は形代を握ったままだ。

 地球に帰還を希望する住民は、全部で二十八人。彼らの前で、回復を終えた美月により図書館へのゲートが開かれる。


「みんな、全力で走って!」


 住民が順番に鳥居へ呑み込まれる。最後にくぐる美月を、従妹とその母が見送った。

 図書館屋上からは、約二キロの復路を待っていたヘイダと走る。

 先に着いた住民は、既にロドに連れられてゾーン中央に向かっていた。

 美月と並走するために、愛海はまだ出発していない。


「行きましょう、葛西さん」

「私より遅かったら、置いてっちゃうから」


 もう胃の中は空っぽだ。美月は涼一に向かって、猛然と駆け出した。





「次だ!」


 涼一が形代を投げると、アカリがそれを拾い、若葉が彼の手元に次の形代を転がす。

 もう何個目だろう。彼の体が青く発光しだしてから、既に二十分近くが経っていた。結晶化した魔素が、涼一の腕や顎からポロポロと落ちる。


 なんとか転移ゲートを維持しているが、彼の体力は限界に近かった。

 わずかづつ、上空の渦も大きくなってきている。

 周囲を警戒していたヒューが、皆に警報を出した。


「進入口の先、地平線上に敵、大軍だ!」

「マジかよ……」


 幻影兵を撃退し、へたり込んでいた山田が嘆く。


「どれくらいの数なんだ?」


 ヒューの答えは、聞いた神崎を落胆させた。


「万以上……この前のアレグザ防衛戦くらいかな」


 いくらなんでも、その数を相手にするのは無理だ。

 住民が間に合わなければ撤退しよう、そう皆が考えた時、ガルドが中央へ近づいて来た。


「あれは帝都の防衛軍だ。私が交渉してこよう」


 術式研究所の攻防は、帝都からもはっきり観測されてしまっている。ゾーンへ軍が派遣されるのは、当然のことであった。


「止められるのか?」


 ヒューが問う。


「分からん。だが、時間は稼いでくる。これで貸しを返せるくらいにはな」


 部下と共に砂塵へ向けて出発しようとしたガルドは、その寸前、青光りする涼一へ視線を送った。


「……まだ死ぬなよ」


 涼一が何とか小さく頷いたのを確かめると、彼らは走り去る。

 ここでようやく、一人目の住人がゾーン中央に到着した。


「こっちだ、形代を拾って、転移陣に乗れ!」


 神崎が指示を出し、住人を誘導する。

 帰還を望んだのは伏川の住人だけではない。術式研究所に向かっていたアメリアも、他の術士を率いて戻ってくる。

 涼一が開いたゲートを見た術士には、膝をついて泣き出す者までいた。


「泣くのは後にしなさい。早くゲートを通るのよ!」


 術士たちを並ばせるのは、アメリアの仕事だ。二人、三人、四人。口々に感謝の言葉を述べ、転移陣に乗る。

 ゲート前に集まった住人たちの方は、若葉が整理を担当して送り込んだ。


「時間が無い、テキパキ移動して! 行き先は日本よ」


 二十人、三十人と小さな転移陣から人が消えて行く。

 魔光の勢いは増し続け、皆の顔は真っ青に染められた。


「ありがとう、アサミさん」


 アメリアの礼に答える力は、涼一には残っていなかった。

 彼女を含め術士が全員転移し、残すは矢野と愛海と美月というところで、限界が訪れてしまう。

 突然の爆発音が、ゲート前に来た彼らの足を止めさせた。


「ぐああっ!」


 涼一の腰の弾が弾け、彼の右脚の肉を吹き飛ばす。

 衝撃に驚きながらも、すかさずアカリが再生の術式を発動させた。


「戻れっ!」


 涼一の半身が、時間を巻き戻し始め、何事もなかったように元の姿を取り戻す。


「何回もは使えない、遺物を捨てて!」


 大量の魔素にさらされたゾーン産の遺物は、ついに暴発を始めたのだった。


「リョウイチ!」

「死にたいのか!」


 レーンが手を伸ばそうとするのを、慌ててヒューが止める。

 涼一は薄れそうになる意識の中で、弾を、スリングショットを地面に投げ捨てた。若葉がそれを拾い、矢野たちに転移を急がせる。


「早く!」

「みんな、ありがとう!」


 叫びながら、矢野がゲートに乗る。次の愛海が足を踏み出した時、涼一の持っていた御神体が暴発した。

 空間移動の魔法陣が、スルスル広がり、日本行きのゲートの上に重なる。

 美月は愛海のポケットに紙を突っ込むと、転移ゲートに彼女を押しやった。


「手紙、うちの親に渡して」

「……うん!」


 図書館で寝る前に書いた、親への別れの手紙。最後の瞬間に、美月もここで生きる決心がついたのだった。

 帰還希望者の最後の一人が消えると、美月は涼一をつかもうと近寄る。

 しかし、もう誰の手にも負えない魔素量だ。撃ち抜かれたように倒れる彼女を、山田が抱えて運ぶ。


「お兄ちゃんっ!」

「涼一さん!」


 涼一を転移陣から出そうとする若葉とアカリを、ヒューや神崎が引きずって連れ戻した。


「リョウイチッ、逃げて!」


 御神体の転移範囲内から全員が退避しても、涼一はそこに留まったままだ。彼は既に意識を手放している。

 レーンが地面に爪を立て、歯を食いしばった。

 その目は青白く輝く青年を捉えて離さない。


 バチンッ!

 一瞬の破裂音の後、青い稲妻だけが宙を走る。


 仲間が見守る中、涼一は転移器のレプリカとともに姿を消したのだった。

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