074. 叫び
剣虎が向かう先を決めたのは若葉だが、帝国兵を蹂躙したのは虎自身の本能に因るものだ。
進路を妨げる兵の腕を噛み砕き、その頭を前脚で払い飛ばす。
槍も、矢も、兵の反撃は硬質の体毛が弾き、みるみる内に剣虎の身体は鮮血で赤く染まって行った。
「なぜ剣虎がいる! 魔導兵はどこだっ!」
後衛の悲鳴で事態に気付いた者は、魔石の攻撃を要請する。
だが、このゾーンを生き抜いた剣虎には、術式攻撃も意味を為さない。
魔導の流れをくぐり抜け、最小の動きで敵の息の音を止める。
若葉の術式だけでなく、体内に蓄積した魔素が、着実に虎を蝕んでいた。
体から吹き出る魔光、魔素を感じ取る力、そして、戦闘だけを生きる目的とする精神の変容、それが剣虎の身に生じた変化だった。
途中までは虎を追いかけた若葉たちも、その勢いに付いて行くことができない。
虎は敵軍深く、楔を打ち込むように進んで行く。
走る若葉を、レーンが呼び止めた。
「ワカバ、深入りはいけない。あれはもう制御できないわ」
「あいつは……どこまで進む気かしら」
縦横に跳ね回る虎の周りには、淡いピンクの血煙が漂っていた。
「この辺りで一度戦線を作る。二人は下がっていろ」
ロドは特務部隊に命じ、弓兵の横列を平原に構築した。圧倒的な火力によって、撤退する敵軍を漸減させていくつもりだ。
アレグザに向かって未だ反撃しようとする討伐軍は、次第にその数を減らしていった。
◇
「閣下、林は危険です、あれに追いつかれる!」
クルーゼンの乗る戦闘馬車は、林道を走るには適していない。辛うじて道幅は足りるものの、速度を上げる余裕は無かった。
「フィドローン兵か? 魔導兵で反撃して近づけさせるな」
「違います、剣虎です! 猛烈な勢いで、こちらに来ています」
「なんだとっ!?」
モタモタと進む馬車は、虎にとっては止まる獲物に等しい。
咆哮が近づくとともに、参謀たちの精気は消し飛び、青白い顔で誰かが妙案を捻り出すのを待った。
「う、馬を捨てよう」
「馬鹿な、歩けば余計に食われるだけだ!」
馬車の中で、益の無い言い争いが続く。
林の中をいくらも進まない内に、ついに虎の姿が彼らの前に現れた。
「総員、虎を攻撃せよ!」
クルーゼンの命令も、受ける相手がいなければ虚しいだけだ。
いや、司令馬車付きの兵は、皆懸命に応戦している。
無敵の王者も、ここに来るまでに相当の傷を負っていた。それでも止まらない虎に、彼らは打つ手を無くしていたのだ。
「あの虎はなぜ倒れんのだ! 帝国軍ともあろうものが、獣一匹に何を手間どっとる!」
司令は馬車からひたすら喚き立てる。
その声は、剣虎の不興を買った。
大きく跳躍した虎は、一度木の幹にしがみつき、そこから再度ジャンプする。
車体を揺らす衝撃と同時に、クルーゼンたちの頭上の天板から、虎の爪が突き出した。
乗り合わせていた参謀は、慌てて馬車を飛び降りる。
屋根から跳んだ剣虎のたった一掻きで、三人の参謀が薙ぎ倒された。
降りそびれたクルーゼンは、横倒しになった馬車の中で頭を強打して意識を失う。
司令官用の馬車の近辺で生き残れた者は、二頭の馬と、動かない司令だけ。
剣虎の勝利の叫びが、林の中に響き渡った。
◇
剣虎の進撃が始まる直前まで、街の東方向に帝国軍の姿は見えなかった。
矢野から敵の撤退開始が伝えられると、中島はホッと胸を撫で下ろす。
しかし、東側が騒がしくなるのは、この時からだ。
進入口を監視する特務部隊の前に、新たな敵が出現する。
灰色のローブを着た、十人に満たない小部隊。東に配置された特務部隊の班長ツカハは、敵を認めると即、迎撃を命じた。
敵は初撃の通常矢を全てかわし、障壁の裏に隠れるように散開する。
この時点で、ツカハには相手が一般の兵士でないことが分かった。
矢は確かに射抜いていたはずだ。それなのに、着弾の瞬間、特務部隊員には敵の姿がブレたように感じた。
「火矢に換装せよ! どこから来るか分からん、見逃すなよ」
特務部隊が警戒する中、ローブの兵は壁を乗り越えて現れる。
四メートルの高さを苦にもせず、障壁内に敵がヒラリと降り立った。
「撃てえっ!」
炎が侵入者に目掛け放たれる。
中島は、敵襲を涼一に伝えると、アカリに助けを求めた。
「アカリちゃん、この子をお願い!」
「分かった、来て、有沙!」
街の中央で待機するように言われていた有沙は、中島を追って東口まで来てしまっている。
敵軍がいなければ、それでも良かったが、もうここは危険だ。
少女の手を引いて、アカリは駅前に戻る。
そのまま大通りを進むより、彼女は有沙を隠すことを選んだ。二人はサークルエイトに入り、商品棚の裏に回る。
「ここでじっとしてて。お姉ちゃんは、表で見張るから」
「うん……気をつけてね」
ついて来るなという言い付けを守れなかったためか、有沙は少しバツが悪い顔をしている。
彼女が中島を追いかけたのは、もちろん離れたくないというのが一番にあった。しかし、それだけが理由でもない。
中島だけでなく、アカリも若葉もこの小さい女の子には優しく、家族の代わりを務めようとしていた。
実際、本来の伏川町住民は少なくなり、助け合わないと生き残れない。
有沙もそれは理解できており、何かの役に立ちたいという思いが、ここまで足を運ばせたのだった。
彼女の手には、若葉に貰った吸血鬼の人形が握られている。
それだけでは不安に思い、少女は棚にあったモルロの縫いぐるみも引き寄せた。
サークルエイトの扉越しに、ウォーターガンを持つアカリが見える。
――みんなを守って……。
戦闘音は、コンビニにも届いている。
有沙は誰に願うでもなく、ただ見知った顔の無事を祈り続けた。
◇
「なぜ当たらん!」
火矢の攻撃範囲から、一瞬で抜け出す灰色の侵入者に、ツカハは苛立ちを隠せない。
それでも火炎の壁は、相手の足を止める役割を果していた。敵は引いては寄せる波のように移動し、やがて障壁へと大きく後退する。
現れた時と同様に、彼らは壁の高さをものともせず、壁面を蹴って駆け登っていった。
敵は皆、障壁の外へと消える。
――ただ姿を見せただけだと? 何のために?
ツカハはこの襲撃の意図に戸惑う。
敢えて特務部隊の攻撃を引き付けたのだとしたら――不穏な予感が、彼を叫ばせた。
「ナカジマ、街の中だ! あいつらは陽動だ」
障壁を見ていた中島は、すぐに街の中へ取って返す。
「敵はどこから?」
「分からん! 火矢に紛れたなら、この近くだ」
改札を抜け、駅前に出た彼女は、敵と交戦中のアカリに出くわす。
「アカリ!」
「二人いる、弾が当たらないのよ!」
噴水を挟み、敵の一人はアカリに向かって銃のような物を構えており、もう一人は大通りを中心へ走り去ろうとしていた。
「このっ!」
中島の水弾も、当たった瞬間に敵の位置がズレて外れる。
ローブの男は、先行した仲間を追随するため大通りに走り出た。
その背中を、緑光を放つ輪が追う。
敵に到達すると、やはりその虚影は掻き消えるが、戦輪はそのまま飛び続けて男の首を今度こそ捉えた。
「あれは影だ。本体を予測して撃たないと、倒せん」
血を噴く男から、ヒューは戦輪を回収する。
突如現れたリザルド族に、中島が武器を向けた。
「何者!?」
「中島さん、ヒューは味方よ!」
その名前は、涼一が皆に説明していたものだ。異様な外見だが、敵ではない、と。
初めて見る爬虫類の種族に動揺しつつも、中島は助力を感謝した。
「た、助かったわ。ありがとう」
「礼はいい、俺はもう一人を追う。アカリを頼んだぞ」
そう答えたヒューは、既に通りを疾走している。大通りには帰還組の住人も見えたが、もう姿を隠す気は無いらしい。
中島はコンビニに歩み寄り、アカリの無事を確かめた。
「怪我は?」
「大丈夫、あまり攻撃してこなかったし。有沙ちゃんは、この中よ」
コンビニの中を覗いて、二人が並び立った時、その瞬間だ。赤い光点が彼女たちの身体を貫いた。
中島は胸の真ん中を、アカリは腹から血を滲ませ、よろめくように回避行動を取ろうとする。
「中島さん、中へ!」
アカリはコンビニ前のゴミ箱を盾にするが、ダメージは大きい。
中島はさらに酷く、血の跡をなすり付けながら、這って店内へ入る。
進入に成功した敵は、もう一人存在した。三人目のくすんだ影が、扉口に立つ。
有沙の絶叫が、荒れ果てた駅前に突き刺さった。
◇
駅前で行われた戦闘を、有沙は全て店内から眺めていた。
トカゲの戦士が助けに来た時は、喝采を叫びそうになる。
――カッコイイ! 涼一おにいちゃんもカッコイイけれど、トカゲさんはもっとだ。
小さい頃から、恐竜や怪獣の絵ばかり描いていた有沙は、変わった女の子だと言われていた。
敵を追って消えたヒーローを見送り、早い退場を残念に思っていると、中島とアカリが相次いで地面に倒れ込む。
――ああっ、そんな!
小さな口を目一杯開けるが、声が出ない。
中島から流れる血に気付き、少女はフーフーと過呼吸を起こした。
――やめて!
有沙は目の前の光景を必死で否定するが、中島の這いずりは途中で止まり、アカリも立ち上がらない。
ツカハたち特務部隊は、再び進入口に近づいて来たローブの集団に手こずっており、駅前に姿は無い。
トカゲの戦士も、もう行ってしまった。
――来ないでっ!
コンビニの前に、黒い影が落ちる。
不吉な暗いローブが、とどめを刺そうと近寄って来た瞬間、有沙の声がやっと音を取り戻す。
「きゃあああああっ!」
この単なる悲鳴は、彼女の心の中でだけ意味を成していた。
――あれを倒して! あのワルモノを、みんなでやっつけて!
涼一が頭を捻っていたモルロの術式が、発動した瞬間だった。
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