070. 図書館
ナーデルからは、先の外交団に遅れて出発した馬車があった。自由都市に避難していた、リディアとマリダの親子である。
彼女たちはレーンのいる本部テントに案内され、家族三人で再会を喜び合った。
「途中で帝国兵の巡回に遭ってね。念のために遠回りしたら、こんな時間になったわ」
「母さんたちには、部屋を用意してる。街の建物だけど大丈夫よね?」
レーンは二人のために、レストラン二階の事務所を住居に改装していた。
「姉さんは、一緒に住まないの?」
「私はここで寝泊まりしてるから……」
マリダの顔色は良く、臥せていた時の病弱な面影は無い。
姉の回答に、彼女は訳知り顔で微笑んだ。
「ああ、そういうこと。邪魔しちゃ悪いわね」
マリダの言い様に、アカリが口をパクパクさせる。
腕がどうのと言い出したアカリを無視して、レーンは母に椅子を勧めた。
「寝所へ案内する前に、聞きたいことがあるの」
「……大事な話みたいね」
娘の真剣な瞳に、リディアも居住まいを正す。
テーブルの上に、涼一が風化した板切れを置いた。今朝、マッケイが拾ってきた物だ。
長年の雨風で丸みを帯びた文字が、板の表面に刻んである。
「リディアさん、これは地球の言葉で書いてあります。
“我が友ライアン・キール、ここにに眠る”
この名に覚えはありますか?」
瞼を閉じ、リディアが古い記憶を辿る。
彼女の思い出に、確かにその名前は存在した。
「キール。レンジローの親友ね。何度が話してくれたわ。一緒に転移して、ゾーンで殺されたと。あの人が帝国を嫌うようになった、最初の理由だった」
表書きは英語だが、裏はキールを埋葬した人物の名が、日本語で彫ってあった。
涼一は板を裏返し、今度はその文字を読む。
「“一九八七年、葛西連次郎”」
リディアは亡き夫の文字を、指でなぞった。
「そう、レンジローが書いたのね。どこにあった物なの?」
この問いに、涼一とレーンが顔を見合わせた。
「この街で、今日これと一緒に見つけたのよ」
レーンは鉱石の嵌まった形代を、板の横に並べた。娘の返答は母を混乱させる。
「どういうこと?」
聞きたい答えは得た涼一たちだったが、リディアを納得させるには、この後小一時間を要したのだった。
◇
リディアが来た日の朝、本部テントには、回収物を前に頭を悩ます涼一たちの姿があった。
街の北東部の異変に、最初に気づいたのは中島だ。彼女は奪回戦の最中、薬局へ向かう途中で、空地の出現を知る。
本来そこには伏川図書館があったはずで、妙に見晴らしの良くなった北東の空を、涼一も奪回の翌朝には気づいていた。
連次郎について教えられた神崎は、墓碑の文面を何度も確かめる。
「……それじゃあ、これはレーンの親父さんの書いたもんか」
マッケイによると、空地には平たい石を意図的に数段重ねた場所があったという。
そこには板が地中に半ばまで挿してあり、石で隠すように“形代”が埋まっていたらしい。
形代は、涼一の持っている物を大きくしたような形で、青い鉱物をガラス状の物質が取り巻いていた。
「これがアレグザにあるのは、おかしいよなあ」
「キールというのが父の友人なら、ナズルホーンに有るのが自然ね。ゾーンから脱出できたのは、父だけだったと聞いたわ」
母との会話を思い返し、レーンが答えた。
涼一たちも、図書館跡の現場は一度見に行っている。綺麗な正円で街が切り取られており、そこは石や瓦礫が転がる平地に置き換わっていた。
円を見た人間の抱く感想は皆似たようなもので、規模は小さいが、それは転移後の伏川町を思わせる。
「あそこにあったのは図書館だよな?」
「あの辺りにはよく通ったよ。図書館と、隣が新聞社だね」
神崎の質問には、矢野が即答した。翻訳業という仕事柄、彼が詳しい界隈だったようだ。
「他に何かありませんでしたか? どうも建物ごと転移したようにしか思えない」
涼一は、図書館とナズルホーンの土地が入れ替わった可能性を考えていた。
転移を誘発するような何かが、その近辺に存在したのではないだろうか。
「図書館だから、蔵書はあるけどねえ。隣が古い新聞社のビルで、新館の工事中だったかな。ああ、あの図書館は元々、稲荷神社のあった場所なんだ」
「もう神社は無いですよね? 俺たちも調べてみたけど、伏川神社以外は見当たらなかった」
矢野が不思議そうな顔をする。
「神社に何かあるのかい? 本殿は無くなっても、図書館の屋上に小さな社が建てられていたよ」
「えーっ!」
アカリが素っ頓狂な声を上げた。
一層困惑する矢野に、涼一が鳥居での転移経験を説明する。
神崎は知っていたが、全ての住民が涼一たちの経験を共有している訳ではない。
転移の遺物の存在を初めて聞き、矢野は早口で文句を垂れ流した。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ! 地球へ帰れる可能性だってあるんだろ? 帰還を願う住民は沢山いるのに」
「転移が絶対発動するわけじゃない。過剰な期待は禁物よ」
「それはそうだが……」
レーンに宥められ、矢野も声を静めた。
替わって神崎が、話を図書館へ戻す。
「ナズルホーンは、今、戦闘状態なんだろ? 図書館があっちへ転移したなら、住民が飛ばされたことも考えられる。戦ってるのは、そいつらじゃねえのか」
「助けに行きたいの?」
彼の顔は、できればそうしたいと言っていた。
「フィドローンを縦断することになる。遠いわよ」
レーンの言う通り、陸路は時間も掛かる上に、障壁の攻略も必要だ。
ただ、ナズルホーンのゾーンは海に面しているため、西側には壁が存在しない。
涼一は海路を提案する。
「海側から、侵入できないかな」
「船を使う気なら、フィドローンより、自由都市連合に頼むべきね」
レーンはナーデルを頼れと言う。
幸いにも、午後にはその外交団が訪れる予定だ。
図書館の所在を確認し、住民がいれば救出する。
転移の遺物と考えられる物が帝国に渡ることにも、一抹の不安がある。
ナズルホーンへ行かなくては、どれも解決はしない。涼一個人には、レーンの父の名に気掛かりな点もあった。
その目的のために、フィドローンを動かし、ラズタ連邦に発破を掛け、ナーデルを利用する。
彼らのこの日午後の交渉は、このような意図で行われたのだった。
◇
図書館消失のあらましと、その後の他国との交渉経緯を、リディアは質問を挟まずに聴き入る。
語ったのは、専らレーンだった。
説明が終わると、リディアからふーっと息が吐かれる。
「ずいぶん大きな話になってるのね。レーンがこの計画に参加するのは、リョウイチへの恩があるから?」
親子の視線が、涼一に向けられた。
レーンは、それは違うと言う。
「私の半分は、チキュウ人だって自覚したのよ。それもリョウイチと同じ、ニホン人らしい。この人の行く先に何があるか、私も見てみたい」
彼女は、自分がこのフェルド・アレグザみたいだと考える。帝国に抗し、この世界に立つチキュウの遺産。
リディアは柔らかい眼差しで、娘を見つめた。
「やれるだけ、やってみなさい。私たちのことは、心配しないで」
「……ありがとう」
娘の決意を確認し、リディアはアレグザの住まいへの案内を頼む。
レーンに連れられ、テントを出る時に、マリダが涼一に挨拶した。
「おやすみなさい。兄さん」
酸欠の金魚となったアカリが、モルロの頭を握り潰す。
「りょ、涼一さん!」
「お、おう」
アカリの気迫も中々のものだ。
「私も見ますから。行き先。頭からつま先まで!」
「今度は足か。……ほどほどに頼むよ」
名残惜しそうな彼女を送り出すと、本部テントには涼一だけが残された。
ハータムの帝国軍は、既にアレグザに向け出発したと報告されている。
ガルドの話を聞いて、尚この街に挑もうと言うのか。愚かな連中だと、彼は独り
しかし、その
ナズルホーンより先に、片付けるべき問題がある。
その夜もレーンが止めるまで、作戦テーブルの書類は積み重ねられていった。
◇
涼一たちがナーデル外交団と交渉していた頃、ガルドはハータム軍事都市に到着していた。
ハータムは帝国の南方軍の中心都市で、大陸南東に位置する諸国家への対応拠点である。
南方統括司令ダキ・クルーゼンの元に出頭したガルドは、そこでゾーン対策部隊司令の解任命令を受領する。
敗走した対策部隊は南方軍へ再編され、ガルド直属の部隊に関しては、追って指令があるまで待機するよう申し付けられた。
ガルドがまとめた戦闘経緯の報告書は、クルーゼン司令ではなく、別の人物に手渡される。
「ガルド・アイングラム、命により出頭しました」
「うむ、まあ掛けたまえ」
椅子を勧めたのは、デルロス・メリッチ選定侯、術式研究所所長だ。
眼光鋭い鉤鼻の所長は、貴族というより魔術師を思わせる風貌である。
彼が帝都からわざわざハータムにまで出向いたのは、ガルドに会うために他ならない。
「クルーゼンは、三万の兵をもってアレグザを圧殺すると言う。どう思うかね?」
メリッチに用意されたこの部屋は、作戦参謀用のものであり、地図や書類が机に積まれていた。
その一番上に、ガルドの報告書が乗っている。
「遠巻きに包囲し、兵糧を断つというのなら、妥当な作戦かと」
ガルドの答えに、選定侯は鼻を鳴らす。
「はっ、遠巻き、か。どれほど離れれば安全と言えるのか。ゾーンの外周? 壁の外?」
メリッチは手を組み、深く椅子に身を沈めた。
「報告書は読ませてもらったよ。私のところに連絡を入れたのは、賢明な判断だ」
「操術士への対処は、我が部隊では手に余るものでした。研究所所長殿であれば、何かお考えもあるかと」
自身の就任に反対したメリッチは、この事態を予見していたのではないか、そうガルドには思われた。
「転移の遺物を発動させ、街全域に及ぶ術式を使う。そんなことができるのは、もう操術士ではない。起動者だ」
「“起動者”とは?」
その単語は、ガルドの知らない言葉だった。
「ゾーンには、誰も発動できないような遺物が、往々にして発見される。その効果も分からないような物がね。それを発動させ得る者が、起動者だ」
メリッチは報告書をめくり、目当ての名前を探す。
「……アサミ・リョウイチ。この男は起動者だろうな。大量の住民を含むゾーンは、こういう並外れた存在を生む。何年と遺物の少ないものばかりが現れたせいで、帝国はゾーンの恐ろしさを忘れておるのだ」
術式研究所のメリッチが、起動者に惹かれるのは分かる。
ガルドの疑問は、ではなぜ自分が呼び出されたのか、だった。
「私の見た物は、全て報告書にある通りです。不審な点がありましたか?」
「有るとも無いとも言えん。この男の力はどれほどのものなのか。他に起動者たり得る者はいるのか。情報は全く足りとらん」
メリッチは身を乗り出し、ガルドの目を捉えた。
「貴殿もここで終わる男ではなかろう。新しい辞令だ」
そう言って、彼は帝国の公式書状を机に投げ出した。
ガルドは書状の封を切り、自身の新しい任命先を知る。
「これは……私の仕事は、やはりゾーンですか?」
「君と君の部下の身は、私が預からせてもらった。研究所付きの対術式部隊司令、対する相手は、そう、ゾーンだよ」
研究所の直轄部隊は、数は少ないが最新鋭の装備に恵まれた隠密部隊だ。その活動内容を知る者は少ない。
「現場を見て、遺物の恐さを知った者でなくては務まらん仕事だ。軍でも君は、なかなか煙たい存在のようだな。うちへ貰うのに、さほど苦労は無かったよ」
メリッチは傍らにあった書類鞄を、ガルドに差し出した。
「我々の目的は、起動者アサミの確保だ。研究所と直轄部隊について、これを精読しておくように」
ガルドは重い鞄を受け取り、軍礼をもって退出する。
アサミ・リョウイチとの因縁は、まだ終わらない。
疼く左の頬に手を当て、彼は宿敵の顔を思い出すのだった。
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