074. 叫び

 剣虎が向かう先を決めたのは若葉だが、帝国兵を蹂躙したのは虎自身の本能に因るものだ。

 進路を妨げる兵の腕を噛み砕き、その頭を前脚で払い飛ばす。

 槍も、矢も、兵の反撃は硬質の体毛が弾き、みるみる内に剣虎の身体は鮮血で赤く染まって行った。


「なぜ剣虎がいる! 魔導兵はどこだっ!」


 後衛の悲鳴で事態に気付いた者は、魔石の攻撃を要請する。

 だが、このゾーンを生き抜いた剣虎には、術式攻撃も意味を為さない。

 魔導の流れをくぐり抜け、最小の動きで敵の息の音を止める。


 若葉の術式だけでなく、体内に蓄積した魔素が、着実に虎を蝕んでいた。

 体から吹き出る魔光、魔素を感じ取る力、そして、戦闘だけを生きる目的とする精神の変容、それが剣虎の身に生じた変化だった。


 途中までは虎を追いかけた若葉たちも、その勢いに付いて行くことができない。

 虎は敵軍深く、楔を打ち込むように進んで行く。

 走る若葉を、レーンが呼び止めた。


「ワカバ、深入りはいけない。あれはもう制御できないわ」

「あいつは……どこまで進む気かしら」


 縦横に跳ね回る虎の周りには、淡いピンクの血煙が漂っていた。


「この辺りで一度戦線を作る。二人は下がっていろ」


 ロドは特務部隊に命じ、弓兵の横列を平原に構築した。圧倒的な火力によって、撤退する敵軍を漸減させていくつもりだ。


 アレグザに向かって未だ反撃しようとする討伐軍は、次第にその数を減らしていった。





「閣下、林は危険です、あれに追いつかれる!」


 クルーゼンの乗る戦闘馬車は、林道を走るには適していない。辛うじて道幅は足りるものの、速度を上げる余裕は無かった。


「フィドローン兵か? 魔導兵で反撃して近づけさせるな」

「違います、剣虎です! 猛烈な勢いで、こちらに来ています」

「なんだとっ!?」


 モタモタと進む馬車は、虎にとっては止まる獲物に等しい。

 咆哮が近づくとともに、参謀たちの精気は消し飛び、青白い顔で誰かが妙案を捻り出すのを待った。


「う、馬を捨てよう」

「馬鹿な、歩けば余計に食われるだけだ!」


 馬車の中で、益の無い言い争いが続く。

 林の中をいくらも進まない内に、ついに虎の姿が彼らの前に現れた。


「総員、虎を攻撃せよ!」


 クルーゼンの命令も、受ける相手がいなければ虚しいだけだ。

 いや、司令馬車付きの兵は、皆懸命に応戦している。

 無敵の王者も、ここに来るまでに相当の傷を負っていた。それでも止まらない虎に、彼らは打つ手を無くしていたのだ。


「あの虎はなぜ倒れんのだ! 帝国軍ともあろうものが、獣一匹に何を手間どっとる!」


 司令は馬車からひたすら喚き立てる。

 その声は、剣虎の不興を買った。

 大きく跳躍した虎は、一度木の幹にしがみつき、そこから再度ジャンプする。


 車体を揺らす衝撃と同時に、クルーゼンたちの頭上の天板から、虎の爪が突き出した。

 乗り合わせていた参謀は、慌てて馬車を飛び降りる。


 屋根から跳んだ剣虎のたった一掻きで、三人の参謀が薙ぎ倒された。

 降りそびれたクルーゼンは、横倒しになった馬車の中で頭を強打して意識を失う。


 司令官用の馬車の近辺で生き残れた者は、二頭の馬と、動かない司令だけ。

 剣虎の勝利の叫びが、林の中に響き渡った。





 剣虎の進撃が始まる直前まで、街の東方向に帝国軍の姿は見えなかった。

 矢野から敵の撤退開始が伝えられると、中島はホッと胸を撫で下ろす。


 しかし、東側が騒がしくなるのは、この時からだ。

 進入口を監視する特務部隊の前に、新たな敵が出現する。

 灰色のローブを着た、十人に満たない小部隊。東に配置された特務部隊の班長ツカハは、敵を認めると即、迎撃を命じた。


 敵は初撃の通常矢を全てかわし、障壁の裏に隠れるように散開する。

 この時点で、ツカハには相手が一般の兵士でないことが分かった。

 矢は確かに射抜いていたはずだ。それなのに、着弾の瞬間、特務部隊員には敵の姿がブレたように感じた。


「火矢に換装せよ! どこから来るか分からん、見逃すなよ」


 特務部隊が警戒する中、ローブの兵は壁を乗り越えて現れる。

 四メートルの高さを苦にもせず、障壁内に敵がヒラリと降り立った。


「撃てえっ!」


 炎が侵入者に目掛け放たれる。






 中島は、敵襲を涼一に伝えると、アカリに助けを求めた。


「アカリちゃん、この子をお願い!」

「分かった、来て、有沙!」


 街の中央で待機するように言われていた有沙は、中島を追って東口まで来てしまっている。

 敵軍がいなければ、それでも良かったが、もうここは危険だ。


 少女の手を引いて、アカリは駅前に戻る。

 そのまま大通りを進むより、彼女は有沙を隠すことを選んだ。二人はサークルエイトに入り、商品棚の裏に回る。


「ここでじっとしてて。お姉ちゃんは、表で見張るから」

「うん……気をつけてね」


 ついて来るなという言い付けを守れなかったためか、有沙は少しバツが悪い顔をしている。

 彼女が中島を追いかけたのは、もちろん離れたくないというのが一番にあった。しかし、それだけが理由でもない。


 中島だけでなく、アカリも若葉もこの小さい女の子には優しく、家族の代わりを務めようとしていた。

 実際、本来の伏川町住民は少なくなり、助け合わないと生き残れない。

 有沙もそれは理解できており、何かの役に立ちたいという思いが、ここまで足を運ばせたのだった。


 彼女の手には、若葉に貰った吸血鬼の人形が握られている。

 それだけでは不安に思い、少女は棚にあったモルロの縫いぐるみも引き寄せた。

 サークルエイトの扉越しに、ウォーターガンを持つアカリが見える。


 ――みんなを守って……。


 戦闘音は、コンビニにも届いている。

 有沙は誰に願うでもなく、ただ見知った顔の無事を祈り続けた。





「なぜ当たらん!」


 火矢の攻撃範囲から、一瞬で抜け出す灰色の侵入者に、ツカハは苛立ちを隠せない。

 それでも火炎の壁は、相手の足を止める役割を果していた。敵は引いては寄せる波のように移動し、やがて障壁へと大きく後退する。

 現れた時と同様に、彼らは壁の高さをものともせず、壁面を蹴って駆け登っていった。

 敵は皆、障壁の外へと消える。


 ――ただ姿を見せただけだと? 何のために?


 ツカハはこの襲撃の意図に戸惑う。

 敢えて特務部隊の攻撃を引き付けたのだとしたら――不穏な予感が、彼を叫ばせた。


「ナカジマ、街の中だ! あいつらは陽動だ」


 障壁を見ていた中島は、すぐに街の中へ取って返す。


「敵はどこから?」

「分からん! 火矢に紛れたなら、この近くだ」


 改札を抜け、駅前に出た彼女は、敵と交戦中のアカリに出くわす。


「アカリ!」

「二人いる、弾が当たらないのよ!」


 噴水を挟み、敵の一人はアカリに向かって銃のような物を構えており、もう一人は大通りを中心へ走り去ろうとしていた。


「このっ!」


 中島の水弾も、当たった瞬間に敵の位置がズレて外れる。

 ローブの男は、先行した仲間を追随するため大通りに走り出た。

 その背中を、緑光を放つ輪が追う。

 敵に到達すると、やはりその虚影は掻き消えるが、戦輪はそのまま飛び続けて男の首を今度こそ捉えた。


「あれは影だ。本体を予測して撃たないと、倒せん」


 血を噴く男から、ヒューは戦輪を回収する。

 突如現れたリザルド族に、中島が武器を向けた。


「何者!?」

「中島さん、ヒューは味方よ!」


 その名前は、涼一が皆に説明していたものだ。異様な外見だが、敵ではない、と。

 初めて見る爬虫類の種族に動揺しつつも、中島は助力を感謝した。


「た、助かったわ。ありがとう」

「礼はいい、俺はもう一人を追う。アカリを頼んだぞ」


 そう答えたヒューは、既に通りを疾走している。大通りには帰還組の住人も見えたが、もう姿を隠す気は無いらしい。

 中島はコンビニに歩み寄り、アカリの無事を確かめた。


「怪我は?」

「大丈夫、あまり攻撃してこなかったし。有沙ちゃんは、この中よ」


 コンビニの中を覗いて、二人が並び立った時、その瞬間だ。赤い光点が彼女たちの身体を貫いた。

 中島は胸の真ん中を、アカリは腹から血を滲ませ、よろめくように回避行動を取ろうとする。


「中島さん、中へ!」


 アカリはコンビニ前のゴミ箱を盾にするが、ダメージは大きい。

 中島はさらに酷く、血の跡をなすり付けながら、這って店内へ入る。


 進入に成功した敵は、もう一人存在した。三人目のくすんだ影が、扉口に立つ。

 有沙の絶叫が、荒れ果てた駅前に突き刺さった。





 駅前で行われた戦闘を、有沙は全て店内から眺めていた。

 トカゲの戦士が助けに来た時は、喝采を叫びそうになる。


 ――カッコイイ! 涼一おにいちゃんもカッコイイけれど、トカゲさんはもっとだ。


 小さい頃から、恐竜や怪獣の絵ばかり描いていた有沙は、変わった女の子だと言われていた。

 敵を追って消えたヒーローを見送り、早い退場を残念に思っていると、中島とアカリが相次いで地面に倒れ込む。


 ――ああっ、そんな!


 小さな口を目一杯開けるが、声が出ない。

 中島から流れる血に気付き、少女はフーフーと過呼吸を起こした。


 ――やめて!


 有沙は目の前の光景を必死で否定するが、中島の這いずりは途中で止まり、アカリも立ち上がらない。

 ツカハたち特務部隊は、再び進入口に近づいて来たローブの集団に手こずっており、駅前に姿は無い。

 トカゲの戦士も、もう行ってしまった。


 ――来ないでっ!


 コンビニの前に、黒い影が落ちる。

 不吉な暗いローブが、とどめを刺そうと近寄って来た瞬間、有沙の声がやっと音を取り戻す。


「きゃあああああっ!」


 この単なる悲鳴は、彼女の心の中でだけ意味を成していた。


 ――あれを倒して! あのワルモノを、みんなでやっつけて!


 涼一が頭を捻っていたモルロの術式が、発動した瞬間だった。

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