020. 剣虎、再び
「ここを出るには、一つ問題があるのよ」
彼女の説明を聞いて、彼は頭を抱えそうになった。
だからと言って、ここで諦めては蜂を撃退した意味が失せる。
山田、アカリ、小関、大門の蜂攻略組は、術式の威力を十分理解したはずだ。彼らを主力にして、涼一とレーンは虎への方策を練った。
若葉とアカリ、そして涼一が先頭グループへ。
小関と大門が最後尾に回り、彼らで救出した人たちを挟む。まだ動きの鈍い者もいるので、山田は中央でサポート役だ。
レーンは例によって、遊撃と索敵を。
移動時の順番は、これでいい。剣虎への対処、これが難題だった。
既に薄暗く、本格的な夜になれば、またカラスと虎に挟み撃ちされる。
術式を弱点としていることから、レーンは火炎で焼くことを涼一に提案した。
実際、若葉によると警官の拳銃は術式化し、いくらかでも生存者を出すことに成功している。それでも、いくらか、だ。
正面切って闘えば、また犠牲者を出しかねないため、彼は脱出を最優先とした。
「小関、大門、これを持ってくれ」
涼一が差し出したのは、コンビニで手に入れていたガムテープだ。
「山田はあれを」
三階隅にあった消火器を指すと、山田がいそいそと取りに行く。
「若葉とアカリはライトを持って、虎が来たら全力で照らしてやれ」
もう一つ、武器が欲しい。誰も持っていないだろうと思いつつも、涼一は一応皆に尋ねてみた。
「接着剤はないか? 瞬間接着剤とか良さそうなんだけど」
全員が首を横に振る。
「あの…… 職員室なら、液体のりがあるわよ?」
手を挙げて発言したのは、教師の佐伯祥子だ。
まだ若い先生で、涼一と入れ替わりに赴任したため面識はない。地味なスーツの胸ポケットに蛍光ペンや赤鉛筆を挿し、実直そうな印象を与えていた。
「うん、のりの方がいいかもしれない」
彼の言葉に、先生は少し嬉しそうだ。
レーンと話し、作戦を考える涼一は、すっかりリーダーとして認識されていた。
「頼りになるのよ、お兄ちゃんは」
彼の心を見透かしたのか、若葉が笑った。
「そうです、涼一さん。若葉もいつも自慢してました」
アカリが賛同するが、“涼一さん”に反応した若葉の微妙な顔には気づいていない。
「職員室の場所は――」
「あっ、それは知ってます。卒業生だから」
そうなの? という顔の先生。可愛らしい雰囲気の人だから、男子生徒には人気がありそうだ。
職員室は正面玄関の上、二階の左端にある。
皆は慎重に三階から下り、辺りを窺う。
「ガムテープで侵入路を制限してくれ」
「了解」
「OK」
後輩たちが、テキパキと動く。
犯行現場を保護するテープのように、廊下や階段にガムテープの通行止めを作るのが目的だ。
粘着の術式で、テープは簡単には剥がれない。強度は低いが、虎の足止めになるのを期待していた。
三階と二階廊下からの不意撃ちを封じると、攻撃方向は一階からだけ。自分たちが逃げる方向も減るものの、警戒はしやすくなる。
下階から虎が来るようなら、山田に頑張ってもらおうと、涼一は彼へ顔を向けた。
「おっしゃ、任せとけ」
あちこち焦げたシャツの山田が、消火器を構える。それがさっきあれば焼けずに済んだのにと思うと、妙に可笑しい。
残りのメンバーで職員室に入り、めぼしい物が無いか探索する。
床も机の上もグチャグチャで、転移後の混乱が想像できた。
自分の机に直行した佐伯先生は、漫画のようにピョンと跳ねる。
「ありました!」
「よし、他にもあれば、全部集めてほしい」
教員たちの机から、合計四つの液体アラビアのりが手に入った。
“目的は機能を規定する”、そのレーンの言葉が示すものを、殺虫剤やカイロが実演してくれている。
術式が本来の道具の使い方を強化するのであれば、のりは強烈な粘着作用が期待できた。
山田は家捜しに夢中になり、ロッカーから防災グッズまで持ち出す。
あまりグズグズしてられないため、山田を急かして職員室を出た涼一は、皆に最後の確認を行った。
「ここから駅前まで走る。武器を持たない者は、立ち止まらないでくれ」
「生徒を置いて逃げる訳には――」
「いいから走れって」
先生の言葉は、涼一が最後まで言わせない。
成人メンバーの体力はかなり回復しており、学生組より元気に見える。もっとも彼らは昨夜、虎の恐怖を味わっている分、表情は優れない。
「行こう」
今日、何度目か分からない号令を掛けた涼一に合わせ、総勢十一人の一行が動き出した。
校舎内は静かで、彼らの階段を駆け降りる足跡だけが響く。
無事に玄関までたどり着き、涼一が安堵しそうになった時、レーンが右手を挙げて合図した。
「リョウイチ、いる」
レーンの視線の先に目を向けると、彼にも剣虎の姿が確認できた。
玄関を出た先、校門との中間地点辺りだ。彼女が蜂を相手に、魔弾の網を張った場所に近い。
待ち伏せとは、陰険なことをしてくれると唸りたくなる。
足を封じようとしても、開けた外ではやり辛い。
「あいつの手足に、のりを当てたいんだがな……」
「矢で援護しても、微妙ね」
そうまで素早く動くと聞き、涼一は本当に声を出して
他に使える手段を求めて、彼は手持ちの道具を思い返す。
ガムテープ、消火器、のり、防災用品、携帯食――。
「――そういやレーンは、昨日、コンビニの食事を食べなかったよな。なんでだ?」
「魔素の塊だからよ。あなたたち、よく平気だと思うわ」
「ふーん……なるほどね」
彼はリュックを開け、ゴソゴソと漁り出した。
手に取った食糧を見て、レーンが咎める。
「後にしたら? リョウイチが食事になるわよ」
「いや、食べるんじゃない」
――魔素で強化されるなら行けそうだが、どうだ。また今回も、分の悪い賭けだな。
彼が皆に作戦を伝えると、山田が呆れた声を上げる。
「そりゃ、涼一が言うならやるけどよ……」
「私は信じます!」
アカリが送る涼一への視線が熱い。
若葉は逆に、冷めた目で兄を問い詰める。
“アカリに何をしたの? お兄ちゃん”
“いや、断じて何もしてない”
無言で会話した彼は、誤魔化すようにレーンへ目を逸らした。
「チャンスは作る。仕上げは頼むぞ」
ガチャッ。
彼女は魔弓を三叉に開き、返事代わりに掲げてみせた。
再始動だ。
涼一の静かな合図とともに、山田以外の学生五人とレーンが、ほぼ一塊となって剣虎へと走る。
彼らの動きを警戒していた虎は、既に前傾姿勢に移っていた。
危険であろうが、もっと距離を詰めたい。
「ライトっ!」
若葉とアカリが、虎に向かって非常用懐中電灯を照射する。二人が充電ハンドルを猛烈な勢いで回すと、バチバチと火花が散った。
強烈な光に照らされ、虎は思わず顔を背ける。
これで三歩稼げた。
――届くか……!?
涼一は包装の中に手を突っ込み、ドライフルーツを握り締める。
――こいつ、こんなナリでも猫科だよな?
彼が虎へと投げつけたのは、地球の甘味、乾燥キウイ――狙うはマタタビの効果の発動だ。
全部くれてやるとバラ撒いたキウイを、虎は鬱陶しそうに前脚で払いのけた。
ドライフルーツが虎の回りに散らばるものの、術式発動の光は無い。
剣虎は肩を低くして、彼らへ跳びかかる姿勢を見せる。
失敗だろうか。キウイが効かないのであれば、当初の案通り、一か八かのりの出番だが……。
彼がアラビアのりを手にしたその時、虎の身体がゆらりと横に揺れる。
「発動してる! 透明で見えないだけだ」
よくよく目を凝らせば、陽炎のように虎の前の空気が歪んでいる。
グルルと喉を鳴らす低い唸りは、剣虎が苛立った証であった。普段なら素早く獲物の喉元を狙う猛獣が、脚をバタバタとふらつかせる。
「今だ、のりを!」
涼一と妹、さらにその友人の三人が、アラビアのりを勢いよく放り投げた。
涼一ののりは顔へ、他の二つは虎の手前へと落ちていく。これでいい。
「魔弾よ、縫いつけろっ!」
三つの矢が投げた容器に突き刺さり、のりを撒き散らしながら剣虎を狙う。
猛獣の両前脚と右後ろ脚に、粘着するジェルを運ぶのが矢の役目だった。
のりの術式が放つ光と混じり合い、赤い魔はオレンジに変色する。
矢は正確に虎の脚先へと着弾し、液体のりはべったりと地面に広がった。
酔った虎は、固着の術式に絡め捕られる。
不愉快な拘束を受け暴れる虎に、小関と大門が追撃を加わえるべく近づいた。
二人は伸ばしたガムテープの両端を持ち、虎の両脇を駆け抜ける。
「こいつをくらえ!」
虎の顔に貼り付けられるテープの目線。少し遅れ、山田も虎の前に立つ。
「術式、縛虎」
アラビアのりの容器上部を外した彼は、ドボドボと虎の頭からのりを注ぐ。
剣虎の怒りは天を衝いていたが、重ねられた束縛には、どうしようもない。
駄々をこねる赤子のように、首を振って暴れるだけだった。
「いつまで保つか分からん、急げ!」
成人組に声を掛け、涼一自身も走り出す。横に並んだレーンが、降参だと両手を軽く挙げて彼を称えた。
「やるわね、リョウイチ」
「レーンがいるからこそだな」
「使わなくていいの、あれ?」
彼女の言うのは、山田が重そうに背負う消火器だ。
これを虎に浴びせれば、ひょっとして倒せるのかとも考えたものの、脱出優先だと思い直す。
「……いや、いい。 切り札は取っておこう」
これからを考えると、手持ちの武器は多い方がいい。
そろそろ涼一も、この世界の生き延び方を学び始めていた。
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