092. 虫

 術式研究所所長は、未だハータムを滞在し、本拠である研究所には戻っていない。アレグザから頻繁に連絡を受けるには、帝都では少し都合が悪かったからだ。

 しかし、この日、所長に届いた知らせは、全てアレグザ以外のゾーンからのものであった。


 大陸各地から着く報告に、メリッチは苛々と書類を投げ出す。

 本日五人目となる連絡役の下士官は、理不尽な所長の怒りに見舞われた。


「こんな報告では、意味をなさん! 知りたいのは何が起こったか、だ。兵の被害数などではない!」

「げ、現場は混乱しているようでして……。信頼できそうな情報だけを集めると、その報告書のようになるかと」


 叱責を避けようと、口を閉ざされては不本意だ。

 部下の怯える姿に、メリッチは少し口調を落ち着かせる。


「大体、これは信用できる情報なのかね。第七ゾーンに龍などと、見間違いではないのか?」

「それに関しましては、多数の目撃者がおります。報告のあった時点では、まだ交戦中とのことでした」


 まだ部屋を訪れていないアレグザの情報報告員を呼ぶように、所長は命じる。

 退出した部下と入れ替わり、彼を待たせることなく担当官が現れた。


「お呼びでしょうか、所長」


 まだ定時報告には随分早い。


「街を出入りしている者のリストはできたか?」

「現在作成中です。すぐにお持ちできると思います」

「主要な者を、口頭で挙げてくれ」


 担当官は手にした革の書類挟みを開くと、人物リストの要約を述べる。

 アレグザに来るほとんどが、フィドローン王国の関係者だ。残りはナーデルから少し、連邦からも数人、どこからか聞き付けた交易商人も日々増えていた。

 街を出る人間も、その構成に違いは無い。


「ゾーン住人の動きは?」

「はっ、この数日、街の外で目撃された住人はおりません。監視員は二重に配置していますし、漏れは無いかと」


 第七、九のゾーンが、ほぼ同時に襲撃された。

 ナズルホーンから即座に戻ったことを考慮すると、敵は転移の術式を使用していると考えるしかない。


 ――しかし、なぜ、七と九なのだ?


「各ゾーンに、襲撃に備えるよう通達せよ。敵はいきなり現れると、注意を喚起しておくように」

「了解しました」

「私は研究所に戻る。ここは引き続き、各ゾーンの情報集積に利用する」


 起動者アサミが転移で移動しているのなら、どこに出現しても不思議ではない。

 まず対策すべきなのは、研究所のある第一ゾーンだ。そこには収集された遺物と、これまでの研究成果がある。


 ガルドたち研究所直属部隊の本隊に守られ、メリッチは帝都近郊の本拠地に帰還することになった。

 彼らが夜のハータムを発ったのは、涼一たちが大空洞の中心を調べていた頃のことだ。

 本隊が留守のうちに研究所を急襲できれば、涼一には最上の結果だったろうが、そこまで上手く事は運ばなかった。





 空洞中心地から図書館へ帰る道中、涼一は若葉に後ろを歩くように勧める。

 いつもは妹の好きに任せている兄の気遣いに、彼女は違和感を覚えた。


「どうして私をかばうの?」

「兄の務めだろ」


 涼一の嘘がバレずに済むほど、妹は鈍くない。


「……何かいるのね?」


 いい勘をしている。それくらいで納得してくれるように彼は祈ったが、その態度が若葉に隠し事の内容を悟らせた。


「虫ね。それも、強烈なやつ」


 観念した涼一は、妹に警告することにした。


「あのな、若葉。大したやつじゃないんだよ。術式で撃退できるレベルだ。たださ……」


 若葉の眉が跳ね上がる。


「ただ、何?」

「数がな。図書館に戻ったら、すぐに中に入ってくれ。キョロキョロするなよ」


 兄のアドバイスは、全くの無駄に終わる。

 図書館まで行かずとも、その手前で既に異変は起きていた。静かに光っていたはずの魔光のラインが、波打って明滅している。

 地面に広がる隙間だらけの黒い絨毯。彼らが帰るべき場所は、その黒色の波の奥だった。


「……道をつくろう。山田が先陣を切ってくれ」

「おう、バルサーだな」


 男二人は淡々としたものだ。

 かつて蜂相手にバルサーを使おうとした時、レーンはそれを止めた。

 魔素量が殺虫スプレーを遥かに上回っており、当時の涼一たちでは扱えないと判断したからだった。

 術式に慣れた今なら、虫相手にこれほど心強い武器はない。

 若葉は言葉を無くし、血の気が引いている。

 レーンが気遣かって、彼女に声を掛けた。


「ワカバは苦手だったわね、こういうの。私の背中についてきなさい」

「ありがとう……」


 若葉ほどではないが、アカリの顔も大概な強張り様だ。

 彼女には、美月が近寄った。


「私は平気なのよ、虫。ここは任せて、アカリちゃん」

「私もこれくらい! ……うぅ、お願いします」


 最後尾に回ったヒューへ、涼一は念のために相手の注意点を確かめる。


「こいつら、毒は持ってるか?」

「ああ。この量のキルファに噛まれたら死ぬ。きっちり退治しろよ」


 二人のやりとりを聞いていた山田が、何かを思い出し絶望的な顔になるが、なんとか気持ちを切り替えていた。


「山田、煙の方向を規定してから投げるんだぞ」

「分かってる。電撃と一緒だ、得意なジャンルだぜ」


 発動作業が不得意な山田は、素直にバルサーのパッケージを破る。

 術式を発動させつつも、地球式に着火させ、即座に建物の前へ遠投した。


 煙は緑色に発光し、入り口までの道を作るように二つに分かれて広がっていく。

 絨毯は沸き立つようにめくれ、カサカサという不快な音がはっきりと耳に届いた。地面とバルサーの魔光が、無数のムカデの身体に反射してきらめく。


 煙に触れたムカデは、藻掻く間もなく息絶えた。

 絨毯は涼一たちの前で綺麗に真っ二つに割れ、出エジプト記のような光景に、美月が感心して笑顔を見せる。


「凄いわ、山田くん! ムカデさんが全滅よ!」

「こいつらまで、さん付けかよ」


 そう言いながらも山田が嬉しそうなのは、彼女に名前をちゃんと呼ばれたのは初めてだったからだ。

 煙がある内に、涼一は冷弾で氷の壁を作って行き、建物入り口近辺の安全を確保する。突撃準備は完了だ。

 図書館までの短距離走、そのスタートの号令が掛かった。


「走れ、中に入ったら屋上へ!」


 駆け出した山田と涼一を、他の仲間が追いかける。

 ムカデは死んでいるが、絨毯が無くなった訳ではない。踏み締める度にペキペキと鳴る音と感触に、若葉は一々悲鳴を上げた。


「ヒィ! ヒィッ! ヒィィーッ!」


 見てはいけないと思うと、逆に見てしまうのが人間というもの。マジマジと地面を見たアカリは、美月の背中にへばり付く羽目になってしまった。


「た、たすけて……」

「なんのこれしき! 美月にお任せあれ」


 頼られて喜んだ美月は、必要以上にムカデを踏み潰し、いいところを見せようと頑張る。

 飛散する虫の体液は、アカリはともかく、若葉をさらに発狂させた。


「ヒィッ、なんか付いた! 手に付いたっ!」


 図書館の中に入った若葉は、狂ったように玄関マットに靴の裏を擦りつける。

 いつまで経っても止めないため、涼一が無理やり引っ張って屋上へ向かった。

 鳥居を前に、ヒューが問い掛ける。


「ここには、また来たい。転移の遺物を残していけないか?」


 鳥居、つまり図書館を残してアレグザに帰れば、往復の経路が作れる。空間転移すると、再び来るのは運試しだ。

 彼の言うことも理解できるが、涼一は御神体を取り出した。


「すぐまた来ても、あれに有効打が無い。後回しにしよう。来たけりゃ、何回でも空間転移するさ」

「む……仕方あるまい」


 ヒューの返事で、涼一は転移の発動に取り掛かる。この地獄から脱出できるということで、若葉は安堵の溜め息を吐いた。

 魔法陣が展開し、図書館の敷地いっぱいの大きさになる。

 皆が発動の衝撃に耐える中、転移の陣はさらに大きく、今までで最大を目指して広げられた。


「お兄ちゃん、ま、まさか……!」


 毒虫と聞いた涼一が、それを無駄にするはずはない。彼はニヤリと口許を歪める。


「悪魔……この人でなし!」


 妹の絶叫とともに、図書館は次の転移地へと消えていった。





 転移先がアレグザやナズルホーンなら、またバルサーの出番になるところだ。今回の出目は、涼一の期待に応えた。


「今度はどこだ!」


 図書館の背景に、暗い山肌が迫るように連なる。ゴツゴツした岩だらけの山を、杉に似た針葉樹が覆っていた。

 金属が衝突し、爆炎が上がる音。周囲では既に戦闘中だ。だが、涼一たちを狙った物にしては、音が小さい。


「山のゾーン。北東の第六ゾーンだ。ラズタ連邦は、ここまで進攻しているようだな」


 連邦の北国境から、帝国へ少し入った場所に、第六のゾーンは在る。ここが連邦領だったのは、大昔の話らしい。

 南部のナズルホーン回廊での開戦に合わせて、連邦はここにも戦端を開いた。あわよくば、このゾーンも手に入れよう、そういった思惑も透けて見える。


 涼一たちは、その戦闘区域の真っ只中に転移してきたのだ。

 ゾーンを守る駐屯兵と、派遣された帝国北方軍の一部が巻き込まれ、彼らの出現と共に掻き消えた。


「虫だ! 近寄るな!」

「焼け、魔石を持ってこい!」


 ムカデたちは魔素を浴び、断末魔の蠢動で這いずり回る。攻撃性を増した虫たちは、手当たり次第、目の前の生き物に噛み付いた。

 犠牲となったのは、仲間を転移で消されたばかりの帝国部隊である。


「ひぃっ、来るな!」


 ムカデの寿命は尽きようとしているものの、道連れにされた兵の数は多い。

 劣勢だった連邦は、この後、ゾーン近くまで戦線を上げてくる。北方軍が増援を要請する程度には、涼一たちの転移が帝国へダメージを与えた。


「長居は無用だな。さっさと次に行くぞ、葛西!」

「うん!」


 連続転移を予想していた美月は、惑うことなく御神体を握る。


「次は建物だけで行こう。魔法陣は小さめで」


 頷く彼女は、涼一並のスピードで転移を発動させた。山田たちの転移酔いが治りきらない内に、次の空間転移が始まる。


「さすがに連続すると、フラフラするな……」


 瞬きする間に変わった風景を、皆が見回した。頭を振りながら、涼一は恒例となった質問を放つ。


「ここはどこだ?」


 ヒューが腕を組んで、ゆっくり彼へ振り返る。


「ここにも避雷針があったか……。我が祖国へようこそ、リョウイチ」


 大陸の北西海上にある島国。

 リズダル自治共和国の霊山は、その一部を涼一によって削り取られてしまったのだった。

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