049. 山田パンチ
アカリが警笛を吹くまでに、山田たち収容所の住民は脱走の準備を終えていた。
彼らが手に入れた水袋は、今朝の追加を含めて四つ。これは、テント内にいる脱出計画メンバーの中で、術式使用に慣れた人数と同じだ。
アカリも加えば、術式を思い通り使えるのは五人になる。
既に使用経験のある山田。エアガンで感覚を掴んでいた神崎。彼らに言われて、一週間練習した中島と松木。
松木は自身の眼鏡を使って、中島は山田に借りた遺物で、術式発動を繰り返した。今は二人とも、簡単な術式なら難無く使える。
その中島が利用した山田の遺物というのが、彼の家の鍵だ。チェーンから外して、山田の靴の中に隠していた銀色の鍵にも、術式は組み込まれていた。
魔素を注入すると、やはり不思議な効果が発現する。“解錠の術式”は、この世界でも珍しく、兵たちの想定外だった。
この遺物を使い、兵の目を盗んで、足枷の鍵を
次に水袋へ、中島の薬を溶かし込んだ。
収容テント中央の
袋に水を注ぎながら、彼は手に隠しもった薬の粉末を瓶にも入れた。
神崎の傍らに、監視兵が一人。山田の近くにも一人。残りはテント入り口の両脇、捕虜を見渡せる位置に二人。
住民の行動にすぐ反応できるのは、その四人だけだ。
脱出計画には、最終的に半数、山田らを含めて十五人が参加することになった。他の住人も足枷を外す予定なので、ついてくるかは彼らの自由意思に任せてある。
神崎が工作を終えた時、アカリの笛が鳴った。
「おらっ!」
彼は手で瓶の水を
「おい! うぅ……」
山田と中島の動きも速かった。
中島は水袋の口を開け、山田の近くの兵に向けて水を振り撒いた。
山田自身は入り口まで駆け、槍を構えようとする二人の監視兵に同様に水をかける。
「う……? あ……」
「ふぁ……」
四人の監視兵は全員、糸が切れた操り人形のように、グニャリと地面に倒れてしまった。
“催眠の術式”、不眠症の中島が持っていた睡眠導入剤の効果である。
皆で兵の兜を外し、バケツ代わりに水瓶から水を汲む。
この間、松木は鍵で住民たちの枷を外して回っていた。
「睡眠導入剤、めちゃくちゃ効くなあ、おい」
神崎は、エアガンを初めて撃った時より興奮していた。正に魔法といった術式を自分が使えたことが、純粋に嬉しかったのだ。
「外にいる兵にぶっかけたら、制圧できるかもな……」
山田は何やら、良からぬことを考え出す。
彼は水瓶に腕を突っ込み、余った水で全身を濡らし始めた。
「いや、こっちの方が効率いいかな、と」
神崎の視線に、山田は思わず言い訳をする。
天幕の隙間から外を窺っていた中島が、ゴーサインを出した。
「誰もこっちを見てないわ。今よ!」
住民たちは、山田を筆頭にテントを飛び出した。
中島と松木は、他の捕虜収容テントへ。神崎ら住民は、馬車の制圧と武器奪取に向かう。
見敵必睡、山田は尋問室に急ぎつつ、獲物を探すハンターとなった。
◇
捕虜の脱走は、直ぐに兵たちの知るところとなるが、殺害は禁じられているため、再拘束は尽く失敗した。
何せ水を浴びるだけで、気を失うのだ。槍や弓を構えて威嚇したところで、実際に攻撃しなければ、山田たちを止めることはできない。
「山田パーンチッ!」
山田と敵兵の間は数メートルは離れており、渾身のパンチも届くはずはなかった。しかし、振り切った拳から飛ぶ雫が当たった兵は、ほぼ無言で崩れ落ちていく。
他の兵から見れば、達人級の魔拳にしか思えない。
「何だコイツは! 波動を飛ばしてくるぞ」
「ダメだ、奴の間合いは化け物だ!」
楽しんではいけないと分かっていても、山田は一騎当千の活躍に酔い始めていた。
「あたぁっ、山田キーック!」
「避けろ、後ろから行け!」
回り込んだ兵が、山田を背中から羽交い締めにしようと飛び付く。
そんな血相を変えた兵も、山田の手に触れると、やはり無抵抗に意識を刈り取られてしまう。
「貴様っ、バイゼル流柔術の使い手か!」
帝国東部に伝えられるバイゼルを始祖とする流派は、日本の合気道に似ている。
もちろん山田がその名を知るはずはなく、それ以前に、未だ帝国兵の言葉は理解できないままだった。
「山田流睡拳、その名を胸に刻め!」
微妙に会話が成立しているのは、彼の隠された特技だろうか。
尋問小屋までに二十名余の槍兵が彼の前に立ったが、最後は奥義回転睡斬破で全員が白昼夢に旅立った。グルグルパンチのような技は、名前ほど見た目が良くないのが残念だ。
水袋で水分を補給し、ビショビショに服を濡らした山田は、ゆっくりと尋問小屋の扉を開ける。
「何者だ!?」
アカリを抑えていた兵が彼女から離れ、腰の短剣を抜いた。その僅かな時間で、山田流には充分だ。
「ハッ!」
「きゃっ!」
山田がデコピンのように指を弾くと、兵は剣を持ったままアカリの上に倒れ、寝息を立てる。
クラインも剣を構えたものの、彼がどうやって攻撃したのか理解できない。
「そ、それは術式か?」
男に言葉が通じないのは、クラインも重々知っている。それでも、得体のしれない攻撃に思わず彼は尋ねてしまった。
「山田流、推して参る」
「う……お……」
テーブル越しに、サンダーでも放つように山田が両手を突き出すと、障壁部隊参謀も睡魔に屈した。
「……山田クン、行きましょ」
兵の下敷きから脱出したアカリは、呆れた顔で山田を促す。
二人はクラインを放置して、馬車へと向かった。
◇
ゾーン対策部隊司令官ガルドは、警笛を聞いて外に飛び出した。
やがて戦闘音が聞こえ出す頃、血相を変えて伝令がやってくる。
「捕虜が脱走しています。輸送馬車を確保するつもりのようです!」
「操術士の手引きか。いつの間に入りこまれた……」
狙撃班の怠慢なら、まだいいとガルドは思う。これが新手の術式によるものなら、対処には慎重になるべきだ。
「住民への牽制攻撃を許可する。魔導兵部隊は障壁防御に回せ。本部直轄の騎兵部隊は、出撃準備だ。馬車を奪われるようなら、追跡して捕縛せよ」
「はっ、了解しました」
ガルドは操術士たち少数による奇襲を想定していた。事実、大部隊の足音など聞こえておらず、何らかの隠密工作で陣内へ潜入されたと考える。
術式戦闘に備えて魔導兵は温存した。ゾーン住民たちは非戦闘員として、敵戦力の勘定外だ。これらの判断は、結果として、最悪の失態となってしまう。
ド・ルースよりも術式に知見のあるガルドだったが、通常戦闘で武勲を積み上げてきた将であることに変わりはない。
彼もまた、術式が、遺物が何たるかは、これから思い知ることであった。
◇
神崎率いる住民たちは、山田に比べ、もう少し苦戦していた。催眠の術式を使える者が一人しかいない上に、敵に弓兵隊も出動していたからだ。
水袋を持っていない住民は、神崎が敵から奪った槍などで武装し、兵の圧力を凌いでいる。
馬車を取り囲む形は作れたものの、神崎の術式だけでは敵と睨み合うのが精一杯だった。
「中島と松木はまだかよ。俺一人じゃ、もたないぜ」
彼らを取り囲む兵は、四十名ほど。結果として囮役になったので、中島たちは楽に動けている。
二人がそれぞれテントに入って、まだ数分も経っていないが、待ち切れない神崎は苛々と水を撒いた。
「説得とかしてるんじゃねーだろうな……」
二人が他の住民相手に脱出を説いていると、無駄に時間を費やしてしまいかねない。援軍が来る前に、彼はこんな場所からオサラバしたかった。
このまましばらく膠着状態かと思われた矢先に、帝国軍に司令官からの直令が飛ぶ。
「捕虜への攻撃を許可する。殺しさえしなければ、傷を負わせるのは構わん!」
ガルドの指示は、すぐに全軍に伝達された。
馬車を囲む住民たちへ、脚を狙って遂に矢が放たれる。
「ぐあっ!」
「ひぃ、神崎さんっ!」
遠距離からの攻撃を受け、形勢は一気に住民の不利へと傾いた。睡眠水では、弓兵の相手は難しい。
「怪我人は馬車に乗れ! 木箱を盾にしろ!」
降ろしたばかりの積み荷に隠れ、神崎たちは何とか身を守ろうとする。
「まずい、何でもいいから早くしてくれ!」
水袋を片手に、収容テントに向かって神崎は叫んだ。
この住民への攻撃に、リゼル率いる狙撃班は参加していない。一週間待ち続けたリベンジの相手を、彼らは地平線上に見つけたからだった。
◇
リゼルたち狙撃班は、涼一たちが近づくのを発見すると、しばらく観察を続けた。
彼らとの距離が百メートル以下に狭まるのを待って、三名による狙撃が始まる。致命傷を与えない精密射撃には、その距離が必要だった。
涼一の両太腿へ、正確に矢が撃ち込まれる。
全力で走っていた涼一は、前転してアレグザ平原を滑っていった。
まず一人、そう考えたリゼルは、すぐにそれが間違いだと見せつけられる。
レーンが涼一に刺さった矢羽根をナイフで斬り落とすと、彼は矢を自分で引き抜いた。
そして何事も無かったように、またこちらへ走り出す。
「なぜ走れる!?」
操術士の異常な回復力を、薄々感じてはいた。だが、これ程とは。
「目標を魔弓の女に変更せよ! 操術士は後回しだ」
あの厄介な魔光を帯びた弾は、まだ飛んで来ていない。仮に使われても、追魔の矢で手を封じればいい。
前方のローブの少女が、魔弓を腰から抜く。
今から魔弾を撃たれても、こちらが先にダメージを与えれば、リゼルたちへ弾は届かないだろう。主体が傷つけば術式の弾は落ちる、そういうものだ。
少女の攻撃姿勢を気にせず、追魔の矢が射られた。
三本の青い軌跡が、少女に向かう。
――魔弓で攻撃してこない?
発射されない魔弾にリゼルが不自然さを感じている間にも、追魔の矢が目標に着弾する。
そのはずだった。
狙撃隊の矢が当たったと思われた、その直後には、魔弓の少女までが平然と接近を続けてくる。
「外した! いや、そんなはずは……」
一瞬の狼狽の後、リゼルは何をされたかを理解した。
――あの女、矢を魔弾で撃ち落としやがった!
この時、レーンは涼一の指示で防御に徹していた。
前に出て先行しがちな彼女は、無防備に狙われやすい。狙撃の危険を考えて、敵弾を見るまで、自らは攻撃しないようにと言われていた。
手元まで引き付けて、敵矢を確実に迎撃する。弾の圧力が増した、真の“重飛の弓”だからこそできる芸当だった。
女が防御を担当する。とすれば、攻撃は――。
爆音が地を揺らす。
狙撃隊の位置を確認したレーンの指示で、涼一のニトロが撃ち出された。
「がっ、た、隊長!」
爆風をモロに浴びた隊員が、隠れていた小さなテントの外に弾き出される。
「位置がバレた、場所を変えるぞ!」
狙撃地点を変えようと、後方に退いたリゼルの前に、異様な男が立っていた。
――汗、いや、泳いだのか? アレグザで?
「寝とけ」
山田に顔を鷲掴みにされ、リゼルは深い眠りに就く。残りの二人の狙撃兵は、既にアカリによって沈黙させられていた。
山田たちは、ようやく再会する仲間に向かって手を振る。
「涼一、こっちだ!」
「涼一さんっ!」
予期せぬ助けの登場に、二人の顔は、一週間ぶりの明るさを取り戻していた。
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